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SKY  作者: RUI
BASE UNION

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61/125

Sky61-英雄でない理由-

本作『SKY』は作者本人が小説家になろうにて連載・管理しています。無断転載・無断利用を禁じます。

 



 翌日の格納庫は、いつも通り静かだった。必要のない音がしない。

 機体は列で並び、床のガイドラインから一ミリもはみ出していない。整備用の台車も、工具箱も、色と番号で区分されている。どこに何があるか、一目で分かる。分かるのに、胸が落ち着かない。

 アスミはセリの後ろを歩いていたが、通路の端で立ち止まった。

 ヴィーラの影が、床に落ちている。腕と脚のある影が、天井の照明の数だけ重なって、輪郭を四重にしていた。自分がその影の内側に立っていることを、少し遅れて意識する。

 奥で、工具の音がひとつ、遅れて止まった。振り返ると、機体の腹の下から人が顔を出すところだった。整備服の袖を肘までまくり上げ、片手に端末、もう片手にウエスを持っている。

「……あ」

 声にならない声を出して、男は動きを止めた。アスミと目が合って、困ったように口角を上げる。

「ごめん。通る?」

 それだけ言って、半歩だけ下がった。道を譲る、というより、そこにいることを思い出したみたいな動きだった。

「いえ……大丈夫です」

 アスミが答えると、男は「そっか」と短く言って、また機体のほうへ視線を戻す。興味を失った、というより、最初から深く見ていない。

 端末を操作する指が、少し早い。画面を覗き込む目は真剣なのに、表情はどこか気が抜けている。

 近くで別の整備員が呼んだ。

「ケニー、それ終わったら次こっちな」

「はいはい」

 軽い返事。敬礼もない。気負いもない。

 ケニーと呼ばれた男は、最後に機体を一度だけ見上げてから、アスミのほうをちらりと見た。今度は目が合わなかった。

 それだけだった。なのに、アスミは自分の立っている場所を意識してしまう。通路の真ん中。ヴィーラの影が落ちる位置。

 理由は分からない。ただ、胸の奥に、小さな引っかかりが残った。

「アスミ、自分の装備確認しとけよ」

 セリが、少し離れた自分の機体のところから呼ぶ。

 アスミはそちらへ顔を向けると、何も言わずに歩き出した。背後で、また工具の音が鳴り始める。


   *


 自分の機体の前に立つ。整備担当の二人が、端末を見ながら作業を進めていた。ひとりは若い整備員、もうひとりは班長格らしい男で、袖口に細い識別色が入っている。

「REDROSE、点検対象は脚部と腹部。昨日の帰還ログ、こちらで反映済みです」

 班長が言う。口調は丁寧だが、言い切ってから目だけ端末に戻る。

「ありがとうございます。……あの、これ」

 アスミは腹部パネルの下、交換済みの部品を指さした。外見は同じ。けれど留め具の角が、前より硬い形に変わっている。

「この部品、前と違いますね」

 班長の手が止まった。若い整備員が一瞬だけ顔を上げて、また下げる。

「規定更新です。第三改修ロットに切り替わりました」

「……前のロット、在庫切れですか?」

「在庫はあります。ただ、使用優先順位が変わったので」

 班長はさらりと言う。言い方が、配給の説明みたいだった。

 アスミは留め具の角を指先で軽く押した。硬い。冬場の手袋だと、操作が半拍遅れる。緊急時に、その半拍は嫌だ。

「前のほうが良くないですか?」

 声は荒げなかった。ただ、はっきり言った。

 班長が端末から目を上げる。初めて、アスミの顔を見た気がした。

「良い、の定義が変わったんでしょう。今は〝整備性〟と〝統一性〟が優先です」

「操縦側の感触は?」

 整備班の二人が顔を見合わせ、それからアスミに向き直った。

「感触は評価項目に含まれてません。動作は規格内です」

 アスミはもう一度、留め具に触れた。指が少し滑る。厚手の手袋のせいだけじゃない。角度が違う。

 前のほうが、良かった。

 口の中でだけ言って、飲み込む。でも、規定が変わった。この基地では、その一言でほとんど終わる。

 セリが横から覗き込んだ。

「……要するに、〝新しいほうが正しい〟ってやつ?」

 班長は否定もしない。

「正しい、ではなく、統一です。統一されていない機体は整備計画が崩れます。崩れると、出撃計画が崩れます」

 アスミは息を吸った。吐く。

 言うなら今だ。黙って帰ったら、また飲み込むことになる。

「規定内なのは分かりました。でも、緊急時の操作だけ、確認させてもらえますか」

 変更しろ、とは言わない。戻せ、とも言わない。

 確認させてほしい。その形にすると、ここでは通る可能性がある。

 班長は端末の画面を二度ほどスクロールした。許可の欄を探す指の動き。

「……手順書に従うなら。五分。作業を止めます」

「ありがとうございます」

 アスミはコクピットに上がり、手袋のまま動作確認の手順を踏む。留め具を外す。装備の固定を解除。再固定。

 どれもできる。ただ、指の動きが一瞬遅れる。

 終わったあと、アスミは降りた。

「……やっぱり、硬いです。手袋だと滑ります」

 班長は頷きも否定もしない。

「記録します。操縦側所見として〝冬季手袋で滑り〟」

 アスミは、その言葉に少しだけ肩が抜けた。変わらないかもしれない。けれど、無かったことにはされない形になった。

 若い整備員がぼそっと言う。

「REDROSE、細かいっすね」

 悪意のない声だった。ただ、面倒な客を見たときの温度。

 アスミは笑ってみせた。

「細かい方が、生き残るので」

 言ってから、胸の内側が熱くなる。北方で言い慣れた言い方だ。ここでは、通じ方が違う。

 班長が作業を再開しながら言った。

「生き残るのは、計画通りに動く人です」

 アスミは返事をしなかった。しなかったけれど、目を逸らさなかった。

 機体を見上げる。交換された部品は新品で、光を返している。腹の下で、工具が金属を叩く音が規則正しく続いていた。

 手袋の指先を一度だけ擦り合わせ、さっき滑った感触を確かめる。皮の粉がわずかに落ちた。

「……言った。今は、それでいい」

 言葉を飲み込む前に、鼻の奥に溶剤の匂いが残る。新しい部品の匂い。規定の匂い。

 機体の腹から視線を外し、工具音の間を縫うように一歩だけ下がった。


   *


 ブリーフィングルームの扉を開けると、空気が変わった。誰が先に喋っていいかが決まっている空気だ。

 ホルスト大佐が前に立ち、端末画面を投影していた。作戦区域、出撃回数、機体稼働率、整備稼働率。

 画面に出ているのは稼働率と回数だけで、現場の状況は一行もない。

「本日の後方支援、一本目。一四〇〇。初回運用確認を行う」

 誰かが「了解」と返す。

 アスミも同じように頷き、手元のメモに視線を落とした。書く内容が少ない。項目は多いのに、説明が少ない。

 話が終わると、皆が一斉に立ち上がる。椅子の脚が床に触れる音まで、揃っている。

 アスミは、ホルストの横についた。歩き出すタイミングを逃すと、ここでは声が届かない気がした。

「大佐。少し、よろしいですか」

 ホルストは足を止めずに、横目だけを向けた。

 アスミは息を吸って言う。

「このペースでは、整備班が持ちません」

 言った瞬間、心臓が強く鳴った。怒鳴ってない。噛みついてもいない。ただ、はっきり言った。

 ホルストは眉一つ動かさずに、歩きながら端末を操作する。

「整備稼働率は規定内だ。持つ持たないは〝感想〟だろう」

「稼働率は数字です。現場は――」

「現場は、規定内で回せ。回せないなら、整備班の問題だ」

 アスミの口の中が乾いた。昨日の留め具の話が、胸の奥で小さく跳ね返る。

「……整備班は、回してます。回して、回して――」

 言いかけたところで、ホルストが立ち止まった。

 廊下の角。天井の隅にカメラはない。そこを選んだみたいに見えた。

「レイナー」

 呼び捨てだった。アスミの背筋が、反射で伸びる。

「お前は、優秀だ。記録もあるし、軍の象徴でもある。だからここにいる」

「……はい」

 ホルストは声を落とした。周囲に聞こえない音量なのに、言葉だけは刃みたいに届く。

「だが、口が多い」

 アスミは目を逸らさなかった。逸らしたら負ける、というより、逸らしたら自分が崩れる気がした。

「大佐。私は――」

「最後まで聞け」

 ホルストが遮る。この基地では、それが正しい。

「お前が反発するたびに、周囲は面倒になる。面倒が増えると、処理が増える。処理が増えると、割を食う人間が出る」

 アスミは小さく息を吐いた。誰のことを言っているのか、分からないふりはできた。

 ホルストは、そこで一度だけ視線を外し、廊下の先にいる人影を見る。

 訓練棟の入り口付近で、セリが他の隊員に呼び止められていた。短く頷き、笑っている。いつも通りの顔で。

 ホルストの声が戻る。

「……相棒」

 その一語が、胸のどこかに引っかかった。

「アンダーソンは扱いやすい。余計なことを言わない。上の命令を、淡々と遂行する」

 アスミの喉が、きゅっと鳴る。

「十三から軍籍だ。ノーザンクロスで、お前達を〝見張る側〟で働いてきた。お前も知っているだろう。だから上は、あいつの動かし方を知っている」

 ホルストは、そこで一拍置いた。

「それに、ここには、ハイルトン・グレイ大佐のような理想主義者もいない。バディを組ませ続ける必要もない」

 言い切る。

「だから、次の配置候補に入っている。激戦区のな」

 アスミの視界が、ほんの一瞬だけ狭くなった。耳の奥が熱くなって、指先が冷える。

 激戦区の配置候補。私が反発すると、セリが激戦区に行く。

 ホルストが続ける。

「お前の〝正しさ〟で、周囲を巻き込むな。巻き込むなら、責任を取れ」

「……責任?」

 声が出た。自分でも驚くくらい、低かった。

 ホルストは淡々と答える。

「試験飛行隊ってのはな、機体じゃない。人間を試すんだ。もし、アンダーソンが引き抜かれても、お前が穴を埋めろ。お前ならできるだろ。〝REDROSE〟。――そういう役だ」

 それは誉め言葉の形だった。でも、アスミの中では別のものに聞こえた。

 できる? セリがいなくなっても? 一人で、全部?

 抜ける。穴を埋める。代替。

 言葉が、部品の交換手順みたいに並んでいく。

 ホルストは、さらに静かにアスミを見て言った。

「ケイ・レイナーの娘に、上層部は期待している。もちろん、私もだ」

 その目が、ほんの少しだけ細くなる。

「分かったな」

 アスミは返事を探した。探して、見つからない。見つからないまま、口が動いた。

「……了解しました」

 自分の声じゃないみたいに、音が乾いていた。

 ホルストはそれで終わりにして、歩き出す。足音が均一で、迷いがない。

 アスミは追うこともせずに立っていた。

 壁際の掲示板に貼られた今日の予定表が、目に入る。分刻み。文字が綺麗すぎて、どこにも手の温度がない。

 胸の奥で、言葉が引っかかった。さっきと同じ場所で。喉の奥が、少しだけ痛い。

 ケイ・レイナーの娘。

 その言葉が何を指しているのか、アスミは理解していた。REDROSE。オルディア人。オルタイト高適合。だから、一人でもオルテアを殲滅させられる。

 だから、これ以上言えば、セリを飛ばす。


 視線の先で、セリがこちらに気づいた。軽く顎を上げる。終わった? という合図。

 アスミは笑ってみせた。口角だけを上げる。目がそれに追いつかないのは、自分だけが知っている。

 セリが近づいてくる。

「どうした。……何か言われたって顔してる」

「なんでもない。ちょっと、疲れただけ」

 嘘は言っていない。でも、本当も言っていない。

 セリが眉を寄せる。

「納得してないって顔してるけど?」

 アスミは頷かなかった。代わりに、手袋の指先を握って開く。留め具の角の感触が、まだ残っている。

「……大丈夫。次の準備、しよ」

 言って、自分の声に驚いた。短い。軽い。逃げるみたいな言い方だった。

 セリは何か言いかけて、飲み込んだ。さっきまでホルストがいた方向へ、短く視線を投げる。

 廊下を歩き出す。足音がまた揃う。揃ってしまうのが、怖い。

 アスミは、予定表の文字を目でなぞりながら、頭の中の音量を下げた。自分の中の何かが鳴る前に、先に静かにしてしまう。

 予定表から目を外し、歩幅をセリに合わせた。言葉を出す前に、喉の奥で止めた。


   *


 格納庫へ戻ると、整備班の手元は相変わらず忙しかった。

 セリが機体の下に潜りかけて、ふと顔だけ出す。

「……さっき、何言われた」

 アスミはヘルメットを棚に置いて、手袋を外した。指先の冷えが、戻らない。

「次の仕事の話」

「それだけ?」

「それだけ」

 セリは黙って、また潜った。カチ、カチ、と留め具の音が続く。

 アスミはそれを聞きながら、格納庫の奥に並ぶ箱を見た。搬入ラベル。番号。期限。責任者欄。

 機体の側で、整備員が台車を押してすれ違う。車輪が床の溝に当たり、乾いた跳ねる音がした。金属の匂いが濃くなる。整備灯の下で、装甲の縁が冷たく光る。足元の床は磨かれているのに、油の匂いは消えない。

「REDROSE、コクピット系統チェック入ります」

 整備員の声が飛び、アスミはヘルメットを受け取った。顎紐の留め具が、指先に硬く当たる。

 搭乗用のリフトが上がる。コクピットへ足を掛けた瞬間、身体が先に覚えている型が動いた。怖さより先に、手順が来る。

 座席に沈む。肩を締め付けるハーネス。胸の前で固定具がカチリと噛み合う。自分の呼吸音だけが、内側に戻ってくる。

 《REDROSE、起動シーケンス開始。リンク確認》

「REDROSE、リンク確認」

 視界が切り替わる。外が「見る」から「感じる」に変わる。

 関節の反応。指の開閉。足首の微調整。巨大な身体が、自分の身体の延長として馴染んでいく。

 馴染むほど、怖い。

 ――アンダーソンが引き抜かれても、お前が穴を埋めろ。お前ならできるだろ。

 ――〝REDROSE〟。そういう役だ。

 ――ケイ・レイナーの娘。

 さっきの声は、もう色を失っている。なのに、言葉だけが残っている。ラベルみたいに剥がれない。思い出すたび、頭の中の音量が勝手に下がっていく。

 その言葉が、起動の手順の隙間に滑り込んでくる。役割が先に立ち、理由が後ろに追いやられる。

 《REDROSE、出撃ゲートへ。後方支援、護衛区画に入る》

「REDROSE、了解」

 ヴィーラが一歩踏み出す。床が小さく震えた。自分の足じゃないのに、自分の足が重い。


   *


 空に出ると、状況を目で確認する。上空は広いのに、線が見える。

 HUDに護衛区画が表示された。青い線が空域を区切り、その内側を守る。線の外へ出てはいけない。線の内側を、ただ飛ぶ。

 反応は少ない。敵影はない。味方のビーコンが緑の点で並び、補給車列が地上をゆっくり進んでいる。

 《REDROSE、区域内監視開始。異常なし》

 管制の声が淡々と落ちる。淡々としているから、余計な色がない。

 アスミは高度を保ったまま、補給車列の上空を飛んだ。地上では輸送トラックが一定の速度で移動している。車列の間隔は揃っていて、逸脱する車両はない。

 モニターに映る地形。移動する車列。遠くに見える山脈の稜線。

 すべてが、ただの風景として流れていく。

 《REDROSE、現在位置確認》

「ポイントB-7。異常なし」

 《了解。そのまま警戒を続けろ》

「了解」

 機械的なやり取りが続く。

 何も考えなくてもいい。ただ、飛んで、見て、報告すればいい。それだけだ。

 セリの機体が左に並走している。いつもと同じ距離。いつもと同じ速度。何も言わない。言わないまま、ただそこにいる。

 補給路の監視は単調だった。敵の動きはなく、報告することも特にない。ただ、決められたルートを飛び、決められた時間が経過するのを待つだけ。

 アスミの手は操縦レバーを握っている。握っているのに、それが自分の手なのか、よく分からなくなる瞬間があった。

 機体は動いている。空を飛び、任務をこなしている。

 でも、自分がどこにいるのか分からない。

 HUDの端に、微かな反応が映った。薄い。距離も遠い。反応値が低く、輪郭が曖昧だ。でも、消えていない。

 アスミの指が、操縦レバーの上で一度だけ動きかけた。肩がわずかに落ち、機体の上体がその方向へ傾く。重量が片側の脚へ寄りかけた。

 《アスミ》

 セリの声が個別回線で入ってくる。

 《聞こえるか》

「聞こえてる」

 《……無理すんなよ》

 それ以上、セリは何も言わなかった。

 アスミは操縦レバーを戻す。上体が起き、重量が両脚へ均等に戻った。

 HUDの反応は消えている。消えたのに、何かが残っている気がした。

 何を探しているのか、言葉にしたくない。言葉にしたら、もう戻れなくなる気がした。

 《――各機、帰投せよ。任務終了》

 管制からの指示が入る。

「REDROSE、了解」

 アスミは上体を回し、機体を西方基地の方角へ向けた。

 問題なく終わった。

 それがいちばんよくない終わり方だと、どこかで分かっていた。


   *


 降りて、ヘルメットを抱える。歩幅を揃える癖が抜けない。揃えた瞬間に安心してしまうからだ。

「REDROSE」

 呼びかけられて、振り返った。朝、整備班にケニーと呼ばれていた男が、腕を組んで立っている。

 口元は笑っていない。目だけがこちらを見ていた。

「……あんたさ」

 ケニーが続ける。

「……その顔。ここ嫌いって書いてある」

 肩をすくめて、もう一つ。

「ずっと思ってたんだけどさ。NTO、嫌いなんだろ?」

 アスミの返事が遅れた。否定できないことが腹立たしい。否定できないまま立っている自分が、もっと腹立たしい。

 ヘルメットを抱える腕に力が入る。顎紐の金具が、微かに鳴った。

「じゃあ、なんでヴィーラに乗ってんの」

 その問いが、胸の奥まで入ってくる。体温のない指で芯を掴まれるみたいな感覚だった。

 ずっと。NTOが嫌いだと思っている自分がいる。ずっと、ずっと。父親の事やオルディアである事を、周りの誰にも言わなかった自分もいる。でも、ヴィーラに乗っていないと落ち着かない自分もいる。

 それに、他の人みたいな綺麗な理由じゃないものが、芯に残っている。

 守りたい。助けたい。

 口にしてきた言葉が、いま全部、軽くなる気がした。

 ケニーの問いが、その奥まで手を入れてくる。

 アスミは喉を動かした。音が出るまでに一拍かかる。

「……知らない」

 言ってから、自分でも幼いと思った。

「……嫌いなら、やってない」

 本当の理由に触れられたくなくて、言葉だけを尖らせた。尖らせたはずなのに、その先で自分の内側が空洞になる感覚がした。

 ケニーは笑わなかった。

「へえ」

 それだけ言って、視線を外す。

「ま、いいわ。聞いただけ」

 アスミはケニーの目を見られなかった。見たら、何かが崩れる気がした。

 自分は与えられた任務をこなす。ただ、それだけだ。

 逃げるように、足早に格納庫の出口へと向かう。

 少し離れた場所で、セリが二人を見ていた。会話の内容は聞こえなかったが、その表情で何を言われたか、だいたい想像がついた。

 セリは腕を組んだまま、静かに考える。

 分かってる。あいつが、何を見てここに立ってるのか。でも、それだけじゃ、もう持たない顔だ。

 英雄。象徴。

 そんな言葉で呼ばれる顔じゃない。アスミの中にある「NTOにいる理由」だけでは、もう足りない。それでも、ヴィーラに乗せ続けるためには、カイトのことは言えない。

 アスミを英雄や象徴なんて枠に押し込みたくない自分も、NTOに加担している自分も、アスミも俺も、境界線でもがいている。


   *


 夜の喫煙所は、基地の端にあった。

 照明は一つだけで、白というより黄ばんだ色をしている。壁際の灰皿には、吸い殻が無言で積もっていた。遠くで発電機の低い音が続いている。風が吹くたび、煙が流されて、すぐに形を失った。

 セリはフェンスにもたれ、煙草をくわえたまま空を見ていた。火を点ける気はない。ただ、口にあるだけだ。

 少し遅れて、シュタイナーが入ってくる。足音は静かだった。セリの隣に立つが、距離は詰めない。

 しばらく、何も言わない。煙草の匂いと夜気だけがそこにあった。

 シュタイナーが先に口を開く。

「あの署名をしてから、彼女の任務が増えている。これからもっと増えるはずだ」

 少し間を置いて、続けた。

「君は知っているはずです。彼女が何を見て戦場に立っているか」

 セリは視線を動かさない。煙草を指で回し、フィルターを潰す。

「……だとしても、言わないですよ。最終的には、あいつが自分で選んだことだ」

 シュタイナーは間を置いた。喫煙所の照明が、その眼鏡の縁を白く反射する。

「このまま、堕ちたとしてもですか?」

 セリの喉が小さく鳴った。煙を吐く代わりに、息を吐く。すぐには答えなかった。一瞬だけ視線を落とす。

「それでも、あんたにはあいつの腕は支えられない。……多分、俺でも」

 声は低く、淡々としている。慰めでも拒絶でもない。

 そんなことができるやつが、何人もいるわけない。その言葉は、胸の奥で留めたまま外に出さない。

 セリは煙草を灰皿に押しつけ、飲んでいたコーヒーの紙コップを握りつぶしてゴミ箱へ投げ捨てた。

 そして、聞こえるか聞こえないかくらいの声で言う。

「あんまり深追いしない方が、あんたのためだと思うけど」

 フェンスから体を離し、そのまま歩き出す。背中が夜の暗さに溶けていった。

 残された喫煙所で、シュタイナーは一人、立っている。

 彼女は何を見ている。いや、誰の影に立っている。

 煙のない空気の中で、その問いだけが残った。夜風が吹いて、吸い殻の灰がわずかに揺れる。


   *


 シャワールームから戻ってくると、居住区の廊下は消灯時間を過ぎて暗くなっていた。非常灯だけが点いていて、部屋の前の廊下は薄暗い。

 アスミは静かに自室のドアを開けて中に入った。カチリ、とドアが閉まる。閉まったドアに背中をつけ、そのままずるずると下へ落ちていった。膝を抱え、顔を下げると、膝に額がついた。

泣き方を忘れたみたいに、目の奥だけが熱い。膝に回した腕に力が入る。

「……」

 喉が一度だけ動く。息がうまく通らない。

 閉じた瞼の裏に、NTOの基地を見ながら笑っていた少年の顔が浮かぶ。その横顔を見るのが、ずっと好きだった。どこにいるのかも、生きているのかも分からない。記憶の中の少年。

「………カイト」

 絞り出すような声で言葉が落ちた。静かな部屋の中には、時計の音だけが規則的に鳴っている。

 秒針が進むたびに、置き去りにされる気がした。

 たまに管制塔から流れてくる光が、壁を横切って、また消える。それが何度目か分からない。

 アスミは、ドアの前から動けなかった。

 ただ、呼吸だけが遅れて戻ってくる。


 呼んだ名前だけが、部屋の中に微かに残っていた。


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