Sky61-英雄でない理由-
本作『SKY』は作者本人が小説家になろうにて連載・管理しています。無断転載・無断利用を禁じます。
翌日の格納庫は、いつも通り静かだった。必要のない音がしない。
機体は列で並び、床のガイドラインから一ミリもはみ出していない。整備用の台車も、工具箱も、色と番号で区分されている。どこに何があるか、一目で分かる。分かるのに、胸が落ち着かない。
アスミはセリの後ろを歩いていたが、通路の端で立ち止まった。
ヴィーラの影が、床に落ちている。腕と脚のある影が、天井の照明の数だけ重なって、輪郭を四重にしていた。自分がその影の内側に立っていることを、少し遅れて意識する。
奥で、工具の音がひとつ、遅れて止まった。振り返ると、機体の腹の下から人が顔を出すところだった。整備服の袖を肘までまくり上げ、片手に端末、もう片手にウエスを持っている。
「……あ」
声にならない声を出して、男は動きを止めた。アスミと目が合って、困ったように口角を上げる。
「ごめん。通る?」
それだけ言って、半歩だけ下がった。道を譲る、というより、そこにいることを思い出したみたいな動きだった。
「いえ……大丈夫です」
アスミが答えると、男は「そっか」と短く言って、また機体のほうへ視線を戻す。興味を失った、というより、最初から深く見ていない。
端末を操作する指が、少し早い。画面を覗き込む目は真剣なのに、表情はどこか気が抜けている。
近くで別の整備員が呼んだ。
「ケニー、それ終わったら次こっちな」
「はいはい」
軽い返事。敬礼もない。気負いもない。
ケニーと呼ばれた男は、最後に機体を一度だけ見上げてから、アスミのほうをちらりと見た。今度は目が合わなかった。
それだけだった。なのに、アスミは自分の立っている場所を意識してしまう。通路の真ん中。ヴィーラの影が落ちる位置。
理由は分からない。ただ、胸の奥に、小さな引っかかりが残った。
「アスミ、自分の装備確認しとけよ」
セリが、少し離れた自分の機体のところから呼ぶ。
アスミはそちらへ顔を向けると、何も言わずに歩き出した。背後で、また工具の音が鳴り始める。
*
自分の機体の前に立つ。整備担当の二人が、端末を見ながら作業を進めていた。ひとりは若い整備員、もうひとりは班長格らしい男で、袖口に細い識別色が入っている。
「REDROSE、点検対象は脚部と腹部。昨日の帰還ログ、こちらで反映済みです」
班長が言う。口調は丁寧だが、言い切ってから目だけ端末に戻る。
「ありがとうございます。……あの、これ」
アスミは腹部パネルの下、交換済みの部品を指さした。外見は同じ。けれど留め具の角が、前より硬い形に変わっている。
「この部品、前と違いますね」
班長の手が止まった。若い整備員が一瞬だけ顔を上げて、また下げる。
「規定更新です。第三改修ロットに切り替わりました」
「……前のロット、在庫切れですか?」
「在庫はあります。ただ、使用優先順位が変わったので」
班長はさらりと言う。言い方が、配給の説明みたいだった。
アスミは留め具の角を指先で軽く押した。硬い。冬場の手袋だと、操作が半拍遅れる。緊急時に、その半拍は嫌だ。
「前のほうが良くないですか?」
声は荒げなかった。ただ、はっきり言った。
班長が端末から目を上げる。初めて、アスミの顔を見た気がした。
「良い、の定義が変わったんでしょう。今は〝整備性〟と〝統一性〟が優先です」
「操縦側の感触は?」
整備班の二人が顔を見合わせ、それからアスミに向き直った。
「感触は評価項目に含まれてません。動作は規格内です」
アスミはもう一度、留め具に触れた。指が少し滑る。厚手の手袋のせいだけじゃない。角度が違う。
前のほうが、良かった。
口の中でだけ言って、飲み込む。でも、規定が変わった。この基地では、その一言でほとんど終わる。
セリが横から覗き込んだ。
「……要するに、〝新しいほうが正しい〟ってやつ?」
班長は否定もしない。
「正しい、ではなく、統一です。統一されていない機体は整備計画が崩れます。崩れると、出撃計画が崩れます」
アスミは息を吸った。吐く。
言うなら今だ。黙って帰ったら、また飲み込むことになる。
「規定内なのは分かりました。でも、緊急時の操作だけ、確認させてもらえますか」
変更しろ、とは言わない。戻せ、とも言わない。
確認させてほしい。その形にすると、ここでは通る可能性がある。
班長は端末の画面を二度ほどスクロールした。許可の欄を探す指の動き。
「……手順書に従うなら。五分。作業を止めます」
「ありがとうございます」
アスミはコクピットに上がり、手袋のまま動作確認の手順を踏む。留め具を外す。装備の固定を解除。再固定。
どれもできる。ただ、指の動きが一瞬遅れる。
終わったあと、アスミは降りた。
「……やっぱり、硬いです。手袋だと滑ります」
班長は頷きも否定もしない。
「記録します。操縦側所見として〝冬季手袋で滑り〟」
アスミは、その言葉に少しだけ肩が抜けた。変わらないかもしれない。けれど、無かったことにはされない形になった。
若い整備員がぼそっと言う。
「REDROSE、細かいっすね」
悪意のない声だった。ただ、面倒な客を見たときの温度。
アスミは笑ってみせた。
「細かい方が、生き残るので」
言ってから、胸の内側が熱くなる。北方で言い慣れた言い方だ。ここでは、通じ方が違う。
班長が作業を再開しながら言った。
「生き残るのは、計画通りに動く人です」
アスミは返事をしなかった。しなかったけれど、目を逸らさなかった。
機体を見上げる。交換された部品は新品で、光を返している。腹の下で、工具が金属を叩く音が規則正しく続いていた。
手袋の指先を一度だけ擦り合わせ、さっき滑った感触を確かめる。皮の粉がわずかに落ちた。
「……言った。今は、それでいい」
言葉を飲み込む前に、鼻の奥に溶剤の匂いが残る。新しい部品の匂い。規定の匂い。
機体の腹から視線を外し、工具音の間を縫うように一歩だけ下がった。
*
ブリーフィングルームの扉を開けると、空気が変わった。誰が先に喋っていいかが決まっている空気だ。
ホルスト大佐が前に立ち、端末画面を投影していた。作戦区域、出撃回数、機体稼働率、整備稼働率。
画面に出ているのは稼働率と回数だけで、現場の状況は一行もない。
「本日の後方支援、一本目。一四〇〇。初回運用確認を行う」
誰かが「了解」と返す。
アスミも同じように頷き、手元のメモに視線を落とした。書く内容が少ない。項目は多いのに、説明が少ない。
話が終わると、皆が一斉に立ち上がる。椅子の脚が床に触れる音まで、揃っている。
アスミは、ホルストの横についた。歩き出すタイミングを逃すと、ここでは声が届かない気がした。
「大佐。少し、よろしいですか」
ホルストは足を止めずに、横目だけを向けた。
アスミは息を吸って言う。
「このペースでは、整備班が持ちません」
言った瞬間、心臓が強く鳴った。怒鳴ってない。噛みついてもいない。ただ、はっきり言った。
ホルストは眉一つ動かさずに、歩きながら端末を操作する。
「整備稼働率は規定内だ。持つ持たないは〝感想〟だろう」
「稼働率は数字です。現場は――」
「現場は、規定内で回せ。回せないなら、整備班の問題だ」
アスミの口の中が乾いた。昨日の留め具の話が、胸の奥で小さく跳ね返る。
「……整備班は、回してます。回して、回して――」
言いかけたところで、ホルストが立ち止まった。
廊下の角。天井の隅にカメラはない。そこを選んだみたいに見えた。
「レイナー」
呼び捨てだった。アスミの背筋が、反射で伸びる。
「お前は、優秀だ。記録もあるし、軍の象徴でもある。だからここにいる」
「……はい」
ホルストは声を落とした。周囲に聞こえない音量なのに、言葉だけは刃みたいに届く。
「だが、口が多い」
アスミは目を逸らさなかった。逸らしたら負ける、というより、逸らしたら自分が崩れる気がした。
「大佐。私は――」
「最後まで聞け」
ホルストが遮る。この基地では、それが正しい。
「お前が反発するたびに、周囲は面倒になる。面倒が増えると、処理が増える。処理が増えると、割を食う人間が出る」
アスミは小さく息を吐いた。誰のことを言っているのか、分からないふりはできた。
ホルストは、そこで一度だけ視線を外し、廊下の先にいる人影を見る。
訓練棟の入り口付近で、セリが他の隊員に呼び止められていた。短く頷き、笑っている。いつも通りの顔で。
ホルストの声が戻る。
「……相棒」
その一語が、胸のどこかに引っかかった。
「アンダーソンは扱いやすい。余計なことを言わない。上の命令を、淡々と遂行する」
アスミの喉が、きゅっと鳴る。
「十三から軍籍だ。ノーザンクロスで、お前達を〝見張る側〟で働いてきた。お前も知っているだろう。だから上は、あいつの動かし方を知っている」
ホルストは、そこで一拍置いた。
「それに、ここには、ハイルトン・グレイ大佐のような理想主義者もいない。バディを組ませ続ける必要もない」
言い切る。
「だから、次の配置候補に入っている。激戦区のな」
アスミの視界が、ほんの一瞬だけ狭くなった。耳の奥が熱くなって、指先が冷える。
激戦区の配置候補。私が反発すると、セリが激戦区に行く。
ホルストが続ける。
「お前の〝正しさ〟で、周囲を巻き込むな。巻き込むなら、責任を取れ」
「……責任?」
声が出た。自分でも驚くくらい、低かった。
ホルストは淡々と答える。
「試験飛行隊ってのはな、機体じゃない。人間を試すんだ。もし、アンダーソンが引き抜かれても、お前が穴を埋めろ。お前ならできるだろ。〝REDROSE〟。――そういう役だ」
それは誉め言葉の形だった。でも、アスミの中では別のものに聞こえた。
できる? セリがいなくなっても? 一人で、全部?
抜ける。穴を埋める。代替。
言葉が、部品の交換手順みたいに並んでいく。
ホルストは、さらに静かにアスミを見て言った。
「ケイ・レイナーの娘に、上層部は期待している。もちろん、私もだ」
その目が、ほんの少しだけ細くなる。
「分かったな」
アスミは返事を探した。探して、見つからない。見つからないまま、口が動いた。
「……了解しました」
自分の声じゃないみたいに、音が乾いていた。
ホルストはそれで終わりにして、歩き出す。足音が均一で、迷いがない。
アスミは追うこともせずに立っていた。
壁際の掲示板に貼られた今日の予定表が、目に入る。分刻み。文字が綺麗すぎて、どこにも手の温度がない。
胸の奥で、言葉が引っかかった。さっきと同じ場所で。喉の奥が、少しだけ痛い。
ケイ・レイナーの娘。
その言葉が何を指しているのか、アスミは理解していた。REDROSE。オルディア人。オルタイト高適合。だから、一人でもオルテアを殲滅させられる。
だから、これ以上言えば、セリを飛ばす。
視線の先で、セリがこちらに気づいた。軽く顎を上げる。終わった? という合図。
アスミは笑ってみせた。口角だけを上げる。目がそれに追いつかないのは、自分だけが知っている。
セリが近づいてくる。
「どうした。……何か言われたって顔してる」
「なんでもない。ちょっと、疲れただけ」
嘘は言っていない。でも、本当も言っていない。
セリが眉を寄せる。
「納得してないって顔してるけど?」
アスミは頷かなかった。代わりに、手袋の指先を握って開く。留め具の角の感触が、まだ残っている。
「……大丈夫。次の準備、しよ」
言って、自分の声に驚いた。短い。軽い。逃げるみたいな言い方だった。
セリは何か言いかけて、飲み込んだ。さっきまでホルストがいた方向へ、短く視線を投げる。
廊下を歩き出す。足音がまた揃う。揃ってしまうのが、怖い。
アスミは、予定表の文字を目でなぞりながら、頭の中の音量を下げた。自分の中の何かが鳴る前に、先に静かにしてしまう。
予定表から目を外し、歩幅をセリに合わせた。言葉を出す前に、喉の奥で止めた。
*
格納庫へ戻ると、整備班の手元は相変わらず忙しかった。
セリが機体の下に潜りかけて、ふと顔だけ出す。
「……さっき、何言われた」
アスミはヘルメットを棚に置いて、手袋を外した。指先の冷えが、戻らない。
「次の仕事の話」
「それだけ?」
「それだけ」
セリは黙って、また潜った。カチ、カチ、と留め具の音が続く。
アスミはそれを聞きながら、格納庫の奥に並ぶ箱を見た。搬入ラベル。番号。期限。責任者欄。
機体の側で、整備員が台車を押してすれ違う。車輪が床の溝に当たり、乾いた跳ねる音がした。金属の匂いが濃くなる。整備灯の下で、装甲の縁が冷たく光る。足元の床は磨かれているのに、油の匂いは消えない。
「REDROSE、コクピット系統チェック入ります」
整備員の声が飛び、アスミはヘルメットを受け取った。顎紐の留め具が、指先に硬く当たる。
搭乗用のリフトが上がる。コクピットへ足を掛けた瞬間、身体が先に覚えている型が動いた。怖さより先に、手順が来る。
座席に沈む。肩を締め付けるハーネス。胸の前で固定具がカチリと噛み合う。自分の呼吸音だけが、内側に戻ってくる。
《REDROSE、起動シーケンス開始。リンク確認》
「REDROSE、リンク確認」
視界が切り替わる。外が「見る」から「感じる」に変わる。
関節の反応。指の開閉。足首の微調整。巨大な身体が、自分の身体の延長として馴染んでいく。
馴染むほど、怖い。
――アンダーソンが引き抜かれても、お前が穴を埋めろ。お前ならできるだろ。
――〝REDROSE〟。そういう役だ。
――ケイ・レイナーの娘。
さっきの声は、もう色を失っている。なのに、言葉だけが残っている。ラベルみたいに剥がれない。思い出すたび、頭の中の音量が勝手に下がっていく。
その言葉が、起動の手順の隙間に滑り込んでくる。役割が先に立ち、理由が後ろに追いやられる。
《REDROSE、出撃ゲートへ。後方支援、護衛区画に入る》
「REDROSE、了解」
ヴィーラが一歩踏み出す。床が小さく震えた。自分の足じゃないのに、自分の足が重い。
*
空に出ると、状況を目で確認する。上空は広いのに、線が見える。
HUDに護衛区画が表示された。青い線が空域を区切り、その内側を守る。線の外へ出てはいけない。線の内側を、ただ飛ぶ。
反応は少ない。敵影はない。味方のビーコンが緑の点で並び、補給車列が地上をゆっくり進んでいる。
《REDROSE、区域内監視開始。異常なし》
管制の声が淡々と落ちる。淡々としているから、余計な色がない。
アスミは高度を保ったまま、補給車列の上空を飛んだ。地上では輸送トラックが一定の速度で移動している。車列の間隔は揃っていて、逸脱する車両はない。
モニターに映る地形。移動する車列。遠くに見える山脈の稜線。
すべてが、ただの風景として流れていく。
《REDROSE、現在位置確認》
「ポイントB-7。異常なし」
《了解。そのまま警戒を続けろ》
「了解」
機械的なやり取りが続く。
何も考えなくてもいい。ただ、飛んで、見て、報告すればいい。それだけだ。
セリの機体が左に並走している。いつもと同じ距離。いつもと同じ速度。何も言わない。言わないまま、ただそこにいる。
補給路の監視は単調だった。敵の動きはなく、報告することも特にない。ただ、決められたルートを飛び、決められた時間が経過するのを待つだけ。
アスミの手は操縦レバーを握っている。握っているのに、それが自分の手なのか、よく分からなくなる瞬間があった。
機体は動いている。空を飛び、任務をこなしている。
でも、自分がどこにいるのか分からない。
HUDの端に、微かな反応が映った。薄い。距離も遠い。反応値が低く、輪郭が曖昧だ。でも、消えていない。
アスミの指が、操縦レバーの上で一度だけ動きかけた。肩がわずかに落ち、機体の上体がその方向へ傾く。重量が片側の脚へ寄りかけた。
《アスミ》
セリの声が個別回線で入ってくる。
《聞こえるか》
「聞こえてる」
《……無理すんなよ》
それ以上、セリは何も言わなかった。
アスミは操縦レバーを戻す。上体が起き、重量が両脚へ均等に戻った。
HUDの反応は消えている。消えたのに、何かが残っている気がした。
何を探しているのか、言葉にしたくない。言葉にしたら、もう戻れなくなる気がした。
《――各機、帰投せよ。任務終了》
管制からの指示が入る。
「REDROSE、了解」
アスミは上体を回し、機体を西方基地の方角へ向けた。
問題なく終わった。
それがいちばんよくない終わり方だと、どこかで分かっていた。
*
降りて、ヘルメットを抱える。歩幅を揃える癖が抜けない。揃えた瞬間に安心してしまうからだ。
「REDROSE」
呼びかけられて、振り返った。朝、整備班にケニーと呼ばれていた男が、腕を組んで立っている。
口元は笑っていない。目だけがこちらを見ていた。
「……あんたさ」
ケニーが続ける。
「……その顔。ここ嫌いって書いてある」
肩をすくめて、もう一つ。
「ずっと思ってたんだけどさ。NTO、嫌いなんだろ?」
アスミの返事が遅れた。否定できないことが腹立たしい。否定できないまま立っている自分が、もっと腹立たしい。
ヘルメットを抱える腕に力が入る。顎紐の金具が、微かに鳴った。
「じゃあ、なんでヴィーラに乗ってんの」
その問いが、胸の奥まで入ってくる。体温のない指で芯を掴まれるみたいな感覚だった。
ずっと。NTOが嫌いだと思っている自分がいる。ずっと、ずっと。父親の事やオルディアである事を、周りの誰にも言わなかった自分もいる。でも、ヴィーラに乗っていないと落ち着かない自分もいる。
それに、他の人みたいな綺麗な理由じゃないものが、芯に残っている。
守りたい。助けたい。
口にしてきた言葉が、いま全部、軽くなる気がした。
ケニーの問いが、その奥まで手を入れてくる。
アスミは喉を動かした。音が出るまでに一拍かかる。
「……知らない」
言ってから、自分でも幼いと思った。
「……嫌いなら、やってない」
本当の理由に触れられたくなくて、言葉だけを尖らせた。尖らせたはずなのに、その先で自分の内側が空洞になる感覚がした。
ケニーは笑わなかった。
「へえ」
それだけ言って、視線を外す。
「ま、いいわ。聞いただけ」
アスミはケニーの目を見られなかった。見たら、何かが崩れる気がした。
自分は与えられた任務をこなす。ただ、それだけだ。
逃げるように、足早に格納庫の出口へと向かう。
少し離れた場所で、セリが二人を見ていた。会話の内容は聞こえなかったが、その表情で何を言われたか、だいたい想像がついた。
セリは腕を組んだまま、静かに考える。
分かってる。あいつが、何を見てここに立ってるのか。でも、それだけじゃ、もう持たない顔だ。
英雄。象徴。
そんな言葉で呼ばれる顔じゃない。アスミの中にある「NTOにいる理由」だけでは、もう足りない。それでも、ヴィーラに乗せ続けるためには、カイトのことは言えない。
アスミを英雄や象徴なんて枠に押し込みたくない自分も、NTOに加担している自分も、アスミも俺も、境界線でもがいている。
*
夜の喫煙所は、基地の端にあった。
照明は一つだけで、白というより黄ばんだ色をしている。壁際の灰皿には、吸い殻が無言で積もっていた。遠くで発電機の低い音が続いている。風が吹くたび、煙が流されて、すぐに形を失った。
セリはフェンスにもたれ、煙草をくわえたまま空を見ていた。火を点ける気はない。ただ、口にあるだけだ。
少し遅れて、シュタイナーが入ってくる。足音は静かだった。セリの隣に立つが、距離は詰めない。
しばらく、何も言わない。煙草の匂いと夜気だけがそこにあった。
シュタイナーが先に口を開く。
「あの署名をしてから、彼女の任務が増えている。これからもっと増えるはずだ」
少し間を置いて、続けた。
「君は知っているはずです。彼女が何を見て戦場に立っているか」
セリは視線を動かさない。煙草を指で回し、フィルターを潰す。
「……だとしても、言わないですよ。最終的には、あいつが自分で選んだことだ」
シュタイナーは間を置いた。喫煙所の照明が、その眼鏡の縁を白く反射する。
「このまま、堕ちたとしてもですか?」
セリの喉が小さく鳴った。煙を吐く代わりに、息を吐く。すぐには答えなかった。一瞬だけ視線を落とす。
「それでも、あんたにはあいつの腕は支えられない。……多分、俺でも」
声は低く、淡々としている。慰めでも拒絶でもない。
そんなことができるやつが、何人もいるわけない。その言葉は、胸の奥で留めたまま外に出さない。
セリは煙草を灰皿に押しつけ、飲んでいたコーヒーの紙コップを握りつぶしてゴミ箱へ投げ捨てた。
そして、聞こえるか聞こえないかくらいの声で言う。
「あんまり深追いしない方が、あんたのためだと思うけど」
フェンスから体を離し、そのまま歩き出す。背中が夜の暗さに溶けていった。
残された喫煙所で、シュタイナーは一人、立っている。
彼女は何を見ている。いや、誰の影に立っている。
煙のない空気の中で、その問いだけが残った。夜風が吹いて、吸い殻の灰がわずかに揺れる。
*
シャワールームから戻ってくると、居住区の廊下は消灯時間を過ぎて暗くなっていた。非常灯だけが点いていて、部屋の前の廊下は薄暗い。
アスミは静かに自室のドアを開けて中に入った。カチリ、とドアが閉まる。閉まったドアに背中をつけ、そのままずるずると下へ落ちていった。膝を抱え、顔を下げると、膝に額がついた。
泣き方を忘れたみたいに、目の奥だけが熱い。膝に回した腕に力が入る。
「……」
喉が一度だけ動く。息がうまく通らない。
閉じた瞼の裏に、NTOの基地を見ながら笑っていた少年の顔が浮かぶ。その横顔を見るのが、ずっと好きだった。どこにいるのかも、生きているのかも分からない。記憶の中の少年。
「………カイト」
絞り出すような声で言葉が落ちた。静かな部屋の中には、時計の音だけが規則的に鳴っている。
秒針が進むたびに、置き去りにされる気がした。
たまに管制塔から流れてくる光が、壁を横切って、また消える。それが何度目か分からない。
アスミは、ドアの前から動けなかった。
ただ、呼吸だけが遅れて戻ってくる。
呼んだ名前だけが、部屋の中に微かに残っていた。
本作の本文・設定・登場人物・固有名詞・世界観・構成を、作者の許可なく転載、複製、翻案、要約転載、データセット化、AI学習・機械学習・生成AIサービスへの入力、解析、再配布に利用することを禁じます。




