Sky60-象徴という名の首輪-
本作『SKY』は作者本人が小説家になろうにて連載・管理しています。無断転載・無断利用を禁じます。
NTO西方中央統合基地の作戦課は、ヴィーラ格納庫から棟を一つ挟んだ場所にあった。
連絡通路を抜けると、真新しい建物の一階に出る。扉を開けた瞬間、匂いが変わった。油でも金属でもない。紙とインクの匂いだ。
アスミとセリは、前日の報告書提出のために足を運んでいた。
プリンタが排紙するたび、薄い紙が擦れる音がする。壁際の長机には、提出用のトレーが段で積まれていた。白い紙が、上から下へ落ちていく。書かれた側から、順番に沈んでいくみたいに見えた。
アスミは提出用の封筒を胸に抱え、受付の前に立つ。
「要件をどうぞ」
係員は端末から目を上げずに言った。
「アスミ・レイナー一等兵です。第〇試験飛行隊。迎撃の戦闘報告書、提出に来ました」
「隊名とコールサイン」
「第〇試験飛行隊。REDROSE」
係員の指が止まり、すぐに動いた。
「……はい。こちらに。署名を」
差し出されたボードに、アスミはペンを置く。ペン先が紙に触れたまま、止まった。インクが滲みかけて、細い線を作る。
横に、セリが立っていた。制服の襟元はきっちりしているが、顎のラインに寝不足の影がある。
「俺も提出ある」
「所属とコールサイン」
「第〇試験飛行隊。Alpha2」
係員の指が、また止まる。短い間なのに、西方では長く感じる。
「……はい。こちらに」
セリが署名を終えると、係員はアスミの封筒を取った。軽い紙なのに、トレーに落ちる音が重い。
「以上です。……呼ばれたら、内線で連絡が行きます」
「はい」
アスミは頭を下げ、息を吐いた。戻ろうとしたところで、内線のベルが鳴った。短い電子音が二回。
「作戦課受付です。……はい。……はい。REDROSE、本人来ています。——お通しします」
係員が顔を上げた。
「レイナー一等兵。第三会議室へ。今すぐ」
セリが前に出た。
「俺も?」
「アンダーソン一等兵も。……同席指示です」
アスミの心臓が跳ねた。
呼ばれた。誰に。
*
第三会議室は狭かった。
壁は薄い灰色で、天井の照明が白い。長机の上には水のボトルと紙コップが並んでいるが、誰も手をつけていない。プリンタの音も、ここまでは届かなかった。
ヘイルが奥の席に座り、端末を開いて画面を切り替えている。隣には見知らぬ女性が一人。黒いジャケットを着て、胸元に薄い徽章をつけていた。
壁際には、シュタイナーが立っている。抱えた端末へ視線を落としたまま動かない。
扉が閉まると、外の音が消えた。
「座れ」
アスミとセリが椅子に座ると、ヘイル大尉が端末の画面をこちらに向けた。
損耗、侵入、帰投、出力、反応値、交戦距離。数字が並んでいる。
「迎撃の評価が上に上がった」
アスミの目が、画面を真っ直ぐに見た。その横顔を、セリが横から見ている。
「侵入阻止。高度帯逸脱なし。戦果、確保。——REDROSE、適合は問題なし」
隣の女性が口を開いた。
「情報・広報統括室のミラーです。今日の件、各メディアへの発表用に整えます」
ミラーは机に紙を一枚置いた。上部に太字の見出し、下は空欄になっている。
「こちら、表彰の推薦書です。『勇敢』ではなく、『高適合』『迅速な迎撃』『侵入阻止への貢献』。文言は既に合意が取れています」
アスミは紙を見た。文字が整っている。罫線はまっすぐで、余白は均等だった。
昨日の戦闘の音が、どこにも入っていない。
昨日、トムが死んだ。なのに、今日は表彰の話をしている。
アスミは指先に力を込めた。隣でセリも紙を見ている。
「表彰?」
ミラーが微笑んだ。目は笑っていない。
「英雄が必要なんです。現場の士気も上がるし、予算も上がる。貴女はNTOの英雄に相応しい働きをしている」
ミラーが紙を指先で揃えた。角がピタリと合う。
ヘイルが続けた。
「予算は数字で動く。数字を動かすには、材料が要る。材料には顔が要る」
ヘイルはアスミの顔を見ない。数字を見ている。
ミラーがペンを置いた。
「あなたは西方基地の中では、〝文句を言える側〟です」
アスミの胸が跳ねる。食堂で聞いた言葉と同じだ。
「でも、それは特権です。条件付きの。発表と運用の枠の中で、です」
条件付き。条件が見えないまま、首輪の形だけが見えてくる。
セリがアスミを一瞬だけ見て、すぐ前に視線を戻した。机の下で、指が動いている。硬く握る。ほどく。また握る。爪が手のひらに食い込んでいた。
アスミは紙を押さえた。指先が白くなる。
「……私が言えることは、何ですか」
ミラーがすぐに答えた。
「数字にできることです。損耗、回避余地、運用提案。固有名詞は避ける。個別の死は避ける」
個別の死は避ける。
紙を汚さないでください、と言われたような言い方だった。
口の中が乾く。アスミは目を伏せたまま、膝に置いた手に力を入れた。
何を言っているのだろう。避けられるわけがない。戦場に出ている兵士には、通用しない言葉だ。
「避けられません。避けられるわけない」
ミラーの眉が少し上がる。その横で、ヘイルが言った。
「レイナー。お前が言うべきは『避けられない』じゃない。『何が足りない』だ」
それを言えば、また紙になる。
アスミは唇を結んで、歯を食いしばった。
その時——
セリが隣で立ち上がった。椅子が床を擦る音がして、室内の空気が張り詰める。
その目が、ヘイルを真っ直ぐ捉えていた。
「昨日、トムが……」
声が詰まる。息を入れ直して、もう一度言う。
「昨日、トムが死んだんです」
室内の空気が止まる。ヘイルが顔を上げた。
「それが?」
セリの拳が震えていた。
「なんで……なんで今日、表彰の話をするんですか」
声が低い。怒りを押し殺している。
ヘイルの目がセリを見据えた。責めてはいない。測っている。
セリは続けた。
「トムの死を無駄にしないために、運用を変えるべきです」
ミラーが静かに言う。
「運用を変えるには、予算が必要です。予算を動かすには、表彰が必要です。順番が逆なんです」
その言葉が、セリの胸に刺さった。
順番が逆。分かっている。一兵士の意見で運用をすぐに変えられるほど、NTOは小さな組織じゃない。
それでも、アスミ一人の肩にその重圧が乗るのは違う。こいつを象徴にするのも違う。
横に下ろした拳が、微かに動いた。
その時、壁際に立っていたシュタイナーが姿勢を変えた。
これ以上、黙っているわけにはいかない。派遣士官として、この運用は報告しなければならない。報告すれば、NTOに外部からの国際的な圧力がかかる。
シュタイナーは壁から離れた。
「大尉」
声は丁寧だが、引かない。ヘイルがシュタイナーを見る。
シュタイナーは、その目を見たまま言った。
「この運用は、ゼルンハイト基準では問題視されます。派遣士官として、本国へ報告義務があります」
室内の空気が冷えた。ヘイルの視線がシュタイナーを捉える。
「報告するのは自由だ」
短い間があった。
「でも、本国の回答が来るまで三ヶ月かかる。その間に、また誰かが落ちる」
その言葉が、シュタイナーの胸に落ちる。
本国は遠い。それでも、自分は中立国の人間だ。中立は、知らないふりを許さない。
報告書を書いて、承認を待って、回答が来るまで。ここでは、毎日誰かが飛んでいる。
ヘイルはシュタイナーから視線を外さなかった。
「君の立場は分かる。報告も、義務だ。だが、現場は待てない」
シュタイナーは頷けなかった。ヘイルからアスミへ視線を戻し、口を閉ざす。
アスミは、その全てを見ていた。
セリが立ち上がって、止めようとしてくれた。でも、ミラーの「順番が逆」という言葉を聞いて、何も言えなくなった。シュタイナーが外部からの圧力をかけようとしてくれた。けれど、それも間に合わない。
二人とも、すぐには何も変えられない。
止めなければ、トムのようにREDROSEを基準にした死者も、行方不明者も増える。
目の前にあるこの紙は、私がNTOのやり方に口を出していい、という契約書だ。
なら、私が。
ミラーがアスミのほうを向いた。
「レイナー一等兵。あなたが署名すれば、上申書も通りやすくなります。署名しなければ、別の顔が使われるだけです」
別の顔。誰かが代わりになる。拒否しても、何も変わらない。
アスミは紙の端を指で押さえた。
その様子を見て、ミラーは微笑んだ。
「外部照会は禁止。個人的な検索は禁止。戦域の記録へのアクセスは申請経由。あなたは〝注目枠〟なので、NTO統合軍の広報活動のため、大きな晩餐会やメディアへの露出なども増えます」
注目枠。それは檻の名前だ。
シュタイナーが、アスミの横顔を見ている。
アスミは息を吐いた。
「……私は、REDROSEを基準にする現場の運用を変えたいです」
ヘイルは頷かずに言う。
「なら、書け」
端末の画面が切り替わる。上申フォーム。結論、理由、裏付け(数字)。
ヘイルは続けた。
「忘れるな。お前は結果を出す。だから許される」
アスミがヘイルを見て、すぐに紙へ視線を落とす。
ミラーが続ける。
「許されるということは、自由ではありません。期待に応える義務です。あなたはNTOの象徴として扱われます」
セリが机の端を指で押した。指先が白くなる。
アスミは紙を引き寄せた。ペンを取る。指が紙の端を掴む。
私が、やらないと、誰かが代わりになる。同じことが繰り返されるだけだ。
でも、本当にこれでいいのか。トムは、こんな形を望んでいたのか。カイトを探せなくなっても。
――でも。
アスミはペンを紙に押し当てた。
これしか、できない。
紙の上の空欄に、ペン先が乗る。アスミは自分の名前の最後の一画を、いつもより強く止めた。
紙が、机の上でわずかに音を立てる。
セリは下を向いて、その光景から目を逸らした。
*
会議室を出ると、廊下の空気が冷たい。足音が硬く返ってくる。
セリが隣に並んだ。視線は前のまま。しばらく黙って歩いた。
やがて、セリが口を開く。
「……アスミ。お前、署名したらどうなるか分かってしたのか」
アスミの足が、床に貼り付いたみたいに止まる。セリも一歩遅れて止まった。
「分かってる」
セリはアスミの顔から目を逸らさない。さっき逸らした自分を隠すみたいに、真っ直ぐ見据えている。
「本当に?」
声が低い。
「もう自由に動けなくなるぞ。外部照会も禁止。記録へのアクセスも制限される。顔だって表に出る」
アスミは黙っている。
「……分かってる」
そう言った声は小さかった。
「分かってても、署名したのか。自由に動けなくなってもか」
お前の望みは、NTOで飛ぶ事じゃないはずだ。お前の望みは――。
「誰かが代わりになるくらいなら」
アスミはセリから顔を逸らして、足元の影を見た。セリが、その動きに視線を合わせながら言う。
「それは理由にならない」
声が強くなる。
「お前が犠牲になる理由にはならない」
アスミは顔を上げ、セリを見て答えた。
「でも、私がやらなきゃ、また誰かが——」
「それでも」
セリが遮る。廊下の空調が一度だけ唸った。
「それでも、お前じゃなくてもいい」
アスミの目が揺れる。
セリは、その目から視線を逸らした。親指が、拳の内側に食い込む。
「セリのせいじゃないよ」
震える拳を見ながら答えるアスミの声は、冷静だった。
誰のせいでもない。私が選んだ。私が、自分で選んだ事だから、止められなかった事をセリは責めないで。
アスミは自分に言い聞かせるように、心の中で言った。
しばらく沈黙が続く。それから、セリは先に歩き出した。
「……行くぞ」
アスミが、その後ろについていく。
曲がり角の先で、シュタイナーが待っていた。アスミたちに視線を合わせ、柔らかい表情で言う。
「お疲れ様でした」
端末の画面を一度だけ伏せ、少し間を置いてから続けた。
「……作戦課は、形にするのが仕事です」
言い訳はしない。慰めもしない。ただ事実を置く。
アスミは小さく頷いた。
「形にすれば、救えるんですか」
声が、自分のものに聞こえなかった。
シュタイナーはすぐ答えない。
「救難が動く理由にはなります」
少し間を置いて、続ける。
「……動かない理由も、同じ形で作られます」
アスミの喉が動いた。
シュタイナーは端末を抱え直す。横を通り過ぎようとして、足が止まった。何か言おうとして、口が開きかける。
でも、言葉が出ない。
シュタイナーは黙ったまま、通り過ぎた。足音だけが、静かに遠ざかっていく。
*
廊下の壁の掲示板に、声明の草案が仮止めされていた。
太字の見出し。整った文章。四隅を留めた画鋲の間隔まで揃っている。
その中で、REDROSEの名だけが、まだ新しいインクの色をしていた。
アスミは紙を見た。紙の上に、昨日の音がない。焦げた匂いも、割れる通信も、何も残っていない。片側だけ噴いていた推進の音も、金属が引きずられる音も、この紙のどこにもなかった。
NTOで許されるって、こういうことなんだ。
紙が整うほど、呼吸が浅くなる。整うほど、自分は遠くなる。
アスミは視線を下げ、手元の上申フォームを握り直した。紙が薄く鳴る。
――外部照会は禁止。個人的な検索は禁止。戦域の記録へのアクセスは申請経由。
ここではもう、本当に探せなくなった。
胸の奥が、静かに沈んだ。
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