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SKY  作者: 岩佐知秋
BASE UNION

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59/126

Sky59-基準の先の死-

本作『SKY』は作者本人が小説家になろうにて連載・管理しています。無断転載・無断利用を禁じます。

 



 翌日も、任務は通常通りに進む。連日の出撃で、アスミたちパイロットにも疲労が溜まっていた。

 ブリーフィングルームの床は硬く、椅子の脚が触れるたび、短い擦過音が鳴った。音が鳴るのは最初だけで、全員が座り直すと、空調の風と端末のタップ音しか残らない。

 正面の壁一面に、戦域図が投影されている。線と帯と点。地名は出ない。人の形も出ない。

 赤い点だけが、帯の外から内へ滑り込んでくる。

 ヘイルは前に立ったまま、端末を親指で送った。声は一定で抑揚がなく、視線は画面から外れない。

「迎撃。帝国軍ヴィーラ編隊、侵入。規模は中。侵入線はここ」

 赤い線が強調され、点の群れがその方向へ寄る。

「高度帯は三。上は味方が通る。下は味方の射線が通る。ここから動くな。落ちるな」

 誰かが息を呑む音が、喉の奥で鳴った。すぐに飲み込まれ、消える。

「線の内側で塞ぐ。追撃は不要。逸脱は報告対象」

 言い切ると、指先で次のページへ送った。そこには、同じ帯と、同じ線が並んでいるだけだ。

 アスミは膝の上の端末に手を置いたまま、息を一つ入れた。胸の内側が早くなる。早くなるだけで、顔は変えない。

「確認、よろしいですか」

 ヘイルの目だけが、アスミに向いた。

「言え」

 アスミは言葉を選ぶ。短く切りすぎない。けれど、余計に引き延ばさない。

「昨日のは、私だから通っただけです。同じ基準にしたら、誰かが堕ちます」

 室内の空気が、固くなる。

 トムが眼鏡の位置を直した。笑いはない。視線が柔らかいのに、逃げない。セリは腕を組んだまま、画面を見ている。アスミを見ない。けれど、耳は受け取っている。

 ヘイルは端末を一度だけスクロールした。

「偶然でも、結果が出れば運用だ。逸脱は記録に残す。記録は数字になる」

 数字、という言葉が冷たい。

 アスミは続けない。ここで続ければ議論になり、議論になれば出撃が遅れる。

 リオが机に手を置いたまま、口を開いた。静かなのに、声は低い。

「REDROSEと同じことを、俺らにやれって言うんですか」

 ヘイルは目だけをリオに向ける。

「そうだ。そのためのREDROSEのデータで、そのための、お前たち第〇試験飛行隊だ」

 部屋の中の全員が、静まり返ってヘイルを見た。空調の風だけが、変わらない速さで回っている。

 リオの喉が動く。

「……俺ら、使い捨てかよ」

 誰も笑わない。ブリーフィングルームに、また沈黙が落ちる。

 ヘイルは否定しない。リオから目を逸らさず、ゆっくりと口を開いた。

「違う。検証だ」

 端末を閉じる。画面の光が消えて、その顔の輪郭が少しだけ暗くなった。

「出撃準備。解散」

 椅子が引かれる音が、ばらばらに鳴った。誰も言葉を交わさないまま、廊下へ流れていく。


 *


 廊下は明るく、足音が戻ってくる。西方本部の床は、歩く音を隠してくれない。

 セリが隣に並んだ。肩が近いのに、寄りかからない距離だ。視線は前のまま、声だけが横へ落ちる。

「今のは、言ってよかった」

 その言葉に、アスミは軽く息を吐き出す。

「止まらないと思った」

「止まらない」

 セリは即答して、息を継いだ。

「だから言う意味がある。言葉にしないと、残らない」

 少し遅れて、トムが追いつく。歩き方が軽い。軽いのに、乱れない。

「リオも言ってくれたね」

 眼鏡の縁を指で押し上げながら、天井の照明を一度だけ見上げる。

「慣れると、出来た気になるんだ。でも、僕達は……」

 そう言って、眼鏡越しにアスミを見て微笑む。

「使われっぱなしは嫌だよね」

 アスミはトムの顔を見た。この人は、目の奥がいつも優しい。

「うん」

 微笑み返して、それ以上は続けない。続ける必要がない、という顔をトムもした。


 *


 格納庫に入ると、匂いが変わる。油と金属と、冷却材の甘い匂い。工具が何かに触れる乾いた音。遠くで台車のゴムが鳴る。

 整備灯の下に、ヴィーラが立っている。人の形に近い輪郭。腕、脚、背の推進ユニット。表面装甲に擦り傷が残り、つやのない灰色が灯に照らされる。見上げると、肩の高さが天井の梁と同じくらいにある。

 REDROSEの機体の脚元に、整備士が立っていた。端末を覗き込み、配線を指で撫でる。指の動きが早い。

「反応、上限」

 顔を上げずに言う。

「上げるなら一気に。戻りで無理しないで」

 アスミは頷いた。

「了解しました」

 ヘルメットを被る。内側の布が額に触れる。喉が乾く。グローブの中で、指先が冷える。冷えるだけで、震えない。

 隣の区画でセリが機体に上がる。足場の金属が鳴る。顎紐の金具が噛み合う音が一度鳴って、止まった。

 無線のテストを済ませてから、セリがアスミへ声を向ける。低い声。切らない。

「危ないと感じたら言え。俺が間に入る」

 止めない。奪わない。ただ、線を割らせない言い方だ。

「うん」

 少し離れたところで、トムがグローブの指を一本ずつ押し込んでいる。指先が一瞬もたつく。すぐに戻る。

「同じで行く?」

 アスミは、短く頷いた。

「同じ。線の内側」

「了解」


 *


 コクピットへ乗り込むと、ハッチが閉まり、外の音が薄くなる。代わりに、内部の機械音が増えた。冷却の風。姿勢制御の低い唸り。計器の小さな電子音。

 《スクランブル。迎撃。第〇小隊、発進許可》

 カタパルトの衝撃が、背中から来た。

 重みが胸を押し、息が一瞬潰れる。アスミは口から細く吐いて、視界の端の滲みを追い出した。


 空が開く。雲の下は暗い。暗い中で、HUDだけが明るい。

 《高度帯三、維持。上は味方、下は射線。繰り返す、高度帯三維持》

 管制の声は平坦で、言葉が短い。短いまま、空を区切る。

 HUDの赤い点が増える。点は群れになって動く。

 アスミは帯の中へ姿勢を押し込んだ。脚部の噴射を短く噴かし、腰を起こす。推進の振動が背中へ伝わってくる。

 《下、三》

 トムの声。

「了解」

 アスミは腕を前へ出し、照準を点に合わせる。ロック音。引き金。赤い点が消える。

 消え方が速い。背中が一度、跳ねる。跳ねたあとに、次の点が来る。

 《デルタ、ブロック二交戦中。上に抜けるな!》

 別の編隊の声が割り込む。

 《落ちるな! 下は射線だ!》

 叫びが混ざる。叫びは説明じゃない。位置を守るための声だ。

 アスミは帯の中で身体を回した。腰を捻り、脚部の噴射で角度を作る。重量が片側へ寄り、肩と首に乗る。歯を噛む。吐いて、視界を保つ。

 《下、三》

 トムの声がもう一度入る。

 言葉は同じ。けれど、最初の音が遅い。息が混じっている。押し出している声だ。

 アスミの背中が冷えた。

 トムが、私と同じことをやろうとしている。

「トム、高さは崩さないで。上げるのは抜ける瞬間だけ」

 返事が来ない。無線に硬い音が混じった。短い衝撃。続けて擦れる音。音の種類だけで分かる。外側で金属が鳴っている。

 《BLUE2、速度低下。降下率、増。高度帯三、維持しろ》

 管制は原因を言わない。数字だけを読む。

 《BLUE2、被弾! 背中側、火花!》

 別の機の声が割り込む。言葉が荒い。息が切れている。

 《落ちるな! 下の射線に入るぞ!》

 また叫びが入る。

 HUDの端で、トムの機体の表示が帯の下端へ寄った。数字が削れていく。高度。速度。降下率だけが増える。

 《……当たった》

 トムの声が入る。短い。

「操縦は」

 声が遅れて聞こえる。

 《……重い》

 《トム、高度帯二に入るな。そこは味方の射線だ。戻せ、戻せ》

 アスミは自分の機体を帯の中へ押し戻した。脚部の噴射を噴かし、腰を起こす。戻れる。戻した。

 自分の数字は帯の内側に留まる。

 トムの数字は戻らない。帯の境目で揺れて、揺れたまま沈む。

「トム、上げて」

 返事がない。無線が薄くなる。そして、かすれた声が入る。

 《……いける》

 言葉の端が欠けている。

 そこへセリの声が入った。低い声。切らない声。

 《アスミ、落ちたら下の射線に入る。お前は高さを守れ、俺はトムを見る》

 セリの声が切れたあと、無線の隙間に別の音が入り込んだ。管制の更新、別編隊の叫び、警告音。重なって、どれも最後まで聞こえない。

 アスミは息を短く吐いた。歯を噛み、視界の明るさを保つ。

 HUDの帯の中に自分の表示を押し込む。脚部の噴射を小さく噴かし、腰を起こす。機体が上を向き、帯の中央に戻った。

 リオが息を吸う。

 《トム、昨日のREDROSEの角度だろ、それ!》

 ユイの声が被る。

 《出力足りない。同じ値でやらないで》

 セリが一段低く言う。

 《戻せ、トム。お前はアスミじゃない!》

 トムの声が届く。

 《ログ通りだ。……行ける。僕は……僕は使い捨てじゃない!》

 機体が、さらに踏み込む。昨日と同じ角度。昨日と同じ降下率。

 だが、出力の数値だけが届かない。トムの表示は戻らない。

 帯の下端で揺れたまま、数字が削れていく。高度が落ちる。速度が落ちる。降下率だけが増える。

 落ち方が一定じゃない。沈んで、止まって、また沈む。何かが引っかかっているみたいに、乱れる。

 《BLUE2、応答。高度帯二に入るな。戻せ》

 管制の声が繰り返される。繰り返されるだけで、何も変わらない。

 《トム! 背中側、火花! 推進、片側抜けてる!》

 マックスの機の声が割り込む。息が荒い。叫びに近い。

 推進が片側抜ける。その言葉だけで、アスミの喉が固くなった。片側が死んだ機体は、噴くたびに姿勢がねじれる。ねじれを戻すのに、また噴く。噴けば噴くほど、まっすぐ立てなくなる。

 トムの声が入った。

 《……重い》

 短い。次が来ない。

 アスミは指先を握り直した。グローブの中で、冷えた指がきしむ。

「トム、腕は動く?」

 返事が遅い。

 《……動く》

 言葉の端が欠ける。音量が下がったわけじゃない。息が足りていない。

 《落ちるな! 下は射線だ!》

 マックスの叫びがまた入る。叫びは、空の区画の話しかしていない。人の話をする余地がない。

 アスミは帯の中で照準を取り直した。赤い点がまだ残っている。点が残っている限り、帯を守るだけでは終われない。

 セリが別回線で、管制へ短く言った。

 《Alpha2、BLUE2に寄ります。高度帯三、維持したまま側面へ》

 管制が即座に返す。

 《許可。高度帯三維持。射線注意》

 許可という言葉が出ても、空の中では状況が変わらない。変わるのは動く順番だけだ。

 アスミは帯の内側で機体をひねり、赤い点へ向けた。腕を伸ばして照準を合わせる。引き金。点が消える。

 消えた瞬間、背中が一度だけ跳ねた。跳ねたあとに、トムの表示がさらに沈む。

 《BLUE2、降下率増。高度帯二に入るな。繰り返す、入るな》

 管制の声が少し早くなる。早くなるのは声じゃなく、更新の間隔だ。数字が詰まっていく。

 セリの声が入る。低い。近い。アスミの耳の奥に残る。

 《アスミ、高さは守れ。ここで落ちたら、下の射線に入る》

 さっきの一文の続きみたいに、現実だけが足される。

 《トム、聞こえるなら、いまの状態を言え》

 セリの問いに、トムはすぐ返さない。返さない代わりに、無線に擦れる音が入る。金属が引きずられるような、短い音。

 《……脚が》

 そこまで言って、途切れた。

 アスミは帯の中で機体を回した。視界の端に、トムの機体が見える。

 人の形が、まっすぐ立てていない。片脚が遅れてついてくる。背中の推進が片側だけ不規則に噴いている。噴いた瞬間に姿勢がねじれ、噴かない瞬間に沈む。

 人型は、立てなくなると、そのまま落ちる。

 《BLUE2、姿勢乱れ。高度帯二、侵入まで——距離——》

 更新が途中で切れる。別の声が被さった。

 《射線、射線! 高度帯二に落ちたら撃たれる!》

 その言い方が、怒鳴り声に近い。

 アスミは喉の奥で息を飲んだ。飲んだだけで、声は出さない。声を出した瞬間、帯の中の照準が揺れる。

 赤い点がまだ二つ残っている。残っているから、手を止められない。

 引き金を引く。ひとつ消える。

 次の点へ移る。移った瞬間、トムの表示が帯の境目を割った。

 《BLUE2、高度帯二、侵入》

 管制が言う。原因じゃない。結果だ。

 次の瞬間、無線が騒がしくなる。

 《下にいる機、射線クリアしろ! 落ちてきてる!》

 《BLUE2、上げろ! 上げろ!》

 《回避! 回避!》

 声が多すぎて、どれも最後まで聞こえない。

 アスミの視界の端で、トムの機体が一度だけ大きく傾いた。片側の推進が噴き、姿勢を戻す前に噴き切る。戻らないまま、さらに沈む。

 セリが、叫ばない声ではっきり言った。

 《トム、噴射を切れ。姿勢を戻してから、短く噴け》

 指示は具体だ。切らない。短くもしない。

 でも、返事がない。

 返事の代わりに、無線に短い衝撃音が入った。硬い音。次に、ガラスが砕けるみたいな音。

 アスミの身体が震えた。震えたのは怖さからじゃない。音が近いからだ。

 《BLUE2、応答途絶》

 管制の声が入る。平坦だ。平坦なまま言う言葉が、冷たく刺さる。

 アスミは帯の内側で息を吐いた。吐いたのに、胸が軽くならない。

 赤い点がまだ一つ残っている。残っている。

 セリが短く言う。

 《最後を落とせ、アスミ。線を守る》

 アスミは頷く代わりに、照準を合わせた。引き金。点が消える。

 消えた瞬間、耳の奥が鳴った。鳴ったあとに、静かになる。

 静かになるのは無線じゃなくて、自分の頭の中だった。


 *


 《侵入阻止。高度帯三、維持。帰投指示》

 管制が言う。指示は続く。続いてしまう。

 アスミは帯の中で姿勢を戻した。戻せる。戻した。

 戻したまま、HUDの端を見続ける。

 BLUE2の表示がない。呼称だけが残って、位置が更新されない。

 マックスとリサの声が、無線越しにトムの名前を叫んだ。

 《トム! 返事しろ!》

 《トム!》

 名前を呼ぶ声だけが、区画の話をしていた。

 その中に、セリの声が入る。低い。アスミの耳の奥に残る。

 《いまは戻る。……戻ってから探す》

 探す、という言葉が、アスミの喉の奥に引っかかった。返事は出ない。出さない。出せない。


 *


 格納庫に戻ると、音が戻ってきた。台車のゴムの鳴り。工具の金属音。整備灯の唸り。

 帰ってきたのに、戻った気がしない。

 ハッチが開く。外気が入る。油と金属の匂いが濃い。アスミは足場に片足を出し、もう片足を出す。脚が床に触れる。触れたのに、膝が緩まない。

 整備士が下から見上げる。

「……生きてるな」

 その言葉が、軽い冗談にならない。

「はい」

 アスミの声は普通に出た。普通に出てしまうのが、気持ち悪い。

 少し離れた場所で、セリの機体が降りてくる。セリがハッチを開け、降りる。顔色は変わらない。変わらないまま、目だけが格納庫の奥を見ている。

 そこには空いた区画がある。さっきまで一機ぶん、埋まっていた場所だ。整備台も、工具も、床の停止線も、そのまま残っている。使う機体だけがない。

 ヘイルの声が、格納庫の入口から入ってきた。歩きながら端末を見ている。

「損耗、一」

 数字にする声。

 アスミは立ったまま、ヘイルへ向き直った。敬礼をする前に、喉が一度だけ動く。

「……トムは」

「回収班が出る。手続きは進める」

 ヘイルは言葉を切らない。切らないのに、温度がない。

「戦果は維持。侵入阻止。高度帯逸脱なし。——REDROSE、出力適合は問題なし」

 問題なし。その言葉が、いちばん問題だった。

 アスミは敬礼をした。腕が上がる。指が揃う。揃うのが、気持ち悪い。


 *


 廊下に出る。照明が白い。床が硬い。足音が返ってくる。返ってくる足音の列に、ぽっかり空きがある。

 廊下にいたパイロットが話している。声は大きくないのに、耳に届いてしまう。

「BLUE2が落ちた。あの攻め方、無謀だったんじゃないか」

 無謀。

 アスミは足を止めない。止めたら、そこに立ち尽くすことになる。

 セリが隣に並ぶ。視線は前のまま。声だけを落とす。

「……お前が言ったことは、間違ってなかった」

 朝の会議室で言った言葉だ。同じ基準にしたら、誰かが堕ちる。

 言って、通らなかった。通らなかったのに、その通りになった。

 セリはそれ以上、言わない。慰めない。ただ、正しかったことだけを置いていく。

 その手は、爪の跡が残るくらい硬く握りしめられていた。

 アスミは何も返せなかった。胸の奥で、同じ動きが何度も繰り返される。

 さっきの沈み方。さっきの音。さっきの表示の消え方。

 トムが、無謀?

 私だって、同じ事をした。ただ、生きて帰ってきただけだ。

 じゃあ、私は何を犠牲にして生き残った? 私は正しかったと言われる資格がある?

 アスミは息を吐いた。吐いたのに、胸が軽くならない。廊下の白い照明が、さっきより眩しい。

 曲がり角の先に、シュタイナーが立っていた。端末を抱えている。表情は変わらない。変えない。

 視線は、アスミの顔ではなく、手の動きと歩幅を見ていた。

 シュタイナーは一歩だけ寄り、声を落とす。柔らかい敬語。いつも通りの距離。声だけは、いつもより真剣だった。

「……彼は無謀ではありません。出来る範囲で、やるべきことをしました」

 それ以上は言わなかった。

「……はい」

 アスミはシュタイナーを見られなかった。今、顔を見たら崩れてしまいそうな気がした。

 ただ、その肩越しに、真っ直ぐ伸びた廊下を見ていた。


 廊下の先に、リサとマックスがいる。泣いているリサの肩に、マックスが沈んだ表情で手を置いていた。

 リサはアスミを見ると、こちらに向かって歩いてくる。

 その指が、アスミの袖を掴んだ。

「……っ。トムの側で飛んでたよね?」

 頬を伝う涙を見ながら、アスミは何も答えられない。

 リサの指先が白くなる。

「REDROSEは……アスミは生きてたのに……」

 マックスがリサの肩を両手で押さえて止めた。

「リサ。リサ、やめろ」

 掴んだ指は離れない。その指だけに視線を落としたまま、アスミは小さな声で呟いた。

「……ごめん」

 リサがマックスに肩を抱かれて、アスミから離れていく。

 アスミは、その場に立ちすくんだ。

 生きて帰っていい理由を、私はまだ持っていない。

 息はちゃんとできている。なのに、どこも動かない。指が冷えて、少し震えているだけ。

 トムの柔らかい笑顔。眼鏡の奥の優しい目元。使われっぱなしは嫌だよね、と言った時の、あの微笑み。

 その全てが鮮明に思い出せる。

 なのに。

 私はどうして、悲しくないんだろう。


 廊下の端に、リオが立っている。壁にもたれて、何も言わない。ブリーフィング室の扉、その一点だけを見ている。拳が白くなるほど、握られていた。

 廊下には、空調の音が一定に鳴り続けていた。


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