Sky59-基準の先の死-
本作『SKY』は作者本人が小説家になろうにて連載・管理しています。無断転載・無断利用を禁じます。
翌日も、任務は通常通りに進む。連日の出撃で、アスミたちパイロットにも疲労が溜まっていた。
ブリーフィングルームの床は硬く、椅子の脚が触れるたび、短い擦過音が鳴った。音が鳴るのは最初だけで、全員が座り直すと、空調の風と端末のタップ音しか残らない。
正面の壁一面に、戦域図が投影されている。線と帯と点。地名は出ない。人の形も出ない。
赤い点だけが、帯の外から内へ滑り込んでくる。
ヘイルは前に立ったまま、端末を親指で送った。声は一定で抑揚がなく、視線は画面から外れない。
「迎撃。帝国軍ヴィーラ編隊、侵入。規模は中。侵入線はここ」
赤い線が強調され、点の群れがその方向へ寄る。
「高度帯は三。上は味方が通る。下は味方の射線が通る。ここから動くな。落ちるな」
誰かが息を呑む音が、喉の奥で鳴った。すぐに飲み込まれ、消える。
「線の内側で塞ぐ。追撃は不要。逸脱は報告対象」
言い切ると、指先で次のページへ送った。そこには、同じ帯と、同じ線が並んでいるだけだ。
アスミは膝の上の端末に手を置いたまま、息を一つ入れた。胸の内側が早くなる。早くなるだけで、顔は変えない。
「確認、よろしいですか」
ヘイルの目だけが、アスミに向いた。
「言え」
アスミは言葉を選ぶ。短く切りすぎない。けれど、余計に引き延ばさない。
「昨日のは、私だから通っただけです。同じ基準にしたら、誰かが堕ちます」
室内の空気が、固くなる。
トムが眼鏡の位置を直した。笑いはない。視線が柔らかいのに、逃げない。セリは腕を組んだまま、画面を見ている。アスミを見ない。けれど、耳は受け取っている。
ヘイルは端末を一度だけスクロールした。
「偶然でも、結果が出れば運用だ。逸脱は記録に残す。記録は数字になる」
数字、という言葉が冷たい。
アスミは続けない。ここで続ければ議論になり、議論になれば出撃が遅れる。
リオが机に手を置いたまま、口を開いた。静かなのに、声は低い。
「REDROSEと同じことを、俺らにやれって言うんですか」
ヘイルは目だけをリオに向ける。
「そうだ。そのためのREDROSEのデータで、そのための、お前たち第〇試験飛行隊だ」
部屋の中の全員が、静まり返ってヘイルを見た。空調の風だけが、変わらない速さで回っている。
リオの喉が動く。
「……俺ら、使い捨てかよ」
誰も笑わない。ブリーフィングルームに、また沈黙が落ちる。
ヘイルは否定しない。リオから目を逸らさず、ゆっくりと口を開いた。
「違う。検証だ」
端末を閉じる。画面の光が消えて、その顔の輪郭が少しだけ暗くなった。
「出撃準備。解散」
椅子が引かれる音が、ばらばらに鳴った。誰も言葉を交わさないまま、廊下へ流れていく。
*
廊下は明るく、足音が戻ってくる。西方本部の床は、歩く音を隠してくれない。
セリが隣に並んだ。肩が近いのに、寄りかからない距離だ。視線は前のまま、声だけが横へ落ちる。
「今のは、言ってよかった」
その言葉に、アスミは軽く息を吐き出す。
「止まらないと思った」
「止まらない」
セリは即答して、息を継いだ。
「だから言う意味がある。言葉にしないと、残らない」
少し遅れて、トムが追いつく。歩き方が軽い。軽いのに、乱れない。
「リオも言ってくれたね」
眼鏡の縁を指で押し上げながら、天井の照明を一度だけ見上げる。
「慣れると、出来た気になるんだ。でも、僕達は……」
そう言って、眼鏡越しにアスミを見て微笑む。
「使われっぱなしは嫌だよね」
アスミはトムの顔を見た。この人は、目の奥がいつも優しい。
「うん」
微笑み返して、それ以上は続けない。続ける必要がない、という顔をトムもした。
*
格納庫に入ると、匂いが変わる。油と金属と、冷却材の甘い匂い。工具が何かに触れる乾いた音。遠くで台車のゴムが鳴る。
整備灯の下に、ヴィーラが立っている。人の形に近い輪郭。腕、脚、背の推進ユニット。表面装甲に擦り傷が残り、つやのない灰色が灯に照らされる。見上げると、肩の高さが天井の梁と同じくらいにある。
REDROSEの機体の脚元に、整備士が立っていた。端末を覗き込み、配線を指で撫でる。指の動きが早い。
「反応、上限」
顔を上げずに言う。
「上げるなら一気に。戻りで無理しないで」
アスミは頷いた。
「了解しました」
ヘルメットを被る。内側の布が額に触れる。喉が乾く。グローブの中で、指先が冷える。冷えるだけで、震えない。
隣の区画でセリが機体に上がる。足場の金属が鳴る。顎紐の金具が噛み合う音が一度鳴って、止まった。
無線のテストを済ませてから、セリがアスミへ声を向ける。低い声。切らない。
「危ないと感じたら言え。俺が間に入る」
止めない。奪わない。ただ、線を割らせない言い方だ。
「うん」
少し離れたところで、トムがグローブの指を一本ずつ押し込んでいる。指先が一瞬もたつく。すぐに戻る。
「同じで行く?」
アスミは、短く頷いた。
「同じ。線の内側」
「了解」
*
コクピットへ乗り込むと、ハッチが閉まり、外の音が薄くなる。代わりに、内部の機械音が増えた。冷却の風。姿勢制御の低い唸り。計器の小さな電子音。
《スクランブル。迎撃。第〇小隊、発進許可》
カタパルトの衝撃が、背中から来た。
重みが胸を押し、息が一瞬潰れる。アスミは口から細く吐いて、視界の端の滲みを追い出した。
空が開く。雲の下は暗い。暗い中で、HUDだけが明るい。
《高度帯三、維持。上は味方、下は射線。繰り返す、高度帯三維持》
管制の声は平坦で、言葉が短い。短いまま、空を区切る。
HUDの赤い点が増える。点は群れになって動く。
アスミは帯の中へ姿勢を押し込んだ。脚部の噴射を短く噴かし、腰を起こす。推進の振動が背中へ伝わってくる。
《下、三》
トムの声。
「了解」
アスミは腕を前へ出し、照準を点に合わせる。ロック音。引き金。赤い点が消える。
消え方が速い。背中が一度、跳ねる。跳ねたあとに、次の点が来る。
《デルタ、ブロック二交戦中。上に抜けるな!》
別の編隊の声が割り込む。
《落ちるな! 下は射線だ!》
叫びが混ざる。叫びは説明じゃない。位置を守るための声だ。
アスミは帯の中で身体を回した。腰を捻り、脚部の噴射で角度を作る。重量が片側へ寄り、肩と首に乗る。歯を噛む。吐いて、視界を保つ。
《下、三》
トムの声がもう一度入る。
言葉は同じ。けれど、最初の音が遅い。息が混じっている。押し出している声だ。
アスミの背中が冷えた。
トムが、私と同じことをやろうとしている。
「トム、高さは崩さないで。上げるのは抜ける瞬間だけ」
返事が来ない。無線に硬い音が混じった。短い衝撃。続けて擦れる音。音の種類だけで分かる。外側で金属が鳴っている。
《BLUE2、速度低下。降下率、増。高度帯三、維持しろ》
管制は原因を言わない。数字だけを読む。
《BLUE2、被弾! 背中側、火花!》
別の機の声が割り込む。言葉が荒い。息が切れている。
《落ちるな! 下の射線に入るぞ!》
また叫びが入る。
HUDの端で、トムの機体の表示が帯の下端へ寄った。数字が削れていく。高度。速度。降下率だけが増える。
《……当たった》
トムの声が入る。短い。
「操縦は」
声が遅れて聞こえる。
《……重い》
《トム、高度帯二に入るな。そこは味方の射線だ。戻せ、戻せ》
アスミは自分の機体を帯の中へ押し戻した。脚部の噴射を噴かし、腰を起こす。戻れる。戻した。
自分の数字は帯の内側に留まる。
トムの数字は戻らない。帯の境目で揺れて、揺れたまま沈む。
「トム、上げて」
返事がない。無線が薄くなる。そして、かすれた声が入る。
《……いける》
言葉の端が欠けている。
そこへセリの声が入った。低い声。切らない声。
《アスミ、落ちたら下の射線に入る。お前は高さを守れ、俺はトムを見る》
セリの声が切れたあと、無線の隙間に別の音が入り込んだ。管制の更新、別編隊の叫び、警告音。重なって、どれも最後まで聞こえない。
アスミは息を短く吐いた。歯を噛み、視界の明るさを保つ。
HUDの帯の中に自分の表示を押し込む。脚部の噴射を小さく噴かし、腰を起こす。機体が上を向き、帯の中央に戻った。
リオが息を吸う。
《トム、昨日のREDROSEの角度だろ、それ!》
ユイの声が被る。
《出力足りない。同じ値でやらないで》
セリが一段低く言う。
《戻せ、トム。お前はアスミじゃない!》
トムの声が届く。
《ログ通りだ。……行ける。僕は……僕は使い捨てじゃない!》
機体が、さらに踏み込む。昨日と同じ角度。昨日と同じ降下率。
だが、出力の数値だけが届かない。トムの表示は戻らない。
帯の下端で揺れたまま、数字が削れていく。高度が落ちる。速度が落ちる。降下率だけが増える。
落ち方が一定じゃない。沈んで、止まって、また沈む。何かが引っかかっているみたいに、乱れる。
《BLUE2、応答。高度帯二に入るな。戻せ》
管制の声が繰り返される。繰り返されるだけで、何も変わらない。
《トム! 背中側、火花! 推進、片側抜けてる!》
マックスの機の声が割り込む。息が荒い。叫びに近い。
推進が片側抜ける。その言葉だけで、アスミの喉が固くなった。片側が死んだ機体は、噴くたびに姿勢がねじれる。ねじれを戻すのに、また噴く。噴けば噴くほど、まっすぐ立てなくなる。
トムの声が入った。
《……重い》
短い。次が来ない。
アスミは指先を握り直した。グローブの中で、冷えた指がきしむ。
「トム、腕は動く?」
返事が遅い。
《……動く》
言葉の端が欠ける。音量が下がったわけじゃない。息が足りていない。
《落ちるな! 下は射線だ!》
マックスの叫びがまた入る。叫びは、空の区画の話しかしていない。人の話をする余地がない。
アスミは帯の中で照準を取り直した。赤い点がまだ残っている。点が残っている限り、帯を守るだけでは終われない。
セリが別回線で、管制へ短く言った。
《Alpha2、BLUE2に寄ります。高度帯三、維持したまま側面へ》
管制が即座に返す。
《許可。高度帯三維持。射線注意》
許可という言葉が出ても、空の中では状況が変わらない。変わるのは動く順番だけだ。
アスミは帯の内側で機体をひねり、赤い点へ向けた。腕を伸ばして照準を合わせる。引き金。点が消える。
消えた瞬間、背中が一度だけ跳ねた。跳ねたあとに、トムの表示がさらに沈む。
《BLUE2、降下率増。高度帯二に入るな。繰り返す、入るな》
管制の声が少し早くなる。早くなるのは声じゃなく、更新の間隔だ。数字が詰まっていく。
セリの声が入る。低い。近い。アスミの耳の奥に残る。
《アスミ、高さは守れ。ここで落ちたら、下の射線に入る》
さっきの一文の続きみたいに、現実だけが足される。
《トム、聞こえるなら、いまの状態を言え》
セリの問いに、トムはすぐ返さない。返さない代わりに、無線に擦れる音が入る。金属が引きずられるような、短い音。
《……脚が》
そこまで言って、途切れた。
アスミは帯の中で機体を回した。視界の端に、トムの機体が見える。
人の形が、まっすぐ立てていない。片脚が遅れてついてくる。背中の推進が片側だけ不規則に噴いている。噴いた瞬間に姿勢がねじれ、噴かない瞬間に沈む。
人型は、立てなくなると、そのまま落ちる。
《BLUE2、姿勢乱れ。高度帯二、侵入まで——距離——》
更新が途中で切れる。別の声が被さった。
《射線、射線! 高度帯二に落ちたら撃たれる!》
その言い方が、怒鳴り声に近い。
アスミは喉の奥で息を飲んだ。飲んだだけで、声は出さない。声を出した瞬間、帯の中の照準が揺れる。
赤い点がまだ二つ残っている。残っているから、手を止められない。
引き金を引く。ひとつ消える。
次の点へ移る。移った瞬間、トムの表示が帯の境目を割った。
《BLUE2、高度帯二、侵入》
管制が言う。原因じゃない。結果だ。
次の瞬間、無線が騒がしくなる。
《下にいる機、射線クリアしろ! 落ちてきてる!》
《BLUE2、上げろ! 上げろ!》
《回避! 回避!》
声が多すぎて、どれも最後まで聞こえない。
アスミの視界の端で、トムの機体が一度だけ大きく傾いた。片側の推進が噴き、姿勢を戻す前に噴き切る。戻らないまま、さらに沈む。
セリが、叫ばない声ではっきり言った。
《トム、噴射を切れ。姿勢を戻してから、短く噴け》
指示は具体だ。切らない。短くもしない。
でも、返事がない。
返事の代わりに、無線に短い衝撃音が入った。硬い音。次に、ガラスが砕けるみたいな音。
アスミの身体が震えた。震えたのは怖さからじゃない。音が近いからだ。
《BLUE2、応答途絶》
管制の声が入る。平坦だ。平坦なまま言う言葉が、冷たく刺さる。
アスミは帯の内側で息を吐いた。吐いたのに、胸が軽くならない。
赤い点がまだ一つ残っている。残っている。
セリが短く言う。
《最後を落とせ、アスミ。線を守る》
アスミは頷く代わりに、照準を合わせた。引き金。点が消える。
消えた瞬間、耳の奥が鳴った。鳴ったあとに、静かになる。
静かになるのは無線じゃなくて、自分の頭の中だった。
*
《侵入阻止。高度帯三、維持。帰投指示》
管制が言う。指示は続く。続いてしまう。
アスミは帯の中で姿勢を戻した。戻せる。戻した。
戻したまま、HUDの端を見続ける。
BLUE2の表示がない。呼称だけが残って、位置が更新されない。
マックスとリサの声が、無線越しにトムの名前を叫んだ。
《トム! 返事しろ!》
《トム!》
名前を呼ぶ声だけが、区画の話をしていた。
その中に、セリの声が入る。低い。アスミの耳の奥に残る。
《いまは戻る。……戻ってから探す》
探す、という言葉が、アスミの喉の奥に引っかかった。返事は出ない。出さない。出せない。
*
格納庫に戻ると、音が戻ってきた。台車のゴムの鳴り。工具の金属音。整備灯の唸り。
帰ってきたのに、戻った気がしない。
ハッチが開く。外気が入る。油と金属の匂いが濃い。アスミは足場に片足を出し、もう片足を出す。脚が床に触れる。触れたのに、膝が緩まない。
整備士が下から見上げる。
「……生きてるな」
その言葉が、軽い冗談にならない。
「はい」
アスミの声は普通に出た。普通に出てしまうのが、気持ち悪い。
少し離れた場所で、セリの機体が降りてくる。セリがハッチを開け、降りる。顔色は変わらない。変わらないまま、目だけが格納庫の奥を見ている。
そこには空いた区画がある。さっきまで一機ぶん、埋まっていた場所だ。整備台も、工具も、床の停止線も、そのまま残っている。使う機体だけがない。
ヘイルの声が、格納庫の入口から入ってきた。歩きながら端末を見ている。
「損耗、一」
数字にする声。
アスミは立ったまま、ヘイルへ向き直った。敬礼をする前に、喉が一度だけ動く。
「……トムは」
「回収班が出る。手続きは進める」
ヘイルは言葉を切らない。切らないのに、温度がない。
「戦果は維持。侵入阻止。高度帯逸脱なし。——REDROSE、出力適合は問題なし」
問題なし。その言葉が、いちばん問題だった。
アスミは敬礼をした。腕が上がる。指が揃う。揃うのが、気持ち悪い。
*
廊下に出る。照明が白い。床が硬い。足音が返ってくる。返ってくる足音の列に、ぽっかり空きがある。
廊下にいたパイロットが話している。声は大きくないのに、耳に届いてしまう。
「BLUE2が落ちた。あの攻め方、無謀だったんじゃないか」
無謀。
アスミは足を止めない。止めたら、そこに立ち尽くすことになる。
セリが隣に並ぶ。視線は前のまま。声だけを落とす。
「……お前が言ったことは、間違ってなかった」
朝の会議室で言った言葉だ。同じ基準にしたら、誰かが堕ちる。
言って、通らなかった。通らなかったのに、その通りになった。
セリはそれ以上、言わない。慰めない。ただ、正しかったことだけを置いていく。
その手は、爪の跡が残るくらい硬く握りしめられていた。
アスミは何も返せなかった。胸の奥で、同じ動きが何度も繰り返される。
さっきの沈み方。さっきの音。さっきの表示の消え方。
トムが、無謀?
私だって、同じ事をした。ただ、生きて帰ってきただけだ。
じゃあ、私は何を犠牲にして生き残った? 私は正しかったと言われる資格がある?
アスミは息を吐いた。吐いたのに、胸が軽くならない。廊下の白い照明が、さっきより眩しい。
曲がり角の先に、シュタイナーが立っていた。端末を抱えている。表情は変わらない。変えない。
視線は、アスミの顔ではなく、手の動きと歩幅を見ていた。
シュタイナーは一歩だけ寄り、声を落とす。柔らかい敬語。いつも通りの距離。声だけは、いつもより真剣だった。
「……彼は無謀ではありません。出来る範囲で、やるべきことをしました」
それ以上は言わなかった。
「……はい」
アスミはシュタイナーを見られなかった。今、顔を見たら崩れてしまいそうな気がした。
ただ、その肩越しに、真っ直ぐ伸びた廊下を見ていた。
廊下の先に、リサとマックスがいる。泣いているリサの肩に、マックスが沈んだ表情で手を置いていた。
リサはアスミを見ると、こちらに向かって歩いてくる。
その指が、アスミの袖を掴んだ。
「……っ。トムの側で飛んでたよね?」
頬を伝う涙を見ながら、アスミは何も答えられない。
リサの指先が白くなる。
「REDROSEは……アスミは生きてたのに……」
マックスがリサの肩を両手で押さえて止めた。
「リサ。リサ、やめろ」
掴んだ指は離れない。その指だけに視線を落としたまま、アスミは小さな声で呟いた。
「……ごめん」
リサがマックスに肩を抱かれて、アスミから離れていく。
アスミは、その場に立ちすくんだ。
生きて帰っていい理由を、私はまだ持っていない。
息はちゃんとできている。なのに、どこも動かない。指が冷えて、少し震えているだけ。
トムの柔らかい笑顔。眼鏡の奥の優しい目元。使われっぱなしは嫌だよね、と言った時の、あの微笑み。
その全てが鮮明に思い出せる。
なのに。
私はどうして、悲しくないんだろう。
廊下の端に、リオが立っている。壁にもたれて、何も言わない。ブリーフィング室の扉、その一点だけを見ている。拳が白くなるほど、握られていた。
廊下には、空調の音が一定に鳴り続けていた。
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