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SKY  作者: RUI
BASE UNION

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61/71

Sky61-英雄でない理由-

 



 翌日の格納庫はいつも通り静かだった。必要のない音がしない。


 機体は列で並び、床のガイドラインから一ミリもはみ出していなかった。

 整備用の台車も、工具箱も、色と番号で区分されている。

  どこに何があるか一目で分かる。分かるのに、胸が落ち着かない。


 あすみはセリの後ろを歩いていたが、通路の端で立ち止まった。

 SKYの影が、床に落ちている。

 自分がその影の内側に立っていることを、少し遅れて意識する。


 奥で、工具の音がひとつ、少しだけ遅れて止まった。


 あすみが振り返ると、機体の腹の下から、人が顔を出すところだった。

 整備服の袖を肘までまくり上げたまま、片手に端末、もう片手にウエスを持っている。


「……あ」


 声にならない声を出して、男は一瞬だけ動きを止めた。

 あすみと目が合って、困ったように口角を上げる。


「ごめん。通る?」


 それだけ言って、半歩だけ下がった。

 道を譲る、というより、そこに“いること”を思い出したみたいな動きだった。


「いえ……大丈夫です」


 あすみが答えると、男は「そっか」と短く言って、また機体の方へ視線を戻す。

 興味を失った、というより、最初から深く見ていない。


 端末を操作する指が、少し早い。

 画面を覗き込む目は真剣なのに、表情はどこか気が抜けている。


 近くで別の整備員が呼ぶ。


「ケニー、それ終わったら次こっちな」


「はいはい」


 軽い返事。

 敬礼もない。気負いもない。


 ケニーと呼ばれた男は、最後に機体を一度だけ見上げてから、あすみの方をちらりと見た。

 今度は目が合わなかった。


 それだけだった。


 なのに、あすみは一瞬、自分の立っている場所を意識してしまった。

 通路の真ん中。SKYの影が落ちる位置。


 理由は分からない。

 ただ、胸の奥に、小さな引っかかりが残った。


「あすみ、自分の装備確認しとけよ」

 セリが少し離れた自分のSKYのところからあすみを呼ぶ。


 あすみはセリの方に顔を向けると何も言わず、歩き出した。


 背後で、また工具の音が鳴り始める。


 あすみは自分の機体の前に立つ。

 整備担当の二人が、端末を見ながら作業を進めていた。

 ひとりは若い整備員、もうひとりは班長格らしい男で、袖口に細い識別色が入っている。


「Red Rose、点検対象は脚部と腹部。昨日の帰還ログ、こちらで反映済みです」


 班長が言う。口調は丁寧だが、言い切ってから目だけ端末に戻る。


「ありがとうございます。……あの、これ」


 あすみは腹部パネルの下、交換済みの部品を指さした。外見は同じ。けれど留め具の角が、前より硬い形に変わっている。


「この部品、前と違いますね」


 班長の手が止まった。

 若い整備員が一瞬だけ顔を上げて、また下げる。


「規定更新です。第三改修ロットに切り替わりました」


「……前のロット、在庫切れですか?」


「在庫はあります。ただ、使用優先順位が変わったので」


 班長はさらっと言う。言い方が、配給の説明みたいだった。


 あすみは留め具の角を指先で軽く押した。

 硬い。冬場の手袋だと、操作が一拍遅れる。緊急時に、その一拍は嫌だ。


「前のほうが良くないですか?」


 声は荒げなかった。

 ただ、はっきり言った。


 班長が端末から目を上げた。初めて、あすみの顔を見た気がした。


「良い、の定義が変わったんでしょう。今は“整備性”と“統一性”が優先です」


「……操縦側の感触は?」


「感触は評価項目に含まれてません。動作は規格内です」


 言葉が綺麗に揃っている。

 揃いすぎて、返す場所がない。


 あすみはもう一度留め具に触れた。指が少し滑る。厚手の手袋のせいだけじゃない。角度が違う。


(前のほうが、良かった)


 口の中でだけ言って、飲み込む。


(でも、規定が変わった)


 この基地では、その一言でほとんど終わる。


 セリが横から覗き込んだ。


「……要するに、“新しいほうが正しい”ってやつ?」


 班長は否定もしない。


「正しい、ではなく、統一です。統一されていない機体は整備計画が崩れます。崩れると、出撃計画が崩れます」


 計画。

 崩れる。

 出撃。


 順番が、手触りじゃなくて、上から降りてくる。


 あすみは息を吸った。吐く。

 言うなら今だ。黙って帰ったら、また飲み込むことになる。


 あすみは班長を見た。


「規定内なのは分かりました。――でも、緊急時の操作だけ、確認させてもらえますか」


 “変更しろ”とは言わない。

 “戻せ”とも言わない。


 確認させてほしい。

 その形にすると、ここでは通る可能性がある。


 班長は一拍置いた。

 端末の画面を二度ほどスクロールして、許可の欄を探す指の動き。


「……手順書に従うなら。五分。作業を止めます」


「ありがとうございます」


 あすみはコクピットに上がり、手袋のまま動作確認の手順を踏む。

 留め具を外す。装備の固定を解除。再固定。

 どれもできる。ただ、指の動きが一拍遅れる。


 終わったあと、あすみは降りた。


「……やっぱり、硬いです。手袋だと滑ります」


 班長は頷きも否定もしない。


「記録します。操縦側所見として“冬季手袋で滑り”」


 あすみはその言葉に、少しだけ肩が抜けた。

 変わらないかもしれない。けれど、“無かったこと”にはされない形になった。


 若い整備員がぼそっと言った。


「REDROSE、細かいっすね」


 悪意のない声だった。

 ただ、面倒な客を見たときの温度。


 あすみは笑ってみせた。


「細かい方が、生き残るので」


 言ってから、胸の内側が少しだけ熱くなる。

 北方で言い慣れた言い方だ。ここでは通じ方が違う。


 班長が作業を再開しながら言う。


「生き残るのは、計画通りに動く人です」


 あすみは返事をしなかった。

 しなかったけれど、目を逸らさなかった。


 あすみは、機体を見上げる。

 交換された部品は新品で、光を返していた。腹の下で、工具が金属を叩く音が規則正しく続く。

 あすみは手袋の指先を一度だけ擦り合わせ、さっき滑った感触を確かめた。皮の粉がわずかに落ちる。


「……言った。今は、それでいい」


 その言葉を飲み込む前に、鼻の奥に溶剤の匂いが残った。

 新しい部品の匂い。規定の匂い。

 あすみは機体の腹から視線を外し、工具音の間を縫うように一歩だけ下がった。


 格納庫の匂いが、まだ鼻の奥に残っていた。

 新品の金属と、乾いた溶剤。整備班の手の動きが、さっきより少しだけ速くなっているのも見えた。


 あすみとセリはブリーフィングルームへ向かった。

 通路は広く、壁の掲示は整列している。足音が反響して、二人分しかいないのが分かるほどだった。


 扉を開けると、空気が変わる。

 誰が先に喋っていいかが決まっている空気だった。


 ホルスト少佐が前に立ち、端末画面を投影していた。作戦区域、出撃回数、機体稼働率、整備稼働率。

 画面に出ているのは稼働率と回数だけで、現場の状況は一行もない。


「本日の後方支援、一本目。1400。初回運用確認を行う」


 誰かが「了解」と返す。

 あすみも同じように頷き、手元のメモに視線を落とした。書く内容が少ない。項目は多いのに、説明が少ない。


 話が終わると、皆が一斉に立ち上がる。

 椅子の脚が床に触れる音まで、揃っている。


 あすみは、ホルストの横に付いた。

 歩き出すタイミングを逃すと、ここでは声が届かない気がした。


「少佐。少し、よろしいですか」


 ホルストは足を止めずに、横目だけを向けた。


「結論から」


 その言い方が、もう規定みたいだった。


 あすみは息を吸って言う。


「このペースでは、整備班が持ちません」


 言った瞬間、心臓が一拍強く鳴った。

 怒鳴ってない。噛みついてもいない。ただ、はっきり言った。


 ホルストは眉一つ動かずに、歩きながら端末を操作した。


「整備稼働率は規定内だ。持つ持たないは“感想”だろう」


「稼働率は数字です。現場は――」


「現場は、規定内で回せ。回せないなら、整備班の問題だ」


 あすみの口の中が乾いた。

 昨日の留め具の話が、胸の奥で小さく跳ね返る。


「……整備班は、回してます。回して、回して――」


 言いかけたところで、ホルストが立ち止まった。

 廊下の角、監視カメラの死角がない場所。わざわざそこを選ぶみたいに。


「古賀」


 呼び捨てだった。

 あすみの背筋が、反射で伸びる。


「お前は、優秀だ。記録もあるし軍の象徴でもある。だからここにいる」


「……はい」


 ホルストは声を落とした。

 周囲に聞こえない音量なのに、言葉だけは刃みたいに届く。


「だが、口が多い」


 あすみは目を逸らさなかった。

 逸らしたら負ける、というより、逸らしたら自分が崩れる気がした。


「少佐。私は――」


「最後まで聞け」


 ホルストが遮る。

 この基地では、それが正しい。


「お前が反発するたびに、周囲は面倒になる。面倒が増えると、処理が増える。処理が増えると、割を食う人間が出る」


 あすみは小さく息を吐く。

 誰のことを言っているのか、分からないふりはできた。でも――。


 ホルストは、そこで一度だけ視線を外し、廊下の先にいる人影を見た。

 訓練棟の入り口付近で、セリが他の隊員に呼び止められている。短く頷き、笑っている。いつも通りの顔。


 ホルストの声が戻る。


「……相棒」


 その一語が、胸のどこかに引っかかった。


「アンダーソンは扱いやすい。余計なことを言わない。上の命令を、淡々と遂行する」


 あすみの喉がきゅっと鳴る。


「十三から軍籍だ、ノーザンクロスで、お前達を“見張る側”で働いてきた。

 お前も知っているだろう。ーーーだから上は、動かし方を知っている。」


「それに、ここには、ハイルトン・グレイ大佐のような理想主義者もいない。バディを組ませ続ける必要もない」


 ホルストは言い切った。


「だから、次の配置候補に入っている。激戦区のな」


 あすみの視界が、ほんの一瞬だけ狭くなる。

 耳の奥が熱くなって、指先が冷える。


(……激戦区の配置候補?)

(私が反発すると、セリが……)


 ホルストが続ける。


「お前の“正しさ”で、周囲を巻き込むな。巻き込むなら、責任を取れ」


「……責任?」


 声が出た。自分でも驚くくらい、低かった。


 ホルストは淡々と答える。

「試験飛行隊ってのはな、機体じゃない。人間を試すんだ」

「もし、アンダーソンが引き抜かれても、お前が穴を埋めろ。お前ならできるだろ」

「“REDROSE”。ーーそういう役だ」


 それは誉め言葉の形だった。

 でも、あすみの中では別のものに聞こえた。


(……できる?)

(セリがいなくなっても?)

(一人で、全部?)


 抜ける。

 穴を埋める。

 代替。


 言葉が、部品の交換手順みたいに並んでいく。


(……言えない)


 さっきまで口の中にあった熱が、引いていく。


(言っても、通らない)

(通らないどころか、飛び火する)


 ホルストの目が、ほんの少しだけ細くなる。


「分かったな」


 あすみは返事を探した。

 探して、見つからない。見つからないまま、口が動いた。


「……了解しました」


 音が、乾いていた。


 ホルストはそれで終わりにした。

 歩き出す。足音が均一で、迷いがない。


 あすみはその場に一拍だけ遅れて、追うこともせず立っていた。

 壁際の掲示板に貼られた今日の予定表が、目に入る。分刻み。文字が綺麗すぎて、どこにも手の温度がない。


 胸の奥で、言葉が引っかかった。さっきと同じ場所で。

 喉の奥が、少しだけ痛い。


(言ったら、セリがーー。)


 視線の先で、セリがこちらに気づいた。

 軽く顎を上げる。「終わった?」という合図。


 あすみは笑ってみせた。

 口角だけを上げた。目がそれに追いつかないのは、自分だけが知っている。


 セリが近づいてくる。


「どうした。……何か言われたって顔してる」


「なんでもない。ちょっと、疲れただけ」


 嘘は言っていない。

 でも、本当も言っていない。


 セリが一瞬だけ眉を寄せる。


「納得してないって顔してるけど?」


 あすみは頷かなかった。

 代わりに、手袋の指先を握って開いた。留め具の角の感触が残っている。


「……大丈夫。次の準備、しよ」


 言って、自分で自分の声に驚いた。

 短い。軽い。逃げるみたいな言い方。


 セリは何か言いかけて、飲み込んだ。

 さっきまでホルストがいた方向に一瞬、視線だけを向ける。


 廊下を歩き出す。

 足音がまた揃う。揃ってしまうのが、怖い。


 あすみは、予定表の文字を目でなぞりながら、頭の中の音量を下げた。

 自分の中の何かが鳴る前に、先に静かにしてしまう。


 あすみは予定表から目を外し、歩幅をセリに合わせた。

 言葉を出す前に、喉の奥で止めた。




 ⸻


 格納庫へ戻ると、整備班の手元は相変わらず忙しかった。


 けれど、音の並びだけが違っていた。工具が当たる金属音も、人の声も、一定のリズムで流れている。

 乱れていない。乱れないようにしている。


 セリが機体の下に潜りかけて、ふと顔だけ出した。


「……さっき、何言われた」


 あすみはヘルメットを棚に置いて、手袋を外した。指先の冷えが、戻らない。


「次の仕事の話」


「それだけ?」


「それだけ」


 セリは一瞬だけ黙って、また潜った。カチ、カチ、と留め具の音が続く。

 あすみはそれを聞きながら、格納庫の奥に並ぶ箱を見た。搬入ラベル。番号。期限。責任者欄。


(言葉より先に、印が増える)


 機体の側で整備員が台車を押してすれ違った。

 車輪が床の溝に当たり、乾いた跳ねる音がする。金属の匂いが濃くなる。


 整備灯の下で、装甲の縁が冷たく光る。

 足元の床は磨かれているのに、油の匂いは消えない。


「REDROSE、コクピット系統チェック入るぞ」


 整備員の声が飛び、あすみはヘルメットを受け取った。

 顎紐の留め具が、指先に硬く当たる。


 搭乗用のリフトが上がる。

 コクピットへ足を掛けた瞬間、身体が先に覚えている“型”が動いた。怖さより先に、手順が来る。


 座席に沈む。

 肩を締め付けるハーネス。

 胸の前で固定具がカチリと噛み合う。

 自分の呼吸音だけが、内側に戻ってくる。


『REDROSE、起動シーケンス開始。リンク確認』


「REDROSE、リンク確認」


 視界が切り替わる。

 外が“見る”から“感じる”に変わる。

 関節の反応、指の開閉、足首の微調整。

 巨大な身体が、自分の身体の延長として馴染んでいく。


 馴染むほど、怖い。


 ――「アンダーソンが引き抜かれても、お前が穴を埋めろ。お前ならできるだろ」

 ――「“REDROSE”。――そういう役だ」


 さっきの声はもう色を失っている。なのに、言葉だけが残っている。

 ラベルみたいに剥がれない。思い出すたび、頭の中の音量が勝手に下がっていく。


 その言葉が、起動の手順の隙間に滑り込んでくる。

 役割が先に立ち、理由が後ろに追いやられる。


『REDROSE、出撃ゲートへ。後方支援、護衛区画に入る』


「REDROSE、了解」


 SKYが一歩踏み出す。

 床が小さく震える。

 自分の足じゃないのに、自分の足が重い。


 空に出ると状況を目で確認する。上空は広いのに、線が見える。

 HUDに護衛区画が表示される。青い線が空域を区切り、その内側を守る。線の外へ出てはいけない。線の内側を、ただ飛ぶ。


 反応は少ない。敵影はない。味方のビーコンが緑の点で並び、補給車列が地上をゆっくり進む。


 『REDROSE、区域内監視開始。異常なし』


 管制の声が淡々と落ちる。淡々としているから、余計な色がない。


 あすみは高度を保ったまま、補給車列の上空を飛ぶ。地上では輸送トラックが一定の速度で移動している。

 車列の間隔は揃っていて、逸脱する車両はない。

 モニターに映る地形。移動する車列。遠くに見える山脈の稜線。

 すべてが、ただの風景として流れていく。


『REDROSE、現在位置確認』


「ポイントB-7。異常なし」


『了解。そのまま警戒を続けろ』


「了解」


 機械的なやり取りが続く。


 あすみは何も考えなくてもいい。

 ただ、飛んで、見て、報告すればいい。

 それだけだ。


 セリの機体が左に並走している。いつもと同じ距離。いつもと同じ速度。

 セリは何も言わない。言わないまま、ただそこにいる。

 補給路の監視は単調だった。


 敵の動きはなく、報告することも特にない。ただ、決められたルートを飛び、決められた時間が経過するのを待つだけ。

 あすみの手は操縦レバーを握っている。

 握っているのに、それが自分の手なのか、よく分からなくなる瞬間があった。

 機体は動いている。空を飛んでいる。任務をこなしている。


 でも、自分がどこにいるのか分からない。


 HUDの端に、微かな反応が映った。薄い。距離も遠い。反応値が低く、輪郭が曖昧だ。

 でも、消えていない。


 あすみの指が操縦レバーの上で一度だけ動きかけた。機体が微かに傾く。傾いた瞬間、重力の向きが変わる。


 『あすみ』

 セリの声が個別回線で入ってくる。

『聞こえるか』


「聞こえてる」


『……無理すんなよ』

 それ以上、セリは何も言わなかった。


 あすみは操縦レバーを戻す。機体が水平に戻り、重力が真下へ落ちる。


 HUDの反応は消えた。

 消えたのに、何かが残っている気がした。

 何を探しているのか、言葉にしたくない。

 言葉にしたら、もう戻れなくなる気がした。


 『――各機、帰投せよ。任務終了』

 管制からの指示が入る。


「REDROSE、了解」

 あすみは機体を旋回させ、西方基地へ向かった。


 問題なく終わった。


 それがいちばんよくない終わり方だと、どこかで分かっていた。


 ⸻


 帰投後の格納庫は、昼より音が大きい。


 工具が当たる乾いた金属音。チェーンが引きずられる音。整備灯の白い光が、SKYの装甲を照らしている。

 油の匂いが濃く、湿った熱が肌にまとわりつく。


 あすみは降りて、ヘルメットを抱えた。歩幅を揃える癖が抜けない。揃えた瞬間に安心してしまうからだ。


「REDROSE」


 呼びかけられて、あすみは振り返った。


 前に整備班に、ケニーと呼ばれていた男が腕を組んで立っていた。

 口元は笑っていない。目だけがこちらを見ている。


「……あんたさ」


 ケニーが続ける。


「……その顔。ここ嫌いって書いてある」


 肩をすくめて、もう一つ。


「ずっと思ってたんだけどさ。軍、嫌いなんだろ?」


 あすみの返事が遅れた。

 否定できないことが腹立たしい。否定できないまま立っている自分が、もっと腹立たしい。


 ヘルメットを抱える腕に少し力が入る。顎紐の金具が、微かに鳴った。


「じゃあ、なんでSKY乗ってんの」


 その問いが、胸の奥まで入ってくる。体温のない指で芯を掴まれるみたいな感覚。


 本当は、ここが嫌いだと思っている自分がいる。

 でも、SKYに乗っていないと落ち着かない自分もいる。

 それに――他の人みたいな綺麗な理由じゃないものが、芯に残っている。


 守りたい。助けたい。


 口にしてきた言葉が、いま全部、軽くなる気がした。

 ケニーの問いが、その奥まで手を入れてくる。


 あすみは喉を動かした。音が出るまでに一拍かかった。


「……知らない」


 言ってから、自分でも幼いと思った。


「……嫌いなら、やってない」


 本当の理由に触れられたくなくて、言葉だけを尖らせた。

 尖らせたはずなのに、その先で自分の内側が空洞になる感覚がした。


 ケニーは笑わなかった。


「へえ」


 それだけ言って、視線を外す。


「ま、いいわ。聞いただけ」


 あすみはケニーの目を見られなかった。

 見たら、何かが崩れる気がした。


 自分は与えられた任務をこなす。

 ただ、それだけだ。


 あすみはケニーから逃げるように足早に格納庫の出口へと向かったいった。


 少し離れた場所で、セリが二人を見ていた。

 会話の内容は聞こえなかったが、あすみの表情で何を言われたか、だいたい想像がついた。


(……分かってる。あいつが、何を見てここに立ってるのか)

 セリは腕を組んだまま、静かに考える。

(……でも、それだけじゃ、もう持たない顔だ)


 英雄。象徴。


 そんな言葉で呼ばれる顔じゃない。

 あすみの中にある「軍にいる理由」だけでは、もう足りない。


 セリはそれを理解していた。


 ⸻



 夜の喫煙所は、基地の端にあった。

 照明は一つだけで、白というより黄ばんだ色をしている。壁際の灰皿には吸い殻が無言で積もっていた。


 遠くで発電機の低い音が続いている。

 風が吹くたび、煙が流されて、すぐに形を失った。


 セリはフェンスにもたれ、煙草をくわえたまま空を見ていた。火を点ける気はない。ただ、口にあるだけだ。


 少し遅れて、シュタイナーが喫煙所に入ってくる。足音は静かだった。セリの隣に立つが、距離は詰めない。


 しばらく、何も言わない。煙草の匂いと夜気だけがそこにあった。


 シュタイナーが先に口を開く。


「あの署名をしてから、彼女の任務が増えている、これからもっと増えるはずだ」


「君は知っているはずです。彼女が何を見て戦場に立っているか。」


 セリは視線を動かさない。煙草を指で回し、フィルターを潰す。


「……だとしても、言わないですよ。」

「最終的には、あいつが自分で選んだことだ。」


 シュタイナーは少しだけ間を置いた。喫煙所の照明が、眼鏡の縁を白く反射する。


「このまま、堕ちたとしてもですか?」


 セリの喉が小さく鳴った。煙を吐く代わりに、息を吐く。


 セリはすぐに答えなかった。一瞬だけ視線を落とす。

「それでも、あんたにはあいつの腕は支えられない。……多分、俺でも。」


 声は低く、淡々としている。慰めでも拒絶でもない。


(そんなことができるやつ、何人もいるわけない)


 その言葉は、胸の奥で留めたまま外に出さない。


 セリは煙草を灰皿に押しつけ、飲んでいたコーヒーの紙コップを握りつぶしてゴミ箱へ投げ捨てる。


 そして、聞こえるか聞こえないかくらいの声で言う。


「あんまり深追いしない方が、あんたのためだと思うけど。」


 セリはフェンスから体を離し、そのまま歩き出した。背中が夜の暗さに溶けていく。


 残された喫煙所で、シュタイナーは一人、立っていた。


(彼女は何を見ている……いや、誰の影に立っている……)


 煙のない空気の中で、その問いだけが残る。夜風が吹いて、吸い殻の灰がわずかに揺れた。


 ⸻



 シャワールームから戻ってくると、居住区の廊下は消灯時間を過ぎて暗くなっていた。

 ランプは非常灯のみ、部屋の前の廊下は薄暗い。


 あすみは静かに自室のドアを開けて中に入った。


 カチリ。とドアが閉まる。


 閉まったドアにあすみは背中をつけ、そのままずるずると下へ落ちていった。


 膝を抱え、顔を下げると、膝に額がついた。


 泣き方を忘れたみたいに、目の奥だけが熱かった。


 膝に回した腕に力が入る。


「……」

 あすみの喉が一度だけ動く。

 息がうまく通らない。


「………カイト」

 絞り出すような声で呟いた。


 部屋の中には、時計の音だけが規則的に鳴っている。

 秒針が進むたびに、置き去りにされる気がした。


 たまに管制塔から流れてくる光が、壁を横切って、また消える。

 それが何度目か分からない。


 あすみは、ドアの前から動けなかった。

 ただ、呼吸だけが——遅れて戻ってくる。


 呼んだ名前だけが、部屋に落ちたままだった。



次回更新は3/7 午後を予定しています

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