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SKY  作者: RUI


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60/68

Sky60-象徴という名の首輪-

 


 あすみ達は前日の報告書提出のために、作戦課に来ていた。


 作戦課のフロアは、紙とインクの匂いがした。

 プリンタが排紙するたびに、薄い紙が擦れる音がする。


 壁際の長机には、提出用のトレーが段で積まれている。

 白い紙が上から下へ落ちていく。


 あすみは提出用の封筒を胸に抱え、受付の前に立った。

 指先が冷たい。


「要件をどうぞ」


 受付の係員は端末から目を上げずに言った。


「古賀あすみ一等兵です。第0試験飛行隊。迎撃の戦闘報告書、提出に来ました」


「隊名とコールサイン」


「第0試験飛行隊。REDROSE」


 係員の指が一瞬止まり、すぐに動いた。


「……はい。こちらに。署名を」


 差し出されたボードに、あすみはペンを置く。

 ペン先が紙に触れたまま、一瞬だけ止まる。

 インクが滲みかけて、細い線を作った。


 横に、セリが立っていた。

 制服の襟元はきっちりしているが、顎のラインに寝不足の影がある。


「俺も提出ある」


「所属とコールサイン」


「第0試験飛行隊。ALPHA2」


 係員の指が止まる。一瞬だが、西方では長い一瞬だ。


「……はい。こちらに」


 セリが署名を終えると、係員はあすみの封筒を取った。

 軽い紙なのに、トレーに落ちる音が重い。


「以上です。……呼ばれたら、内線で連絡が行きます」


「はい」


 あすみは頭を下げ、息を吐いた。


 戻ろうとしたところで、内線のベルが鳴った。

 短い電子音が二回。


「作戦課受付です。……はい。……はい。REDROSE、本人来ています。——お通しします」


 係員が顔を上げた。


「古賀一等兵。第三会議室へ。今すぐ」


 セリが前に出た。


「俺も?」


「アンダーソン一等兵も。……同席指示です」


 あすみの心臓が跳ねた。


 ⸻


 第三会議室は狭かった。

 壁は薄い灰色で、天井の照明が白い。長机の上には水のボトルと紙コップが並んでいるが、誰も手をつけていない。


 ヘイル大尉が奥の席に座り、端末を開いて画面を切り替えている。

 隣には見知らぬ女性が一人。黒いジャケットを着て、胸元に薄い徽章をつけている。


 壁際には、シュタイナーが立っていた。

 派遣士官の制服を着て、端末を抱えている。視線を落としたまま動かない。


 扉が閉まると、外の音が消えた。


「座れ」


 あすみとセリは椅子に座る。


 ヘイル大尉が端末の画面をこちらに向けた。

 損耗、侵入、帰投、出力、反応値、交戦距離。数字が並んでいる。


「迎撃の評価が上に上がった」


 背中が冷える。


「侵入阻止。高度帯逸脱なし。戦果、確保。——REDROSE、適合は問題なし」


 口の中が乾いた。


 隣の女性が口を開いた。


「情報・広報統括室のミラーです。今日の件、発表用に整えます」


 ミラーは机に紙を一枚置いた。上部に太字の見出し、下に空欄。


「こちら、表彰の推薦書です。『勇敢』ではなく、『高適合』『迅速な迎撃』『侵入阻止への貢献』。文言は既に合意が取れています」


 あすみは紙を見た。

 文字が整っている。昨日の戦闘の音が、どこにも入っていない。

 罫線はまっすぐで、余白は均等だった。


 トムは昨日死んだ。

 なのに、今日は表彰の話をしている。


 あすみは指先に力を込めた。

 隣でセリが紙を見ている。


「表彰?」


 ミラーが微笑んだ。目は笑っていない。


「英雄が必要なんです。現場の士気も上がるし、予算も上がる」

 ミラーは紙を指先で揃えた。角がピタリと合う。


 ヘイル大尉が続けた。


「予算は数字で動く。数字を動かすには、材料が要る。材料には顔が要る」


 ヘイル大尉はあすみの顔を見ない。数字を見ている。


 ミラーがペンを置いた。


「あなたは“文句を言える側”です」


 あすみの胸が跳ねる。

 食堂で聞いた言葉と同じだ。


「でも、それは特権です。条件付きの。発表と運用の枠の中で、です」


 条件付き。

 条件が見えないまま、首輪の形だけが見えてくる。


 セリがあすみを見た。

 一瞬だけ。すぐ前に視線を戻す。


 トムが死んだのは昨日だ。救難が間に合わなかった。

 それなのに、今日、表彰の話をしている。


 セリの指が机の下で動く。

 硬く握る。ほどく。また握る。爪が手のひらに食い込む。


 あすみは紙を押さえた。指先が白くなる。


「……私が言えることは、何ですか」


 ミラーがすぐに答えた。


「数字にできることです。損耗、回避余地、運用提案。固有名詞は避ける。個別の死は避ける」


 個別の死は避ける。

 紙を避けるような言い方だった。


 あすみの口の中が乾く。


「避けられません」


 ミラーの眉が少し上がる。


 ヘイル大尉が言う。


「古賀。お前が言うべきは『避けられない』じゃない。『何が足りない』だ」


 それを言えば、また紙になる。


 その時——


 セリが立ち上がった。


 椅子が床を擦る。

 室内の空気が張り詰めた。


 セリの目が、ヘイル大尉を捉えている。


「昨日、トムが……」


 セリの声が詰まる。


「昨日、トムが死んだんです」


 室内の空気が止まる。


 ヘイル大尉が顔を上げた。


「それが?」


 セリの拳が震える。


「なんで……」


 言葉が出ない。喉が詰まる。


「なんで今日、表彰の話をするんですか」


 声が低い。怒りを押し殺している。


 ヘイル大尉の目がセリを見ている。

 責めてはいない。測っている。


 セリは続けた。


「トムの死を無駄にしないために、運用を変えるべきです」


 ミラーが静かに言う。


「運用を変えるには、予算が必要です。予算を動かすには、表彰が必要です。順番が逆なんです」


 その言葉がセリの胸に刺さる。


 順番が逆。


 セリの拳が膝の上で握られる。

 痛い。でも、この痛みの方がまだマシだ。


 何も言えなくなった。


 ⸻


 壁際に立っていたシュタイナーが、姿勢を変えた。


 これ以上、黙っているわけにはいかない。

 派遣士官として、この運用は報告しなければならない。


 シュタイナーは壁から離れた。


「大尉」


 声は丁寧だが、引かない。


 ヘイル大尉がシュタイナーを見た。


 シュタイナーはヘイル大尉の目を見たまま言った。


「この運用は、ゼインハルト基準では問題視されます。派遣士官として、本国へ報告義務があります」


 室内の空気が冷える。


 ヘイル大尉の視線がシュタイナーを捉える。


「報告するのは自由だ」


 短い間があった。


「でも、本国の回答が来るまで三ヶ月かかる。その間に、また誰かが落ちる」


 その言葉がシュタイナーの胸に落ちる。


 本国は遠い。それでも、自分は中立国の人間だ。

 中立は、知らないふりを許さない。

 報告書を書いて、承認を待って、回答が来るまで。

 ここでは、毎日誰かが飛んでいる。


 ヘイル大尉はシュタイナーから視線を外さなかった。


「お前の立場は分かる。報告も、義務だ。だが、現場は待てない」


 シュタイナーは頷けなかった。ヘイルからあすみへと視線を戻し、口を閉ざした。


 ⸻


 あすみは、その全てを見ていた。


 セリが立ち上がって「昨日、トムが死んだんです」と言った。

 でも、ミラーの「順番が逆」という言葉に、セリは何も言えなくなった。


 シュタイナーが壁から離れて「報告義務がある」と言った。

 でも、ヘイル大尉の「三ヶ月かかる」という言葉に、シュタイナーは黙った。


 二人とも、何も変えられない。


 なら、私が。


 ミラーがあすみの方を向いた。


「古賀一等兵。あなたが署名すれば、上申書も通りやすくなります。

 署名しなければ、別の顔が使われるだけです」


 別の顔。

 誰かが代わりになる。


 拒否しても、何も変わらない。


 あすみは紙の端を指で押さえた。


 ミラーが微笑んだ。


「外部照会は禁止。個人的な検索は禁止。戦域の記録へのアクセスは申請経由。あなたは“注目枠”なので、特に厳しくなります」


 注目枠。

 それは檻の名前だ。


 シュタイナーが、あすみの横顔を見ている。


 あすみは息を吐いた。


「……私は、REDROSEを基準にする現場の運用を変えたいです」


 ヘイル大尉は頷かずに言う。


「なら、書け」


 端末の画面が切り替わる。上申フォーム。

 “結論”“理由”“裏付け(数字)”。


「短く。結論から。数字で」


 ヘイル大尉は続けた。


「忘れるな。お前は結果を出す。だから許される」


 あすみの背中が冷える。

 “許される”が、助けじゃない音で落ちてくる。


 ミラーが続ける。


「許されるということは、自由ではありません。期待に応える義務です。あなたは象徴として扱われます」


 セリが机の端を指で押した。指先が白くなる。


 あすみは紙を引き寄せた。

 ペンを取る。


 誰かが代わりに……


 あすみの指が紙の端を掴む。


 私が、やらないと。


 でも、本当にこれでいいのか。


 トムは……トムは、こんなの望んでない。


 でも。


 あすみはペンを紙に押し当てた。


 これしか、できない。


 紙の上の空欄に、あすみは結論を書いた。

 文字が整う。整っていく。整うほど、昨日の音が遠くなる。

 あすみは自分の名前の最後の一画を、いつもより強く止めた。


 ⸻


 会議室を出ると、廊下の空気が冷たい。

 足音が硬く返ってくる。


 セリが隣に並んだ。視線は前のまま。


 しばらく黙って歩いた。


 セリが口を開く。


「……あすみ」


「うん」


「お前、署名したらどうなるか分かってるのか」


 あすみの足が床に貼り付いたみたいに止まる。

 セリも一歩遅れて止まる。


「分かってる」


「本当に?」


 セリの声が低い。


「お前、もう自由に動けなくなるぞ。

 外部照会も禁止。記録へのアクセスも制限される。

 “注目枠”って、そういうことだ」


 あすみは黙っている。


「……分かってる」


 そう言ったあすみの声は小さかった。


「分かってても、署名したのか」


「誰かが代わりになるくらいなら」


「それは理由にならない」


 セリの声が強くなる。


「お前が犠牲になる理由にはならない」


 あすみは顔を上げ、セリを見て答える。


「でも、私がやらなきゃ、また誰かが——」


「それでも」


 セリが遮る。廊下の空調が一度だけ唸った。


「それでも、お前じゃなくてもいい」



 あすみの目が揺れる。

 セリはあすみの目から視線を逸らした。セリの親指が、拳の内側に食い込む。


「セリのせいじゃないよ」


 セリの震える拳をみながら答えるあすみの声は、冷静だった。


 しばらく沈黙が続く。


 セリが先に歩き出した。


「……行くぞ」


 あすみがセリの後ろについていく。


 曲がり角の先で、シュタイナーが待っていた。

 派遣士官の制服のまま、端末を抱えている。目の奥に疲れが見える。


「お疲れ様でした」


 柔らかい声だった。


 シュタイナーは端末の画面を一度だけ伏せ、少し間を置いてから続けた。


「……作戦課は、形にするのが仕事です」


 言い訳はしない。慰めもしない。

 ただ事実を置く。


 あすみは頷いた。

 目が乾く。


「形にすれば、救えるんですか」


 声が自分のものに聞こえなかった。


 シュタイナーはすぐ答えない。


「救難が動く理由にはなります」


 少し間を置いて、続ける。


「……動かない理由も、同じ形で作られます」


 あすみの喉が動いた。


 シュタイナーは端末を抱え直す。


 あすみの横を通り過ぎようとして、足が止まる。

 何か言おうとして、口が開きかける。


 でも、言葉が出ない。


 シュタイナーは黙ったまま、通り過ぎた。


 足音だけが、静かに遠ざかっていく。


 廊下の壁に貼られた掲示板に、“声明”の草案が仮止めされていた。

 太字の見出し。整った文章。そこに、REDROSEの名だけが、まだ新しいインクの色をしていた。


 あすみは紙を見た。

 紙の上に、昨日の音がない。

 焦げた匂いも、割れる通信も、何も残っていない。


 許されるって、こういうことなんだ。


 紙が整うほど、呼吸が浅くなる。

 整うほど、自分は遠くなる。


 あすみは視線を下げ、手元の上申フォームを握り直した。

 紙が薄く鳴った。


 『外部照会は禁止。個人的な検索は禁止。戦域の記録へのアクセスは申請経由』


 (ここではもう、本当に探せなくなった)


 胸の奥が、静かに沈んだ。

次回更新は3/5 0時前後になります

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