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SKY  作者: RUI
BASE UNION

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58/71

Sky58-境界線の内側-

 



 端末の点滅は、翌朝には紙になっていた。


 廊下の掲示板に貼られた出撃予定表は、角が揃っていて、テープの端が浮いていない。

 白い紙に黒い文字。誰の癖も残さない整い方が、西方本部の空気そのままだった。


 あすみは掲示の前で立ち止まり、視線だけで上から下へ追った。


 時刻。編成。呼称。担当空域。交戦許可の区分。提出期限。


 そこに自分のコードネームがあると、目が勝手に止まる。


 REDROSE。


 紙の上ではただの記号で、記号のまま次の手順に繋がっている。


 背後から、軽い足音が近づいた。眼鏡の男が掲示の横に並ぶ。笑いは小さいのに、視線が柔らかい。


 トムだった。


「増えたね。今日は一回じゃ終わらなそうだなあ。波みたいに来るよきっと」


 トムは紙に近づきすぎない距離で顎をほんの少しだけ上げる。言い方は軽いのに、内容は現実的で逃げ場がない。


「うん」


 あすみは短く返す。返事は短いのに、会話が詰まらない。西方でそれができる相手は貴重だった。


 少し遅れて、一定の歩幅でセリが来た。ヘルメットを片手に提げ、視線だけで掲示を拾う。表情は変えない。変えないまま言う。


「多いな。線は変わらない」


 言い切ると、セリは先に歩き出した。歩く背中が迷わない。迷わない背中についていくと、考える隙が減る。


 トムが、あすみの横を歩きながら小さく肩をすくめた。


「前回のログ、基準にされたでしょ。ああいうの、増えるよ」


「増える?」


「同じ手順で通ったってやつ。今日も数字が良ければ、次の基準になる」


 口調は柔らかいのに、言っていることは冷たい。トムはそれをわざと冷たく言わない。淡々と言う。


 ブリーフィングルームの扉が開いた。冷気が頬を撫で、白い照明が影を薄くする。椅子が引かれ、床が擦れる音が揃って、すぐ静かになった。


 ヘイル大尉が前に立っている。端末を机に置き、視線を上げた。眉は動かさない。


「結論から話す」


 短い言葉で、室内の背筋が揃う。


「帝国軍SKY、侵入。規模は前回より大きい。迎撃。侵入阻止。線は同じだ。追撃は不要、線維持優先」


 モニタに格子図。赤い線。越えるな、という線。


 ヘイル大尉は端末を滑らせ、前回の提出ログ一覧を一瞬だけ映した。あすみの行が淡く反転し、次の瞬間には消える。見せた、という事実だけが残る。


「前回、REDROSEのログを基準にした。――今日も同じ線、同じ手順で行く」


 基準。


 成功が、褒め言葉ではなく要求に変わる単語だ。


 あすみは頷いた。頷き方はいつも通りだった。だけど、胸の内側だけが少しだけ詰まる。


 トムが小さく息を吐く。笑わない。


「だよね」


 ヘイル大尉は拾わない。


「更新が速い。管制の指示に従え。帰投後、戦闘ログ提出。共有対象は指示する。以上。出撃準備」


 椅子が引かれ、足音が揃い、整った流れで部屋が空になっていく。


 ⸻


 格納庫の匂いは、朝から濃かった。


 油、熱、金属、冷却剤。工具が落ちる乾いた音、台車のゴムが床を擦る音、送風が唸る音。全部が混ざって、ひとつの「現場」になっている。


 REDROSEの機体は整備灯の下にいた。赤い警告表示はいつも通りで、誰も驚かない。驚く段階は、ここではとっくに終わっている。


 整備士が脚立の上から端末を叩き、あすみを見る。目の下に薄い影。視線が仕事の速さに追いついていない。


「反応値、上限域に張り付いてます。制限はいつも通り。戻ってください」


 言い切って、整備士は視線を機体へ戻す。


「了解しました」


 あすみは短く返し、ヘルメットを被った。内側の布が額に触れ、口の中の乾きがはっきりする。乾いたままにしておく。余計な熱が出る前に。


 隣でセリが顎紐を引き、金具を噛み合わせる。手袋をはめる音が小さく鳴る。セリはあすみの機体ランプを一つずつ目で追い、最後にあすみの横顔へ視線だけを寄せた。


「あすみ、焦るなよ」


 言い方が命令じゃない。守るための線を引く声だ。


「うん」


 あすみが返すと、セリは短く頷いた。


 トムが近づく。眼鏡の奥の視線が柔らかい。ヘルメット越しに軽く会釈するような仕草をして、言う。


「今日も低く入るでしょ?」


「そうだね」


 あすみが短く返すと、トムは小さく笑った。笑いは小さいのに、目が少しだけ安心した色になる。


「じゃあ、同じでいい。こっちは線が厳しいから、抜ける時だけ上げる。上げすぎないでね」


 最後の一言だけ、少し言いづらそうに落とす。


 警報が鳴った。音より先に床が震え、胸に薄い圧が乗る。


『スクランブル。迎撃。REDROSE、ALPHA2、発進許可』


「REDROSE、了解」


「ALPHA2、了解」


 コクピットに乗り込む。ハーネスが肩を締め、胸の前で金具が噛み合う。

 キャノピーが閉じ、外の音が薄くなる。機体の振動が床から上がり、背骨に沿って伸びた。


 カタパルトの拘束が外れた瞬間、機体が前へ投げ出される。


 ⸻


 上空は広い。広いのに、すぐ満ちる。


 《BLUE2より各機。こちら別ルートで交戦中》


 トムの声が別回線に混ざる。同じ空域だが、作戦帯は違う。

 あすみ達の第0小隊とは運用系統が分かれている。


 HUDに反応が灯る。前回より多い。点が増え、消え、位置がずれる。更新が追いつかないほど速い。管制の声も、短くなる。


『敵影、帝国軍SKY編隊。迎撃線維持。侵入阻止。更新』


 言葉の途中で別の更新が重なり、音が一瞬だけ歪んだ。


 あすみは高度を落とした。低く入る。雲の縁が視界を切り、機体の影が一瞬だけ自分の機体に落ちる。


 トムの声が入った。


「上、見せてる。下、三……いや、四。抜ける角度」


 数が増えていく言い方が、淡々としているのに急いでいる。


 セリの声が重なる。低いまま、速くならない。


「あすみ、線の内側。追うな。更新に合わせろ」


「了解」


 返事は短い。短い方が、手順が間に合う。


 上層の一機が、わざと目立つ角度で光る。視界を引っ張る。釣りだ。釣りに乗れば、線の外へ出される。


 ――線の外に出た瞬間、味方の手が届かなくなる。管制の声が遅れ、援護が遅れる。追う側が先に孤立する。


 その一文が頭の中に固定されると、動きが迷わなくなる。


 あすみの機体は下層を捉える。抜けようとする方向に先に立つ。敵が「穴」を作る前に、穴の口を塞ぐ。


 まず機体を傾ける。次に姿勢を固定する。その直後、重力が横へ滑り、内臓が片側へ寄る。胸の圧が増す。視界が滲む。耳鳴りが薄く広がる。


 赤い警告表示が視界の片隅で増える。熱。振動。反応値。危険の色。


 それでも、手が冷えるだけで済むのが、あすみの身体だった。


 トリガー。


 閃光がひとつ。帝国機の輪郭が崩れ、火花が散る。爆ぜる音は遅れて追いかけてきて、薄く響き、すぐ遠ざかる。


『撃墜確認』


 管制が淡々と告げる。淡々としているから、勝利の形にならない。数字になるだけだ。


 次の反応が重なる。すぐ次が来る。波が来る。


 トムが短く言った。


「来る。下、抜ける」


 あすみは低いまま、抜けたい方向へ立つ。抜ける線を塞ぐ。撃つ。避ける。戻す。


 同じ動き。


 同じ動きが、正しく回る。


 正しく回るから、余計なものが入る隙がない。


 セリの声が割った。


「あすみ、上げるな。線がずれる」


 上げるな、は止めるための言葉だ。守るための言葉だ。


 あすみは上げない。抜ける時だけ上げる。その「だけ」を守る。


「了解」


 トムの声が少しだけ柔らかく落ちる。


「今ので、通った。次、左」


 次。次。次。


 大規模戦闘は、ひとつひとつの戦いを「次」に変える。ひとつに留まる暇がない。


 次の反応が重なる。すぐ次が来る。波が来る。


 トムが短く言った。


「来る。下、抜ける」


 あすみは沈めたまま、脚を踏み替えて抜けたい方向に機体を向ける。

 進路に脚を滑り込ませる。右腕を伸ばす。撃つ。肩を引いて横へ流す。戻す。


 同じ動きが、正しく回る。


 正しく回るから、余計なものが入る隙がない。


 セリの声が割った。


「あすみ、上げるな。線がずれる」


 上げるな、は止めるための言葉だ。守るための言葉だ。


 あすみは上げない。抜ける時だけ上げる。その「だけ」を守る。


「了解」


 トムの声が少しだけ柔らかく落ちる。


「今ので、通った。次、左」


 次。次。次。


 大規模戦闘は、ひとつひとつの戦いを「次」に変える。ひとつに留まる暇がない。


 反応がまた増えた。更新が早い。管制が短い。


『侵入二機、線接近』


 その声が途切れた瞬間、別の声が入る。


『ALPHA3、応答』


 別の呼称。別の機体。声が途切れ、ノイズだけが残る。


 あすみの指がわずかに止まりかけた。止まれば手順が崩れる。崩れれば穴が開く。


 ――応答がないのは、墜ちた場所も分からないということだ。穴は、見えないまま開く。


 見えない穴は、いちばん怖い。怖いのに、見えないから、防げない。


 セリの声が低く落ちた。怒っていない。焦っていない。線を引く声だ。


「更新に従え。穴を塞ぐ」


 あすみは息をひとつ吐いた。吐いて、続ける。


 低く入る。抜ける線を塞ぐ。撃つ。避ける。戻す。


 同じ動き。


 同じ動きが、何度も繰り返される。


 《DELTA4より。Red Rose、数値安定》

 ユイの声は淡々としている。


 《……あれで安定扱いかよ》

 リオが言葉を落とす、声は静かだ。


 《機体赤く光らせて、低空で内臓振り回して、反応値ほぼ振り切りだぞ?》


 《ったく、撃たれるより先に死ぬ気かよ》


 ユイは答えない。

 ただ、モニターの赤い数値を静かに見ている。


 トムが、ほんの少し言いづらそうに言った。


「ALPHA3、返事ない。未確認」


 未確認。


 それ以上の言葉を、現場は持てない。


 あすみは視線を前に戻し、線の内側を守った。守ることが目的だ。

 目的があると、手が動く。手が動くと、考える隙が消える。


 *


 機体を降りる。足が床に触れる。震えていない。手は冷たい。冷たいだけだ。


 格納庫の端で、整備士が別の機体の下に潜り込んでいる。工具の音が早い。早いほど、良くない時の音だ。


 ……その工具音が、一拍だけ止まった。


 止まったのに、誰も顔を上げない。止めたのが誰かも分からない。けれど、止まったという事実だけが、あすみの背中に触れて、すぐ消える。


 少し離れた場所で、誰かが声を落とした。


「ALPHA3、まだ戻ってないの?」


「未確認って」


 言葉が途中で切れる。切れるまま作業が進む。西方では、止まって祈る時間がない。


 デブリーフィングルームに入ると、空気が冷たく平らだった。椅子が引かれる音が揃い、モニタに数字が並ぶ。


 ヘイル大尉は端末を見たまま言う。声はいつも通りで、温度がない。


「侵入阻止。撃墜数、規定内。線維持、達成。ALPHA3は未帰投。状況は更新で回す」


 未帰投が、言葉として置かれる。置かれたまま、次の数字へ移る。


「戦闘ログ提出。共有対象」


 ヘイル大尉が一瞬だけ視線を上げ、室内を見渡す。その目は誰かを責めない。責めないまま、手順だけを進める目だ。


「REDROSE。提出後、参照対象にする」


 あすみの指が、わずかに止まった。


 ――自分だから、通った。


 端末を開く。入力欄が整列している。時間、座標、交戦線、射撃回数。チェック項目が揃っていて、逃げ場がない。


 送信を押す。小さな音が鳴った。鳴っただけで、今日の戦いが「処理」になる。


 隣の席で、トムがヘルメットを膝に置き、眼鏡の奥の目を細めた。柔らかい視線なのに、口元は動かない。


「通ったね」


 褒める言い方じゃない。確認の言い方だった。


 あすみは端末の画面を閉じ、顔を上げた。


「うん」


 返事が短い。


 短すぎて、室内の空気が一瞬だけ止まる。


 誰かが息を吸うのを忘れたみたいに、わずかに肩を上げた。別の誰かが言葉を探して口を開きかけ、閉じた。


 トムが、少しだけ言いづらそうに言う。


「大丈夫?って聞くの、今は変かな」


 あすみは瞬きをひとつして、すぐ頷いた。


「大丈夫」


 声は平らだった。平らだから、誰もその先を続けられない。


 部屋の後ろの壁際に、見慣れない立ち姿があった。制服の線が違う。姿勢が硬いのに、視線は鋭すぎない。


 シュタイナーだった。


 派遣士官の彼は、報告書の束を腕に抱え、端末の画面と、あすみの横顔を交互に見ていた。眼差しだけが、ほんの少しだけ留まる。


 あすみと視線が合いそうになった瞬間、シュタイナーはわずかに顎を引き、目を伏せる。見ていないふりをする仕草が丁寧だった。


 ヘイル大尉が端末を見たまま言った。


「前回の基準で通った。――継続する」


 継続。


 成功が、次の要求になる単語だ。


 今日の角度が、基準になる。


 自分は持った。


 でも、全員が持つとは限らない。


 赤域に踏み込めば、視界が白くなる。耳鳴りがして、指先の感覚が遠のく。


 あの圧を、全員が抜けられるとは限らない。


 抜けられなければ、戻れない。


 それを、基準にする。


 端末の片隅で次の提出期限が点滅を始める。


 あすみは部屋を出るまで、ただ目線を下げ続けた。


 *



 格納庫の外は、もう黒かった。昼間と同じ空なのに、何も見えない。

 滑走路灯も落とされて、白い線が途中で消える。


 格納庫の扉の隙間からリオが空を見上げて、顔をしかめる。

「夜の任務嫌いなんだよな」


 装備をチェックしていたあすみが、リオの方に顔を向けて笑う。

「リオ、怖いの?」


「怖ぇよ」リオは即答した。


「宇宙のほうがマシだ」


「宇宙のほうが暗いよ?」


「だからだよ」

 リオは肩をすくめる。

「宇宙は全部真っ黒だろ。光ってるやつだけ見ときゃいい。でも地球の夜の空はさ、光ってるもんが多すぎる」


 ユイが横から口を挟む。

「都市の光、雲の反射、民間機の灯り。全部が動くってこと」


「敵か味方か分かりづらいってこと?」

 あすみが聞く。


 セリが自分のSKYの足元から顔を覗かせて答える。

「分かりづらいんじゃない。分かるまでに一瞬遅れる」


 その“一瞬”に、リオが鼻で笑う。

「その一瞬で去年、味方が落ちた」


 あすみの笑いが止まる。


 ユイが静かに言う。

「更新がズレた。識別が間に合わなかった」


「撃ったやつ、間違ってなかったんだぞ」

 リオが言う。


「ログ上は正解。だから余計キツい」


 誰も続けない。雲が流れて、街の光がにじむ。


「夜はさ距離が分かんねぇのが怖いんだよ」

 リオが言う。


 あすみも扉の隙間から空を見る。確かに、雲が近いのか遠いのか分からない。


 ユイが端末に目を落としながら言う。

「高度表示は合ってる、でも目が納得しない」


「宇宙は単純だろ?」セリが続ける。


「黒に点があるだけ。地球の夜は違う。黒の中に、偽物の点がある」


 リオが苦笑する。

「撃ったら何もない、ってこともあるんだぜ」


 あすみは格納庫の隙間から空を見続ける。手だけが冷えていくのを感じていた。



 リオが3人に声をかける。


「ブリーフ始まるな。そろそろ行こう」


 誰もすぐには動かなかった。空を見上げるのを、先にやめたのはセリだった。


「行くぞ」短い一言。


 あすみはヘルメットを抱え直す。指先がまだ冷たい。


 格納庫の奥から、扉の開く音がする。


 ブリーフィングルームの照明が点いた。


 白い光が床を均一に照らす。さっきまで黒を見ていた目が、わずかに眩む。


 ユイが歩きながら言う。「識別、遅れないでね」


 リオが返す。「焦るな、だろ」


 セリは振り向かない。


「あすみ」


 呼ばれて、あすみは顔を上げる。


「線、守れ」


 あすみは頷く。


「うん」


 扉が閉まる。夜の空は、外に置いてきた。だが、指先の冷えだけは消えなかった。



 ブリーフィングルームの照明が落とされると、机の角と端末の白だけが浮いた。人の顔は半分、影に沈む。沈んでも、目だけは逃げない。


 ヘイル大尉は端末を机に置き、目線を上げた。声は低くも高くもない。形だけが残る言い方だった。


「任務。迎撃。侵入阻止。線は前回と同じ」


 モニタに赤い線。点滅する反応。昼のときより輪郭が薄い。薄いせいで、点が点のまま残って見える。


「照明制限。味方識別優先。追撃不要。逸脱は報告対象」


 言葉が短い。短いのに、そこから外れたら戻れない硬さがある。


「提出欄が増える。――“見失い”“再取得”“識別の確度”。短く、番号で残せ」


 番号で残す、の響きが室内に落ちる。紙に書くみたいに軽いのに、軽くない。


 あすみは頷いた。頷き方はいつも通りだった。いつも通りのまま、喉の奥が乾く。乾きの理由を探す前に、次の言葉が来る。


 隣の席でセリが腕を組み、顎を少し引いた。表情は動かない。声だけがあすみの方へ落ちる。


「見えない時ほど、置いていかれる」


「そうだね」


 短い返事が出る。出たのに、自分の声が少し遠い。


 後列でトムが眼鏡の位置を指で直した。笑いは小さいのに視線が柔らかい。柔らかいまま、淡々と言う。


「今日は、しんどい日だね」


 誰かが笑うのを待っている言い方じゃない。そういう日だ、と確認する言い方だった。


 ヘイル大尉は続ける。


「呼称確認。REDROSE。ALPHA2。――以上。出撃準備」


 椅子が引かれ、床を擦る音が遅れて重なる。立ち上がるタイミングが揃わない。揃わないまま、部屋が空になっていく。


 ⸻




 格納庫は暗かった。暗いのに、整備灯の白だけが鋭い。工具の金属音がいつもより響いて、笑い声が出る前に止まる。


 REDROSEの機体は整備灯の下で待っていた。


 脚立の上の整備士が端末を叩き、あすみへ目線だけを寄こす。疲れが溜まった目なのに、指先は正確だった。


「フィルタ、更新済み。計器の明るさ固定。……反応値は上限域。いつも通りです」


 言い切ってから、整備士の口元がほんの少しだけ柔らかくなる。


「……戻ってくださいね」


 お願いが混じる。ここでは、お願いがいちばん現実的だ。


「了解しました」


 あすみはヘルメットを被る。内側の布が額に触れた瞬間、口の中の乾きがはっきりした。乾いたままにしておく。余計な熱が出る前に、手順へ戻る。


 隣でセリが顎紐を引く。金具が噛み合う小さな音。セリはあすみの機体のランプを一つずつ目で追い、最後に横顔へ視線だけを寄せた。


「更新を聞け。勝手に追うな」


 命令というより、線を引く言い方だ。


「分かった」


 短く返すと、セリは短く頷いた。


 トムが近づく。笑いは小さいのに、視線が柔らかい。


「赤いの、増えると思う」


 増える、の言い方が軽いのに重い。あすみは頷く。


「うん」


 トムはそれ以上言わず、先に走った。走り方が大げさじゃない。大げさにすると、ここでは削られる。


 コクピットに滑り込む。ハーネスが肩を締め、胸の前で金具が噛み合う。キャノピーが閉じると、外の音が薄くなる。機体の振動が床から上がり、背骨に沿って伸びた。


『スクランブル。迎撃。REDROSE、ALPHA2、発進許可』


「REDROSE、了解」


「ALPHA2、了解」


 足元の固定が外れ、機体が前へ弾き出される。背後の噴射が爆ぜ、背中が押される。胸がハーネスに叩きつけられる。


 ⸻


 上がった瞬間、外は黒かった。


 黒いのに、何も隠してくれない。HUDの点滅だけが近くて、外側の景色は遠いまま、距離の手触りが掴めない。雲の縁が薄い膜みたいに浮き、海面が鈍い反射で目の端を引っ張る。


『侵入、二。線接近。更新——』


 管制の声が短い。言い終わる前に次が重なる。ヘッドセットの内側で情報が上書きされる音が、かすかに鳴った。


 あすみは機体を沈めた。脚を折り、雲の下へ滑り込む。低くすると、余計な反射が減る。余計な光が減ると、赤い点が点のまま残る。


 胸に重力が乗る。背中が押され、呼吸が浅くなる。浅いまま息が止まらないように、口から細く吐く。


 トムの声が入った。柔らかいのに息が浅い。


「下……三。抜ける。こっち」


 言い切れない。点が滑って、消えて、また出る。輪郭にならない相手を、輪郭のまま捉えようとすると持っていかれる。


 セリの声が重なる。低い。速くならない。だから頼れる。


「あすみ。追うな。線の内側。――置け」


 追うんじゃなく、抜け道に先に立て。置け。


「了解」


 返事を短くすると、胸の圧の中で言葉が割れない。


 あすみは抜けそうな方向へ機体を寄せた。点の動きが一瞬だけ揃う。その一瞬が、唯一の手がかりになる。揃ったと思った次の瞬間、上の点が目立つ角度で光って視界を引っ張る。


 釣り。


 目が持っていかれそうになる。持っていかれる前に、機体の胴を固める。固定すると横へ持っていかれ、内臓が片側へ寄る。胸が締まり、視界の端が滲む。耳鳴りが薄く広がる。


 赤い警告が増える。熱。振動。反応値。


 赤いのは力じゃない。危険の色だ。危険の色のまま、指は動く。


 捕捉音が短く鳴った。鳴った瞬間だけ、相手が“そこにいる”と確信できる。

 見えたわけじゃない。音と数字が揃っただけだ。


 引き金を引く。


 遠くで小さな光がはじけて、すぐ消えた。

 消え方が速すぎて、確かめる前に次の赤が入り込む。


 《DELTA4、撃墜確認》


 ユイの声は揺れない。


 《……速ぇ》


 リオが息を詰めた。


 《追うな。線を守れ》


 セリの声が重なる。


 第0小隊は、あすみの動きに合わせる。

 合わせるしかない。


 RED ROSEの反応値が、上限域で安定している。


 《あの赤域で固定して、基準って…》

 《あれと同じ事やったら…俺ら死ぬぞ》


 リオの声は小さい。


 ユイは、数字を見たまま言う。


 《基準にするのは、上の判断》


 HUDの赤い点が、ひとつ消える。


 消えた場所に、余韻が残らない。残る前に次が来る。


『撃墜確認。更新、線接近——』


 確認の声が淡々としているから、出来事が“出来事”になる前に押し流される。


 あすみの喉が、一瞬だけ詰まった。


 赤い点が消える。


 消えた先がどうなったのかは見えない。


 それでも、引き金を引いたのは自分だ。


 撃墜確認。



 その事実が言葉になる前に身体へ落ちる。背中がわずかに震え、ハーネスの中で肩が跳ねる。


 ――人を、殺している。


 喉が詰まる。


 怖い。


 怖いと分かった瞬間、思考が止まりかける。


 止めないと、間に合わない。


 迷ったら、次に消えるのは自分だ。


 あすみは息を吐いた。吐いて、数字を見る。角度を見る。線を見る。


 思考は動く。意味だけが、先に閉じられる。


 次の点。次の点。次の点。


 撃つ。戻す。塞ぐ。外に出ない。


 点が消える。消える。消える。


 手が冷えるだけで済む。冷えたまま、指が動く。


 トムの声が落ちる。言いづらそうに、でも隠さない。


「……消えた。見失った」


 見失うこと自体が咎めにならない空だ。


 セリが即座に言う。


「追うな。迎撃線の内側に戻す。」


「了解」


 戻す。線の内側へ戻す。


 点が消えるたび、胸の奥で何かが落ちる気がする。拾おうとすると、次の更新が来る。だから拾わない。拾わないまま、手順を進める。


 進めると、守れる。


 ⸻


 格納庫に戻ると、いつもと同じ手順で機体から降りる。


 オルタイト反応の上限、赤枠運用になってから帰還後のあすみの息はいつも浅い。

 けれど、初めて赤く爆ぜたあの日のように意識をなくしたりはしない。不思議と身体の方が先に慣れてしまっていた。


 整備士が端末を見ながら近づき、短く言った。


「警告、増えてます。……戻ってくれて、よかった」


 よかった、が本音で落ちる。


「ありがとうございます」


 あすみはヘルメットを抱え直す。言葉がそれ以上増えない。増やす必要がない形で、身体が次へ行こうとする。


 通路の先で、トムがヘルメットを外しかけてやめた。外すと、今の空気が入りすぎる気がしたのかもしれない。眼鏡の奥の目が一度だけ揺れて、すぐ戻る。


「……さっきの、さ」


 トムが言い出して、言葉が途中で止まった。止まったまま笑おうとして、失敗する。


「いや、いいや」


 あすみは瞬きを一回した。


「うん」


 短い返事が落ちる。


 その短さに、トムの手が一拍遅れて端末へ伸びた。伸びた手が、すぐ引っ込む。何かを言ってしまうのが怖い、みたいに。


 デブリーフィングルームは冷たく平らだった。椅子が引かれ、端末が並ぶ。ヘイル大尉は端末を見たまま言う。


「侵入阻止。逸脱なし。――提出」


 それだけで終わる。評価の言葉はない。次へ行くための手順だけが残る。


 あすみは端末を開いた。項目の下に、増えた欄が並んでいる。白い行が増えるほど、胸の中の何かが遠ざかる気がした。


 その時、背後に気配が立った。


 振り向くとシュタイナーがいた。制服の線は硬いのに、表情は穏やかだった。視線だけが静かにこちらを捉えている。押さない距離で、言葉だけがそっと届く。


「お疲れさまでした」


 柔らかい敬語だった。


「見えない分……疲れますよね」


 あすみは一拍遅れて頷いた。返事を出す前に、喉の奥の乾きが先に気になった。


「はい。……いえ、大丈夫です」


 大丈夫、と言えば次へ進める。そう思って言った。言ったのに、シュタイナーは急かさない。


 シュタイナーはあすみの目を少し見て微笑んだ。笑いは小さく、でも消えない。


「では……記録だけ、整えておきましょうか」


 提案の形で落ちる言葉が、妙にありがたかった。


「暖かい飲み物でも飲んで、休んでください」


 シュタイナーが近づき、軽く肩に手を添えた。触れ方はほんの少しで、力はない。それでも、手のひらの温度だけがはっきり伝わってくる。


 肩の上の暖かさに、あすみの身体のどこかが少しだけ緩んだ。ハーネスの圧が抜ける時みたいに、息がひとつ深く入る。


「……ありがとうございます」


 返事は短い。でも今度は、言葉が落ちていかない。


 シュタイナーはそれ以上踏み込まず、手を離した。離した後も、温度だけがしばらく残った。


 あすみは端末へ視線を戻し、増えた欄を一つずつ埋めていく。


 埋める指は止まらない。


 怖いと思ったこと、迷いを捨てたこと

 その全てを端末の中に閉じ込めるように、指を動かし続けた。


次回は3/1の午後更新になります。

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