Sky53-Red Roseの評価-
翌日の昼の西方本部は、朝よりも静かだった。
静か、というより――音が揃っている。廊下の靴音は一定の間隔で、扉の開閉はゆっくりで、誰も走らない。
掲示板の予定表は更新され、紙は新しいのに角がぴしっと揃っている。
あすみは、食堂へ向かう途中で立ち止まった。
通路の途中にある来客受付の前が、少しだけ賑わっていた。制服じゃない人間がいる。
スーツの上から薄いコートを羽織り、胸元に「来訪者」札を下げている。
受付係が端末を覗き込み、ペンを差し出し、同じ動作を繰り返している。
その中に、ひとりだけ歩き方が違う人がいた。
片足をかばうように、ほんの少しだけ体重の移り方が遅い。
杖はない。けれど膝の角度が、わずかに揺れる。
その人が、こちらを見て――ぱっと、顔を明るくした。
「……あすみちゃん?」
呼び方が、近すぎて、あすみは一瞬だけ反応が遅れた。
でも相手は迷わないまま近づいてきて、胸の来訪者札が揺れる。札の下に小さな部署名が見えた。
システム開発部
名札の上には、手書きのような字体で「ROY」とある。
「大きくなったね。まさか、ここで会えるなんて」
ロイは笑った。眩しいくらいの笑い方で、目尻が柔らかく下がる。どこかで見た顔――その瞬間、あすみの頭の奥に、ガラス越しの艦影が浮いた。
(……北方司令室の写真の、端……)
艦の前。肩を寄せ合う人影。冬の光。そこにいた、大人のひとり。
あすみは、反射で姿勢を正した。相手が民間人でも、ここでは礼儀が先に出る。
「はじめまして。古賀あすみ一等兵です」
言いながら、自分の声がいつも通りなのを確認する。
ロイは少し目を丸くして、次に、困ったみたいに笑った。
「そっか。……そっかぁ。うん、そうだよね」
それから、少しだけ真面目な顔になって、頭を下げる。
「ロイ・ラブラトリー。今は本部のシステム開発部にいる。……昔、ノーザン・クロスに乗ってた。君のお母さんと、同じ船に」
その言い方が、軽くない。けれど重くしすぎもしない。手で触れていい距離だけ、ちゃんと測ってくる。
(笑い方がジョンに似てる……そうゆうことか。)
あすみは息をひとつ飲んで、頷いた。
「……ありがとうございます。来てくださって」
「うん。会いたかったんだ。――それと」
ロイの視線が、あすみの後ろへ流れた。
ちょうどそこへ、セリが紙コップを二つ持って戻ってきたところだった。視線が合って、セリが止まる。
「……お、誰だ?」
ロイは、待ってましたみたいに両手を広げた。
「セリ君も、大人になったね」
セリの眉がぴくっと動く。
「……どちらさまですか」
「ロイ。ジョン・ラブラトリーの父親」
その一言で、セリの顔から警戒がすっと抜けた。
「あー……! あの、ジョンの家の……」
「そうそう。覚えてくれてるの、嬉しいな」
ロイは嬉しそうに頷いて、次にあすみを見た。
「君は、覚えてないよね。……でも大丈夫。無理に思い出さなくていい。君がここに立ってるだけで、僕は十分なんだ」
その言い方が、あまりに“親”で、あすみは笑顔を作ってしまった。
「……ありがとうございます」
言いながら、自分の頬の筋肉がちゃんと動いているか、どこかで確かめている。
ロイは安心したように肩を落とした。
「元気そうだ。うん。よかった」
安心してる。笑顔を見て、安心してる。――それが、分かる。
(優しい人だ)
(……ジョンに、よく似てる)
ジョン本人の顔が頭に浮かぶ前に、笑い方だけが先に重なった。明るくて、少し天然で、遠慮がないのに不快じゃない。
ロイは少し足を引きずりながら、受付横のベンチへ移動した。歩幅が揃わないのを隠そうとしない。隠さないから、こちらも見ないふりをしなくていい。
あすみとセリも、向かいに立つ。座れと言われてないから、立つ。
「立たなくていいよ。……あ、でもここ、立ってる方が楽か」
ロイが笑って、来訪者札を指で弄んだ。
「手続き、増えたよねぇ。昔のノーザン・クロスは、もう少し雑だった。雑っていうか……人が先だった」
それを聞いて、あすみの胸の奥が、ほんの少しだけ反応した。
でも声には出さない。笑って頷く。
「……西方は、整ってますね」
「整ってる。そう、それ。整ってる」
ロイは頷いて、それから急に思い出したように言った。
「あ、そうだ。イル副司令官にも会ったよ。昨日、廊下で。相変わらず顔が怖かった。いや、今のは心の中だけね」
怖い、という単語がロイの口から出ると、妙に角が取れて聞こえる。
セリが小さく息を吐いた。
「副司令官に、それ言うのは命知らずですね」
「言ってないよ。心の中だけ。僕だって学習する」
ロイは肩をすくめて、またあすみに目を戻した。
「本題ね。君たちが乗る機体の記録統合、昨日の夜に最終反映が走ってる。チェック項目が増えたはず。
……あれ、現場の負担が増えるのは分かってる。ごめんね」
開発部の人らしい言い方だった。“良いものを入れた”じゃなくて、“負担が増える”を先に言う。
あすみは首を振る。
「大丈夫です。やります」
言葉は短く、いつも通り。
ロイは、あすみのその返事を聞いて、もう一度だけ安心した顔をした。
「うん。……君はそう言うね」
それから、少しだけ声を落とした。
「北方のことを、ハイルトンから聞いてる。……ここは、少し空気が違うでしょう」
あすみは間を置いた。
言葉を選ぶ間、というより――西方で身についた“余計なことは言わない間”が先に出た。
「……はい」
ロイは頷いた。
「無理はしないで。ジョンも、心配してる」
「ありがとうございます」
笑う。礼儀の笑顔。ちゃんと、崩れないように。
ロイは、それを見て本当に安心した顔をする。
あすみは、その安心を壊したくなくて、続けて言った。
「ジョンにも、よろしく伝えてください」
「もちろん」
ロイは嬉しそうに頷いて、立ち上がった。立つとき、片足に小さく引っかかりが出る。
それでも顔は変えない。変えないから、こちらも変えない。
受付係が近づいて、事務的に言う。
「ロイ・ラブラトリー様。退館手続き、こちらです。お時間になりました」
ロイは「はーい」と軽く返して、あすみとセリに手を振った。
「またね。今度は、もっとゆっくり話そう。……あすみちゃん、ちゃんと食べるんだよ」
その言葉だけが、基地の温度とずれる。
ロイが去っていく背中を見送って、あすみは呼吸をひとつ整えた。
セリが横で、紙コップを差し出してくる。
「……よく似てんだよな、ジョンと」
「うん。よく似てたね。懐かしいな…」
「会いたいよな、あいつらに」
「うん」
短く返して、コップを受け取る。温いコーヒー。西方の食堂の味は、北方より薄い。
あすみは、廊下のガラスに映る自分の顔を一瞬だけ見た。
笑っていない。けど、普通だ。
その普通を保ったまま、端末が震えた。
画面に通知が浮かぶ。
《ホルスト少佐より:古賀一等兵。1500、記録確認。出頭》
あすみは指で通知を消さず、画面だけを暗くした。
「……セリ」
「ん?」
「午後、呼ばれた。記録の確認」
「また“確認”かよ」
セリの声に棘が混じる。あすみは笑って流す。
「行ってくる」
「一人で行くな。……いや、行くなって言えねぇな」
「大丈夫」
いつもの言い方で、いつもの顔で。
ロイの“心配する目”が、まだ胸のどこかに残っている。
(心配させたくない。だから、言わない)
あすみは会議室に向かってそのまま歩き出した。
*
会議区画C-2は、部屋の外からでも空気が違った。
扉の前に立つだけで、背筋が伸びる。誰かの声は聞こえないのに、音が少ない。
入室の許可灯が青に変わり、扉が開いた。
「古賀一等兵、入ります」
室内には三人。正面に、ホルスト少佐。横に事務官が一人。もう一人は、制服の袖に監察系の章を付けた中尉だった。
机の上には紙のファイルと端末が並び、角がきっちり揃っている。
「着席」
ホルスト少佐の声は、短く乾いていた。
椅子に座ると同時に、事務官がファイルをこちらに滑らせる。紙の擦れる音が、妙に大きく聞こえた。
「古賀一等兵。西方本部における適性評価の統合に伴い、北方および補給都市での行動記録を確認した」
ホルスト少佐は、端末を一度だけ見てから、顔を上げた。
「中立国補給都市。夜間。路地での事案だ」
胸の奥が、ひやりとした。
コンテナの壁。ねじ曲がった光。酒と汗の匂い。切れたボタンの音。
自分の手の中の冷たさ。引き金に触れた指の感覚。――撃たなかった、という事実だけが残った夜。
「……報告書は、署名済みです」
あすみは、結論から返した。声に震えはない。
「署名の有無の話ではない」
ホルスト少佐は言う。
「貴官は、その場で拳銃を抜いた。相手は中立国軍兵。発砲は無し。だが、銃器の抜銃は事実だ」
あすみは息を吸い、すぐに吐いた。
「正当防衛でした。避難民への加害が起きていました。止めなければ――」
「記録上は、正当防衛の範囲に収まっている」
言葉が被せられ、最後まで言い切れなかった。
「しかし、西方本部では“危険傾向”として処理される」
危険傾向。
紙の上の言葉が、机の角みたいに固く胸へ当たった。
「……危険、ですか」
あすみは視線を逸らさずに言った。
「私は、撃っていません。相手が離れた。避難民は無事に戻った。結果として、誰も傷ついていない。
それでも“危険”なら、どうすればよかったんですか」
ホルスト少佐の目が、ほんの少しだけ細くなる。
「この場での質疑は、許可制だ。質問は後」
事務官が、淡々と口を挟む。
「古賀一等兵。あなたの行動は“結果”ではなく“手段”で評価される。Sランクの運用は、そういう仕組みだ」
“仕組み”という言い方が、肌の上を滑った。
守ったかどうかより、どう守ったか。
その前に、紙に残る“分類”が先に来る。
(……守るために、やった)
(でも、ここでは――)
あすみは、舌の裏側に苦いものが溜まるのを感じた。
「……私は、間違っていません」
言葉が出た。抑える前に、出た。
室内の空気が、一段冷える。
監察の中尉が、端末に何かを入力した。打鍵音は小さいのに、やけに耳に残る。
「古賀一等兵」
ホルスト少佐が、改めて名前を呼ぶ。
「この件は、貴官の“運用上の注意事項”として付記される。今後、貴官の出撃許可は本部の裁量が増す。
そして――古賀あすみ。コード《Red Rose》についても、同様だ」
コードネームが先に来る。名より先に、札が貼られる。
「……了解しました」
あすみは言った。けれど、声には力が残っていた。飲み込むにはまだ早い、と思っている自分がいる。
ホルスト少佐は、最後に一言だけ落とした。
「“正しいことを言えば通る”と思うな。ここは西方本部だ」
胸が熱くなる。反論は、喉まで上がった。
でも、許可制の部屋で、許可のない言葉はただの違反になる。
あすみは唇を閉じ直す
「……了解しました」
二度目の“了解”は、一度目より硬かった。
*
廊下に出た瞬間、空気が少しだけ薄くなる。
遠くの足音が規則正しい。窓の外の空は白くて、どこまでも同じ色だった。
あすみは、歩きながら自分に対して確認するように言葉を落とした。
誰に聞かせるでもない、胸の中から落ちた言葉。
「あれを見て、何もしない方が“安全”って言われたら。……それは違うよ」
すれ違う隊員達が、ちらりとこちらを見る。
目が合う前に逸らされる。その一瞬の動きだけで、何かが流れ始めたのが分かった。
(RED ROSEは、扱いにくい)
(問題が起きる)
誰も口にはしない。けれど、空気がそう言う。
あすみの表情は普通だ。怒っても悲しんでもいない。
だから誰も気づかない。あすみが今、胸の内側で拳を握っていることを。
(私は正しいことをした)
(正しいことを言えば通る)
(……通るはずだ)
そう信じている。まだ。
あすみは、端末をポケットから取り出して画面を開きかけ、やめた。
表示されるのはきっと、次の予定と、次のチェックと、次の評価だ。
顔を上げた先に見える西方の廊下は、遠くまでまっすぐだった。
*
ホルスト少佐の面談から一晩明けても、胸の奥に残った角は取れなかった。
朝の西方本部は静かで、静かすぎて、何かを言う音だけが目立つ。
ブリーフィングルームの前にある掲示板には、今日の予定が分刻みで貼られていた。
紙は新しい。インクも濃い。なのに、貼り方が綺麗すぎて、触る前から手が汚れない感じがした。
セリが横で腕を組む。
「今日の“標準化手順”ってやつ、もう覚えたか?」
「見れば分かるよ」
「見ないと分からない、じゃなくて?」
「……見れば分かる」
セリが小さく笑った。笑い方は北方と同じだったのに、笑う場所が違うだけで音が薄く感じる。
扉が開き、隊員たちが入室していく。
第0試験飛行隊――《Red Rose》の席は、前列の端に用意されていた。
机の端に小さな札が置かれている。名前じゃない。コード。
あすみは椅子に座り、背もたれに触れない姿勢のまま端末を開いた。隣のセリも同じ動きだった。
前に立ったのは、ヘイル・ラグナー大尉。
「結論から話す」
ヘイル大尉が言った。
「本日の任務は、境界線西側の輸送路確保。地上部隊は第14警備中隊。上空は我々が受け持つ。目的は“殲滅”ではない。“輸送の継続”だ」
端末に地図が映る。
線が引かれ、矢印が並び、時間が刻まれている。そこに人の顔は載っていない。
「敵性勢力は小規模。熱源反応は散発。警告と牽制で散らす。必要なら投弾で道路脇の障害を排除する。以上」
“以上”が早い。
質問が入る隙間は、こちらが作らないと生まれない。
あすみは、画面の一角で引っかかった場所を指で拡大した。輸送路の脇に、避難区域のマークがある。
その隣に、投弾ポイントの候補が重なっていた。
(……近い)
口の中が乾く。
昨夜の言葉がまだ残っている。
――“正しいことを言えば通る”と思うな。
でも、ここで黙っていたら、それはもう“正しい”以前になる。
あすみは手を挙げた。動きは早くない。けれど迷いもない。
室内の視線が、一斉にこちらへ寄る。
セリが横で、ほんの少しだけ目を細めた。
ヘイル大尉が頷く。
「Red Rose。発言、許可」
許可。
その単語だけで、この場の仕組みが分かる。
「投弾ポイント、避難区域に近すぎます。」
「この作戦、危険では?」
あすみは声を荒げなかった。
ただ、はっきり言った。
「誘爆や二次被害が出たら、輸送の継続どころじゃない。警告と牽制で散らす前提なら、まず――」
「結論」
ヘイル大尉が短く切った。
一拍、室内が止まる。
あすみは言葉を並べたくなるのを止める。
息を吸って、言い直す。
「投弾ポイントを修正してください。避難区域から半径を取るべきです」
ヘイル大尉は端末を一度だけ見た。
視線はあすみへ戻る。
「理由は?」
「避難区域の建屋が軽量構造です。爆風で破損すれば、避難者が動けなくなる。輸送路確保の目的に反します」
言い切った。
これが正しいなら、通る。通らないなら、ここは“正しさ”と別の場所だ。
隣の席で、誰かが小さく鼻で笑った。
あすみはそっちを見ない。見れば、言葉に引きずられる。
ヘイル大尉が沈黙する。
長くはない。けれど、ここではその一秒が重い。
「……投弾ポイントを一段外へずらす。地上部隊の進路は変えない。空の射線だけ修正する」
机の上の端末に修正が走る。
地図の線が、少しだけ動いた。
あすみの肺が、ようやく広がる。
(通った)
通った。だからこそ、なおさら言える。
「ありがとうございます」
あすみが言うと、ヘイル大尉は表情を変えないまま返した。
「礼は不要。目的を守れ」
それで終わりだった。褒めも、評価も、その場には置かれない。
ただ、周囲の視線だけが置いていく。
ブリーフィングが続く。
チェックリスト。標準化手順。使用弾種。燃料配分。緊急時の離脱ルート。
あすみは全部聞きながら、さっきの地図の“ずれた線”を頭の中で確かめ続けていた。
その線の向こうに、避難区域の屋根がある。薄い鉄板の音が聞こえる気がする。
(危ない)
(言わないと)
(北方でも言ってた。ここでも言う)
(正しいことを言えば、通るはず)
それは、今のあすみの骨だった。
*
ブリーフィング終了後、隊員たちは一斉に立ち上がった。椅子の脚が床に擦れる音が、整列した足音の波になる。
通路に出ると、リサが追いついてきた。笑っている。笑い方は普通だ。けれど言葉の順番が、ここだった。
「Red Rose、発言、強いね。嫌いじゃないけど」
「嫌いじゃない、って何」
あすみが返すと、リサは肩をすくめた。
「上の人がね。“扱いづらい”って言葉、好きだから」
トムも通路の角から顔を出す。
「……次から、結論を先にした方がいい。ここ、そういう場所」
「分かってる」
あすみは言った。分かっている。分かっているから言った。
セリが二人の会話を横で聞きながら、あすみにだけ聞こえるくらいの声で落とす。
「噛みついたな」
「噛みついてない。確認しただけ」
「はいはい。……でも、よかった。今日の噛み方は」
「噛み方って何」
あすみが眉を寄せると、セリは前を見たまま言った。
「余計なとこ噛んでない。ちゃんと“守る方”だった」
その言い方が、少しだけ胸に残った。
守るために言った。守るために噛みついた。
通路の先で、次の任務の掲示が更新される。紙が貼られ、端末の通知が一斉に鳴る。
あすみの端末にも、同じタイミングで通知が来た。
《出撃:Red Rose 1200》
《任務:輸送路確保》
《評価項目:遂行率/弾薬消費/逸脱有無》
最後の一行に、指が止まった。
(評価)
(……結局、そこが先に来る)
あすみは通知を消さなかった。
消せば、見ないふりになる気がしたから。
代わりに画面を暗くして、ヘルメットを抱え直した。
「行こう、セリ」
「おう」
歩き出す背中に、視線が数本刺さる。
刺さったまま、誰も言わない。
だから余計に、空気だけが言う。
――RED ROSEは、生意気だ。
*
格納庫は北方ほど騒がしくない。工具の音はあるのに雑談が薄い。笑い声が立っても、すぐに消える。空調の風が一定で、混ざるものが少ない。
「第0小隊、出撃準備」
スピーカーから管制の声が落ちる。名前じゃない。符号だけ。
あすみはヘルメットの内側に指を滑らせ、汗止めの布の端を整えた。指先が縫い目をなぞる。ここだけは、昨日も今日も同じ手触りだ。
隣でセリがハーネスを引きながら言った。
「通ったじゃねえか。投弾ポイント」
「……通ったよ」
通った。だからこそ、余計に引っかかる。採用されたのは“言ったから”じゃない。目的に沿うと判断されたからだ。歓迎でも納得でもなく、処理の音だけが残る。
少し離れた区画で、リオが肩を回していた。動きは大きいのに、手順は雑じゃない。固定具を確かめて、端末のチェックリストを指で弾く。
「朝イチだる……。な、ユイ。今日、風悪くない?」
「悪くない。いつも通り」
ユイは端末を見たまま短く言う。声に余計な温度がない。その淡さが、逆に落ち着く。
セリが小隊回線を開いた。声だけが少し低くなる。
《アルファ2。全員、回線チェック》
《Red Rose、良好》
《BLAVO3、良好。……あ、俺、今日は絶対に死なねえ》
《DELTA4、良好》
「リオ、縁起でもないこと言うな」
セリが呆れたように言う
《じゃあ“いつも通り帰る”で》
「それでいい」
ユイが割り込む。
《DELTA4。出撃順、いつも通りでいい?》
「いい。レッドローズ、先に上げる。ブラボー3、右。デルタ4、上。俺が左」
答え合わせみたいな指示だった。もう何度も飛んでいる。確認だけで足りる関係。
あすみはシートに深く背を預けず、前だけ見て起動手順をなぞった。HUDが立ち上がり、視界に地図と線が浮かぶ。脚部の拘束が締まり、胸部の固定具が噛む。体と機械の境目が、薄くなる。
《アルファ2、システムオールグリーン》
《Red Rose、同じく》
《BRAVO3、グリーン》
《DELTA4、グリーン》
緑の表示が並ぶ。体が、先に落ち着いていく。
《西方中央統合基地管制、こちら第0試験飛行隊。第0小隊、出撃準備完了》
返答は即座だった。
《第0小隊、発進レーン進入を許可。射出後ルートB。地上部隊、第14警備中隊と回線接続済み》
“済み”が早い。
発進レーンへ機体が押し出される。誘導灯が一定の間隔で流れていった。北方の灯りはもっと荒かった。ここは、工場のラインみたいに正確だ。
あすみはスロットルを押し込み、推進出力を上げる。背面の噴射が唸り、姿勢制御が噛む。関節が一瞬だけ震えて、次の瞬間、射出台が機体を空へ放り出した。
(いまは、目の前だけを処理する)
胸の奥に残っている角を、そこへ置く。置けるだけ置いて、飛ぶ。
*
現地上空。輸送路は細く、左右に建屋が点在している。避難区域のマークが、線の外側に押し出されているのが見えた。昨日、動かした線だ。
下から無線が入る。
《こちら第14警備。上空の第0小隊か?》
セリが一拍で返す。
「第0小隊ALPHA2。受信。状況を」
《散発。小規模な車列が道路脇から出入りしてる。撃っては逃げる。輸送隊に近づけたくない》
地上の声は若い。荒くないが息が切れている。セリはその呼吸を聞きながら、地図上の点を見た。
「殲滅じゃない。散らして線を通す。いつも通りだ」
《……了解》
「DELTA4、上から監視。射線出たら切る」
「BRAVO3、右側の木立。動いたら散らす。追うな」
「あすみ、屋上と射線。列を止めさせるな」
《DELTA4、了解》
《BRAVO3、了解。……追うな、が一番むずい》
《Red Rose、了解》
敵は塊になっていない。撃って散らす。散らしたら終わる。そういう仕事。
リオの声が軽く跳ねる。
《BRAVO3、右、動き。散らす》
短い射撃音。土煙が上がり、人影が伏せるのが見える。伏せたら追わない。追えば輸送が止まる。
その直後、輸送路の少し先——建屋の屋上で火花が散った。細い閃光。対空じゃない。地上への嫌がらせみたいな射線が、輸送車列の前を横切る。
《伏せろ! 車列止めるな!》
《……止まってる! 前が——!》
無線が乱れる。輸送車が一台、反射でブレーキを踏んだ。後続が詰まり、列が“固まり”になる。
(止まると、次の弾が当たる)
あすみの視界に、避難区域の線が重なる。止まった列の横には、逃げ込める空き地が少ない。
「第14警備。車列、再始動させて。屋上の射線、切る」
《頼む!》
あすみは照準を“人”に合わせない。合わせないまま、射線の“通り道”を切る。屋上の縁、射手が伏せる位置の手前。砕けば、撃てなくなる。
引き金を引く。
硬い音。弾が屋上の縁を削り、破片が跳ねた。火花が散る。射線が一瞬途切れ、次の瞬間、地上の声が上がる。
《今だ! 動かせ!》
輸送車列が動き出す。遅い。けれど止まってはいない。止まらないだけで、生き残る確率が変わる。
屋上の射手が姿勢を変えようとする。もう一度撃てば止まる。けれど、撃つほど“次”が荒れる。
ユイの声が淡く割り込む。
《DELTA4。別角度、射線一本。切る》
乾いた射撃音。屋上とは別の角度で、もう一本、嫌がらせが折れる。ユイは多く言わない。“切った”という結果だけが落ちる。
セリが噛むように言った。
「いい。追うな。列を動かせ」
《BRAVO3、了解。……くそ、逃げるの上手いな》
「褒めるな」
《褒めてない》
あすみは下を見た。避難区域の屋根が遠い。薄い鉄板の反射が、まだ生きている。
(これでいい)
(列が動いた)
それだけを置いて、帰投ルートへ入った。
*
基地が見えてきた。誘導灯が等間隔で流れる。降下、減速、着地。脚部が地面を捉え、固定具が噛む。推進出力を落とすと、戦闘の音が薄い膜の向こうへ消える。
ハッチを開けると冷たい空気が入ってきた。整備班が寄ってくる。決まった位置、決まった角度、決まった手順。
リオが先に降りて、整備員に軽く手を振った。
「はいはい、規定内? 俺、今日も“使える部品”で帰ってきた?」
「……規定内です。弾薬は基準より多め」
「だよなぁ。追うなって言われたのにさぁ」
ぼやき方だけ軽い。歩調はもうデブリーフへ向かっている。
ユイは何も言わずに降り、端末の画面だけを一度見た。視線が止まる。止まって、すぐ離れる。
あすみの前にも、若い整備員が端末を差し出した。そこに並ぶのは、さっき守った輸送路の“結果”じゃない。
《弾薬消費:基準+11%》
《滞空:予定+4分》
《投弾推奨:未使用》
《逸脱:なし(要確認)》
要確認、の文字だけが最後に残る。
「このままデブリーフに回ります。お願いします」
「……了解しました」
あすみは笑って頷いた。声も顔も普段のまま。セリも同じようにヘルメットを抱え、軽く手を上げる。
「第0小隊。行くぞ」
「うん」
リオが肩をすくめる。
「はいはい。結論から、ってやつな」
ユイが一拍置いて言った。
「結論を間違えないために、見る」
それで話は終わった。
会議室までの廊下はまっすぐで、遠くまで同じ明るさだった。端末が振動する。
《Red Rose/ALPHA2 デブリーフィング 二十分後》
《議題:遂行率/弾薬消費/手順逸脱の有無》
さっき守ったのは輸送路だ。
次に守らないといけないのは、あの場で投弾を選ばなかった理由だ。
ヘルメットの内側の布を、もう一度だけ整えた。
(……誰も気づかない)
自分の中でだけ、薄い引っかかりが増えた。
投弾推奨の表示が点いた瞬間の、あの“楽な道”への誘い。
あすみはその引っかかりを、口にしない。
手を動かしていれば、胸に残ったものをごまかせる気がした。
帰還後の廊下は、乾いた消毒の匂いがした。ブーツの泥を落とすマットが等間隔に敷かれていて、歩幅まで揃えさせるみたいに線が引かれている。
あすみはヘルメットを抱え、セリと並んでデブリーフ室へ向かった。
「……派手に揉めるなよ」
セリが小声で言う。
「揉めないよ。ちゃんと話すだけ」
「それが揉めるって言われる場所、あるからな」
冗談めかしているのに、目は笑っていない。あすみは「うん」とだけ返し、扉の横の端末にカードをかざした。
ピッ、と短い電子音。扉が無駄なく開く。
室内は冷えていた。机は一直線、椅子の脚の位置まで同じ。壁面のモニターには、さっきの任務ログがもう並んでいる。時刻、高度、弾数、燃料消費、通信の遅延値。赤と青の線が、淡々と戦闘を線にしていた。
「着席。結論から」
前に立つホルスト少佐が言った。机の端に置かれた紙コップのコーヒーすら、決まった位置に見える。
あすみは背筋を伸ばして座る。セリが隣で椅子を引く音が、やけに大きく響いた。
「本日の任務、評価はB。時間内帰還、機体損耗軽微。弾薬消費は規定内——ただし、二点修正がある」
ホルストは端末を一度だけ確認してから、画面を切り替えた。
戦闘開始から六分後のログが拡大される。あすみの機体のマーカーが、一瞬だけ止まって見えた。
「ここ。目標の退避経路に対して、追撃を止めた」
空気が一段、硬くなる。あすみは画面を見たまま、声を整える。
「退避経路の先に、民間の仮設区画がありました。誘爆の可能性が——」
「認識している」
ホルストは被せるように言った。声は低い。怒っているのではなく、先に終わらせる声だ。
「規定では、当該距離なら追撃は継続。管制が“中止”を出すまでは、標準パターンで圧をかける。君の判断は、規定外だ」
あすみの喉の奥が、きゅっと鳴った。
規定外。
口の中に残る言葉の感触が、冷たい。
「……結果として、被害は出ていません。退避を許したことで、次の接触が——」
「次の接触は、別の枠で処理する」
ホルストは、話を切るのが上手すぎた。あすみの言葉が、机の上で行き場をなくす。
「ここでの評価は“当該任務の最適化”だ。最適化は標準化で担保する。個別判断は、コストが増える」
コスト。
あすみは思わず、手袋のまま指を握った。爪が革を押して、硬い感触が返る。
「私は……最適化のために止めたつもりです。仮設区画が巻き込まれたら、救助と補給が——」
「規定だ」
ホルストは、はっきり言った。
それだけで、室内の空気が決まる。誰もが“ここで終わり”を理解する言い方だった。
あすみは、返す言葉を探した。探している自分が、少し遅いことにも気づいた。
北方なら——いや、北方でも、上が決めた線はあった。けれど、少なくとも顔が見える場所だった。今は違う。ここでは、顔より先に規定が来る。
(正しいのに、通らない)
胸の奥で、短い声が鳴る。
でも、次の瞬間には自分で押し込んだ。
表に出したら、ここでは“厄介”になる。言い返したら、セリの席まで狭くなる。
あすみは息を一つ吸って、決めた。
「……了解しました」
声は普段と同じにした。語尾を揺らさない。
ホルスト少佐は、ほんの少しだけ顎を引いた。納得した、と受け取ったのだと思った。
「次。通信ログ。君は管制への報告が一拍遅い。原因」
「視界の確認を優先しました。味方の射線が——」
「結論から」
あすみは舌の裏を噛みそうになって、言い直す。
「次回から短くします。結論を先に返します」
「よろしい」
“よろしい”は、褒めているのではない。合格でもない。チェックが一つ付いた音に近い。
隣で、セリが小さく息を吐いた。あすみは横目で見ない。見たら、助けを求めたみたいになる。
デブリーフは十分で終わった。終わり方まで、整っている。
「以上。次任務、明朝。集合は0600。遅れるな」
椅子が引かれ、揃って立ち上がる。あすみも立つ。背筋は真っ直ぐだ。
「古賀一等兵」
ホルストに呼ばれて、あすみは一瞬だけ足を止めた。
「君は優秀だ。だから、枠に入れ」
言葉は静かだった。優しいわけじゃない。折れない棒で、まっすぐ押してくる。
「……了解しました」
あすみは頭を下げ、部屋を出た。
(枠って言葉、残ったな)
*
廊下に出た瞬間、空気が少しだけ温く感じた。さっきまでの冷えが、皮膚に残っているだけなのに。
「……大丈夫か?」
セリが言った。
「大丈夫だよ」
「……なら良いけど」
それ以上、セリは言わなかった。言えないのだと思った。ここで何か言ったら、自分も同じ“枠”に括られる。
歩きながら、あすみは自分の端末を開いた。通知が三つ並ぶ。
【適性チェック:更新】
【標準手順:再確認】
【評価項目:規定遵守/判断ログ提出】
“規定遵守”という文字が、やけに目に残る。
(守ったはずなのに。)
(守ったはずなのに、まだ足りないのか)
思いかけて、すぐに止めた。余計に膨らませない。まだ、膨らませられる場所じゃない。
あすみは画面を閉じた。消さない。見ないだけだ。
居住区へ戻る途中、廊下の角でセリが足を止めた。
立ち止まった理由は、前方から来る足音が一定だったからだ。
白線の上を、迷いなく歩いてくる。軍靴の音が硬いのに、急いでいない。
昨日、格納庫で見た歩き方と同じ。
シュタイナー中佐だった。
西方の制服と色が少し違う。胸元の識別章も、細部が違う。派遣、という言葉が自然に頭に浮かぶ。
「古賀さん、アンダーソンさん。お疲れさまでした」
声が柔らかい。
“点検”のために話しかけてくるわけではなく、人間と話すための声。
「……お疲れさまです」
あすみが返すと、セリも続いた。
「お疲れさまです、中佐」
シュタイナーは二人の前で足を止め、端末を片手で持ち直した。あすみとセリをそれぞれ見ながら話す。
「いまのデブリーフ、こちらにも要点が回ってきます。……その前に、ひとつだけ確認させてください」
言い方が、柔らかく許可を取ろうとしているのがわかった。
あすみは頷く。頷き方はいつも通りにできた。
「追撃を止めた判断。仮設区画が視界に入った、で合ってますか?」
セリの肩が、ほんの少しだけ固くなる。
さっきの部屋の空気が戻ってきそうで、先に身構えたのだと思った。
あすみは、短く答えた。
「はい。人が動けなくなると、輸送路が詰まると思ったので」
“守るため”と直接は言わない。
言わなくても、理由はそれで通るはずだった。
シュタイナーは頷いた。否定もしない。正しさを測る顔もしない。
端末に指を置いて、数文字だけ打つ。
「ありがとうございます。現場の判断って、要約すると削れやすいので。今の言い方だと残せます」
セリが一拍遅れて息を吐いた。
あすみも、胸の奥にあった硬さが少しだけ緩むのが分かった。
「……中佐、こういうのも見るんですか」
セリが探るように言う。軽口の形にしているが、牽制だ。
シュタイナーは笑った。笑い方は控えめで、角がない。
「見ます。飛ぶ人が“何を見て止めたか”は、数字だけじゃ拾えませんから」
あすみは、その言い方が西方の人間のものじゃないと感じた。
規定を盾にしない。規定を言い訳にしない。――それでも軍人として線は守っている。
シュタイナーは少しだけ間を置き、声を落とした。
「もし今後、同じ判断をしたくなった時。言い方で損をしたくなければ、今日と同じ説明を使ってください。短くて、目的に沿っていて、記録に残る」
助け舟だった。
押しつけじゃない。命令でもない。やり方をそっと渡すだけ。
あすみは「はい」と言いかけて、言い直す。
「……ありがとうございます」
シュタイナーは「どういたしまして」と返した。
その一言が、ここでは少し珍しい。
「それと、古賀さん」
呼び止められて、あすみは目を上げる。
「さっきの部屋の“規定です”は、終わらせる言葉に聞こえたかもしれません。でも、終わらせたいのは会話であって、現場の判断までじゃないです」
責める声じゃない。
慰めでもない。事実の言い方だった。
あすみは返事を探し、すぐには出せなかった。
出せないままでも、シュタイナーは待たない。待たないのに、置いていかない距離で言ってくれる。
「今日の任務が終わったらで構いません。必要なら、補足を一行だけ足しましょう。こちらで手順は取ります」
セリが横で、少し驚いた顔をした。
西方で、“補足を足す”という提案は珍しい。面倒が増えるのに、増やす側から言う。
シュタイナーは最後に、二人へ軽く頭を下げた。
「では。お二人、帰還おめでとうございます」
それだけ言って歩き去った。
歩幅は一定で、白線の上を外れない。
残された廊下で、セリが小さく言う。
「……派遣士官、変わってんな」
「うん…あの人、優しいね」
あすみは短く返した。
変わっている、の中身をまだ言葉にしない。
セリが横目であすみを見る。
(このまま、カイトのことから視点が逸れた方が、こいつのためかもな)
セリはそれを、口にしない。
言ったら、あすみは「なんで?」って聞く。聞かれたら、自分は答えられない。
シュタイナーの「帰還おめでとうございます」は、慰めでも励ましでもなかった。
ただ、任務の外側にいる人間が、任務の言葉じゃない形で声をかけてきた――それだけだ。
それだけで、あすみの肩の力が一瞬だけ抜けたのを、セリは見た。
見たから、もう一度だけ思う。
(…前に進め、あすみ)
あすみの中でさっきまで胸の奥に残っていた“規定”の角が、少しだけ丸くなった気がした。
それでも、消えはしない。
あすみは廊下の角を曲がる直前、さっきシュタイナーが消えた、白線の先を一度だけ見た。
そこにはもう誰もいない。なのに、視線が戻らなかった。
あすみはヘルメットを抱え直し、歩き出した。
次回更新は2/20 0時前後になります。




