Sky50-西方中央統合基地-
ーーー3ヶ月前、セレスタ共和国上空
アルクトリを出発して8時間が経っていた。輸送機の窓が、また小刻みに震えた。
エンジンの低い唸りが機体全体に響いて、座席の下から振動が伝わってくる。
膝の上で組んだ手が、その振動に合わせて微かに揺れる。
あすみは窓に額を押し付けたまま、眼下に広がる青い海を見ていた。
白い雲が海面に影を作っている。
その影が、風に流されてゆっくりと形を変える。
海の青が、少しずつ薄くなっていく。
遠くに、陸地の輪郭が見え始めた。アルクトリの島々は、もう見えない。
隣の席で、セリが腕を組んでいる。目は閉じているが、眉間に少しだけ力が入っている。寝ているようには見えない。
あすみは、セリの横顔を見た。
何か考えているのかもしれない。
でも、聞かない。
機内アナウンスが流れた。
《まもなく西方本部エリアに進入する。着陸体勢に入る。全員、着席と固定を確認》
あすみは、シートベルトのバックルを指で確かめた。
金属の冷たさが、指先に残る。
セリが目を開けた。
視線だけで、「大丈夫か」と聞いている。
あすみは頷いた。
窓の外に、灰色の大地が見え始めた。
雪はない。
代わりに、無数の建物と、滑走路と、飛び交うSKYの影。
北方基地の三倍はありそうな滑走路。
その向こうにそびえる、灰色のコンクリート建築群。
空には、複数のSKYが編隊を組んで飛び交っている。
機体が傾く。
エンジン音が低くなる。
着陸まで、あと数分。
*
タラップを降りた瞬間、風が頬を刺した。
湿気と砂を含んだ、重たい風。
北方基地の、あの乾いた冷たさとは違う。
匂いも違う。
燃料と、機械油と、排気ガス。
雪の匂いは、どこにもない。
滑走路の向こうに、格納庫が並んでいる。
その数は、北方基地の比じゃなかった。
一つ、二つ、三つ……数えるのをやめた。
SKYが次々とレーンから放出されていく。
着陸する機体、整備のために移動する機体、次の出撃に備えて弾薬を積む機体。
全部が、機械的な動きで、まるで工場のラインみたいに流れていく。
遠くで、整備班の作業音が聞こえる。
金属を叩く音、工具がぶつかる音、指示を出す声。
全部が混ざり合って、基地全体が一つの”機械”として動いているのが分かる。
滑走路の端には、兵士たちが整然と並んで移動している。誰も無駄話をせず、ただ目的地へ向かっている。
北方基地では、整備班のラルフやジンが冗談を言いながら作業していた。
リーサ軍曹が通信室で軽口を叩いていた。
マルコが食堂で笑っていた。
ここは、誰も笑っていない。
セリが、小さく息を吐いた。
「……でかいな」
短い呟き。
あすみは頷いた。
「うん」
「古賀一等兵とアンダーソン一等兵だな?」
背後から声がして、振り向くと、事務官の制服を着た女性士官が立っていた。
タブレットを片手に、無表情で二人を見ている。
名札には、“M・ローレンス”。
年齢は三十代くらいだろうか。
髪を後ろできっちりと纏めて、眼鏡の奥の目は鋭い。
「はい」
あすみとセリが同時に答える。
「こちらへ。受付と配属手続きを行う。荷物は後で宿舎に運ばれる」
ローレンス事務官の言葉は簡潔で、無駄がない。
北方基地のリーサ軍曹みたいな、ちょっとした軽口や笑顔はどこにもなかった。
そして、振り返りもせずに歩き出した。
あすみとセリは、無言でその背中を追った。
*
滑走路から本部棟へ向かう道は、まっすぐだった。
白いラインが、アスファルトの上に引かれている。
そのラインは、一度も剥がれたり、歪んだりしていない。
完璧に、整っていて、道の両脇には、標識が立っている。
「第一格納庫」「第二格納庫」「整備区画A」「整備区画B」「管制棟」「司令部」
全部が、番号と記号で管理されている。
北方基地では、建物に名前なんてなかった。
「整備棟」「食堂」「宿舎」
それだけで、みんな分かっていた。
ここは、違う。
すれ違う兵士たちは、誰もこちらを見ない。
足音だけが、規則正しく響く。
ローレンス事務官は、一度も振り返らない。
ただ、まっすぐ前を歩いている。
あすみは、その背中を見ながら、胸の奥が少しずつ冷たくなっていくのを感じた。
*
本部棟は、北方基地の司令部よりもずっと大きかった。
廊下は広く、天井は高い。
壁には、作戦地図や通達が整然と貼られている。
蛍光灯の光が、白い壁に反射して、やけに明るい。
すれ違う兵士たちは、誰もこちらを見ない。
足音だけが、廊下に響く。
エレベーターに乗るとローレンス事務官が、「3階」のボタンを押した。
扉が閉まり、上昇する感覚。エレベーターの中は、静かだった。
換気扇の低い音だけが、耳に残る。
あすみは、セリの方を見た。
セリも、同じように緊張しているのが分かった。
エレベーターが止まり、扉が開くとローレンス事務官が、先に降りた。
廊下は、さっきと同じように静かだった。
ローレンス事務官は、階段を上がり、長い廊下を抜けて、ある部屋の前で止まった。
「ここで待て」
そう言って、事務官は部屋の中に入る。
あすみとセリは、廊下に残された。
窓の外から、滑走路が見える。滑走路からは戦闘機が、次々と離陸していく。
遠くで、整備音が聞こえる。金属の音、エンジンの音、指示の声。
全部が、遠くにある。
セリが、小さく息を吐いた。
「……なんか、緊張するな」
「うん」
あすみも、同じだった。
北方基地では、新兵だからって特別扱いされることはなかった。
でも、ここは空気が違う。
まるで、全員が「仕事」をしに来ている場所。
数分後、ローレンス事務官が戻ってきた。
「入れ」
*
部屋の中は、まるで病院のロビーみたいに無機質だった。
白い壁、灰色の床、整然と並んだ椅子。
窓からは滑走路が見えるけれど、ブラインドが半分下りていて、光が薄暗い。
空調の音だけが、低く響いている。
部屋の奥には、大きな机。
その向こうに、端末が三台並んでいる。
ローレンス事務官が、そのうちの一台に座った。
「座れ」
あすみとセリは、机の前の椅子に座った。
椅子が、硬い。
北方基地の司令室の椅子は、もっと柔らかかった。
ローレンス事務官が、端末を操作しながら淡々と説明する。
「まず、IDカードの再発行を行う。北方基地で使用していたものは、ここでは無効だ」
キーボードを叩く音が、規則正しく続く。
カタカタカタ、と。
その音だけが、部屋に響く。
「次に、コードネームの正式割り当て。古賀一等兵、貴女は”Red Rose”として登録される」
その言葉に、あすみの手が一瞬止まる。
「……コードネーム?」
ローレンス事務官が端末をあすみに向ける
《古賀あすみ一等兵
配属:西方中央統合基地・第0試験飛行隊
コードネーム:Red Rose (RR -01)》
「Sランクパイロットには、作戦上の識別コードが割り当てられる。お前の場合、既に前線で”Red Rose”として認識されているため、そのまま正式採用となった」
ローレンス事務官は、端末を自分の方へ戻し、感情を挟まずに続ける。
端末の画面を見ながら、ただ事実を読み上げている。
「アンダーソン一等兵は、“Alpha2”。特に問題はないな?」
「……ないです」
セリが、少しだけ戸惑いながら答える。
あすみは、その響きを胸の中で繰り返した。
Red Rose。
北方基地で、整備班の誰かが冗談で呼び始めた名前。
それが今、正式に自分を示す記号になった。
名前じゃなくて、コードネーム。
ローレンス事務官が、あすみを見る。
その目は、評価するでもなく、ただ事実を確認するだけ。
「Red Rose。北方基地での戦果は把握している。ここでも、同様の成果を期待する」
「……はい」
あすみは、そう答えるしかなかった。
ローレンス事務官は、端末を操作して、何かを確認する。
画面には、数字と記号が並んでいる。
あすみには、何が書いてあるのか分からない。
「IDカードは明日の朝までに発行される。それまでは仮IDで行動しろ。宿舎の鍵も、ここに」
事務官が、二枚のカードキーを机の上に置く。
カードキーは、黒いプラスチック製。
北方基地では、部屋に鍵なんてなかった。
「宿舎は第三居住棟、2階。部屋番号は203と204。隣同士だ」
「はい」
「配属ブリーフィングは、明朝0800時、第一会議室。遅刻は認めない」
「了解しました」
あすみとセリが、ほぼ同時に答える。
「以上。案内士官が外で待っている。ついていけ」
ローレンス事務官は、それ以上何も言わずに、次の書類に目を落とした。
あすみとセリは、椅子から立ち上がった。
カードキーを手に取る。
冷たい。
*
廊下に出ると、若い男性士官が待っていた。
階級章は、一等兵。
年齢は二十代前半くらいだろうか。
短く刈り上げた髪、引き締まった顔つき。
「第三居住棟まで案内する。ついてこい」
それだけ言って、士官は歩き出す。あすみとセリは、その背中を追った。
本部棟を出ると、外はもう夕暮れに近かった。空が、オレンジ色に染まり始めている。
滑走路の向こうに、格納庫が並んでいる。その数は、北方基地の比じゃなかった。
遠くで、整備班の作業音が聞こえる。金属を叩く音、工具がぶつかる音、指示を出す声。
全部が混ざり合って、基地全体が一つの”機械”として動いているのが分かる。
第三居住棟へ向かう通路は、どこまでもまっすぐで、左右対称だった。
床には、白いラインテープが引かれている。
そのラインは、一度も剥がれたり、歪んだりしていない。
案内してくれた士官は、ほとんど無言で前を歩いている。
セリが、小さく呟いた。
「……なんか、静かだな」
「うん」
北方基地には、廊下を歩くたびに誰かとすれ違って、軽く挨拶を交わすような空気があった。
ここは、誰もが足早に通り過ぎて、視線を合わせない。
案内士官が、ある扉の前で止まった。
「ここが203と204だ。鍵で開く。食堂は一階、シャワーは共同。利用時間は0600から2200まで」
「はい」
「何か問題があれば、一階の管理室に報告しろ。以上」
士官は、それだけ言うと、踵を返して去っていった。
あすみとセリは、少しだけ顔を見合わせる。
「……じゃ、俺は204な。覗くなよ」
「はいはい。また後で」
セリが自分の部屋に入り、ドアが閉まる。
カチャリ、と鍵がかかる音がした。
あすみは、203の扉の前でカードキーをかざした。
ピッ、と軽い音。
ロックが外れる。
*
案内された個室は、北方基地のそれとは違っていた。部屋は、狭くはないけれど、広くもなかった。
ベッド、机、椅子、小さなロッカー。
窓は一つ、ブラインドが下りている。
壁は新しく白い、床にはグレーのタイルが敷いてある。
北方基地の木の匂いも、古いストーブの温もりも、ここにはない。
あすみは、ドアを閉めて、部屋の真ん中に立ち尽くした。
荷物は、まだ届いていない。
ベッドには軍支給の毛布が畳まれて置いてあるだけ。
窓に近づいて、ブラインドを少しだけ開けてみる。
窓の外からは、遠くで響く整備音と、時々通り過ぎるSKYの駆動音。
輸送機や戦闘機用の滑走路の灯りが、規則正しく並んでいる。
灰色の空と、飛び交うSKYや戦闘機の影が見えた。
(空が雲で見えないな……)
あすみは、窓ガラスに手を当てた。冷たい。
北方基地の窓ガラスも冷たかった。
でも、あの冷たさとは違う。
あすみは、窓から離れて、ベッドに腰を下ろした。
マットレスが、少しだけきしむ音がした。
北方基地のベッドより、硬い。
ロッカーを開けてみる。中には、ハンガーが三本。それだけ。
北方基地のロッカーには、ラルフがくれた整備マニュアルのコピーが入っていた。
ジンが書き込んだメモも。
ここには、まだ何もない。
あすみは、ロッカーを閉めた。
机に座ってみる。椅子が、硬い。
机の上には、ランプだけが、ぽつんと置いてある。
あすみは、ランプをつけてみた。
オレンジ色の光が、部屋を照らす。
その淡い光を見ながら、少しだけ、温かくなった気がした。
でも、すぐに消した。
部屋が、また暗くなる。
窓から差し込む光だけが、床を照らしている。
コンコン。
ドアをノックする音。
あすみは、起き上がってドアを開けた。
セリが立っていた。
「……飯、行こうぜ」
「うん。」
あすみは、部屋を出た。
*
食堂は、一階にあった。
広くて、天井が高い。
長テーブルが整然と並んでいる。
蛍光灯の光が、白く明るい。
天井の換気扇が、低い音を立てている。
北方基地の食堂みたいな、ざわめきはない。
みんな黙々と食事をして、すぐに席を立つ。
会話の声は、ほとんど聞こえない。
あすみとセリは、トレーを持って列に並んだ。
配膳係が、無言で料理を盛る。
スープ、パン、肉。
北方基地と、メニューはそんなに変わらない。
でも、盛り方が違う。
北方基地では、配膳係が「今日のスープ、美味いぞ」とか「パン、もう一個いるか?」とか、軽く声をかけてくれた。
ここは、無言。
トレーを受け取って、二人は空いているテーブルに座った。
テーブルは、六人掛け。
でも、座っているのは二人だけ。
他のテーブルも、同じような感じだった。
一人で座っている兵士、二人で座っている兵士。
誰も、無駄話をしていない。
セリが、パンをちぎりながら言う。
「……静かだな」
「本当、静か」
あすみも、同じことを思った。
スープを一口飲む。
温かい。
塩が効いている。
でも、北方基地のスープとは、少しだけ違う気がした。
パンをちぎる。柔らかい。
でも、北方基地のパンの方が、もっと柔らかかった気がする。
グリルされた肉を食べる。味は、悪くない。
でも、北方基地の肉の方が、もっと美味しかった気がする。
何が違うのかは、分からない。
ただ、何かが違う。
セリが、小さく呟いた。
「……明日から、どうなるんだろうな」
「分かんない。ちょっと不安だよね」
あすみは、正直に答えた。
分からないことだらけだった。
配属ブリーフィング。
第一会議室。
0800時。
明日の朝、何が待っているのか。
食事を終えて、トレーを返却口に持っていく。返却口の向こうで、配膳係が無言でトレーを受け取る。
あすみは「ごちそうさまでした」と言ったが、配膳係は頷いただけだった。
食堂を出て、廊下を歩く。エレベーターに乗って、2階のボタンを押す。上昇する感覚。エレベーターの中は静かで、換気扇の音だけが低く響いている。
セリが小さく息を吐いた。
「……なんか、疲れたな」
「うん」
あすみも同じだった。体は、そんなに疲れていない。でも、心が少し疲れている。
エレベーターが止まって、扉が開く。廊下は、相変わらず静かだった。203と204の前まで来ると、セリが自分の部屋の前で止まる。
「……じゃ、また明日な」
「うん。また明日ね」
セリが部屋に入り、ドアが閉まる。あすみも自分の部屋に入って、ドアを閉めた。鍵をかける音が、静かに響いた。
部屋に入ると、荷物が届いていた。ダンボール箱が、ベッドの横に置いてある。
あすみは箱を開けた。制服、下着、タオル。北方基地から持ってきた、全部。一番下に、小さな写真が入っていた。
北方基地の、集合写真。
リーサ軍曹、整備班のみんな。みんなが笑っている。あすみも、その時は笑っていた。
写真を手に取って、しばらく見つめてから、机の上に置いた。それから、タオルを手に取る。
(シャワーに行こう。)
*
共同シャワー室は、廊下の突き当たりにあった。
扉を開けると、タイル張りの脱衣所が広がっている。壁際にロッカーが並んでいて、奥にシャワー室の入口が見える。誰もいない。
あすみは制服を脱いでロッカーに入れてから、シャワー室に入った。タイルの床が冷たい。蛇口をひねると、お湯が勢いよく出てきた。
温かい。
北方基地のシャワーは、時々お湯が途中で冷たくなった。ラルフが「配管が古いからな」と笑っていた。でも、ここのシャワーは、ずっと温かいまま流れ続ける。
髪を洗って、体を洗う。お湯が肩から背中に流れていくのを感じながら、あすみは少しだけ息を吐いた。少しだけ、気持ちが楽になった気がする。
シャワーを止めて、タオルで体を拭く。制服を着て、脱衣所を出る。廊下は、相変わらず静かだった。
*
部屋に戻ると、窓の外はもう暗くなっていた。
あすみは制服を脱いで、軍支給の下着に着替えてからベッドに横になった。
毛布をかぶると、体が少しずつ温まってくる。でも、目は冴えたままだった。
天井を見上げる。白い。まっすぐで、平らで、何の個性もない。北方基地の天井は木の板で、節があって、少しだけ歪んでいた。
ハイルトン司令の部屋も、リーサ軍曹の通信室も、整備棟も、全部あの木の天井だった。
ここは違う。
明日から、新しい日々が始まる。西方本部で、Red Roseとして戦う。その名前が、胸の奥で静かに響いた。
北方基地の、あの温かさはここにはない。でも、ここで戦わなければならない。
隣の部屋からセリの荷物を置く音が聞こえる。壁を抜けて聞こえるけれど、北方みたいに「生活音」じゃない。ただの「音」だ。
ベッドに腰掛け、横を向いて、窓の方を見た。
ブラインドの隙間から、滑走路の灯りが規則正しく並んでいるのが見える。遠くでSKYが飛んでいく。駆動音が、微かに聞こえる。
広大な基地。整列した戦闘機とSKY。動き続ける車両。遠くに、戦線方向の光が見える。
(……ここなら)
あすみは、小さく息を吐いた。
(ここなら、何かわかるかも)
カイトの手がかり。
自分が戦う意味。
守るべきもの。
西方本部という「中枢」なら、答えがあるかもしれない。
その希望だけが、まだ、あすみを前に進ませていた。
*
隣の部屋で、セリも同じようにベッドに横になって端末を見ていた。
見ていた端末を胸の上に下ろすと、窓の外を見ながら、小さく息を吐く。
アルクトリの路地裏。
フードの下から覗いた、あの顔。
『ここで会ったこと、あすみには言うなよ』
その言葉が、まだ胸に引っかかっている。
セリは、目を閉じた。
ーーーカイトは生きている。
それだけで、少しだけ前に進める気がした。
明日から、新しい戦いが始まる
西方本部、初日の夜。
二人は、それぞれの部屋で、静かに眠りについた。
次回更新は2/14 20時頃になります。
よろしくお願いいたします。




