Sky47-南下の地図-
アルクトリを出発してから、数ヶ月が経っていた。
第1作戦室に入ると、壁一面のスクリーンには、もう地図が映し出されていた。
青い海と、陸地の輪郭と、国境線。いつもの「どこかの補給船を叩く」作戦とは、少し表示の範囲が違う。
席に着くと、隣にサジが腰を下ろした。オレンジのジャケットを背もたれに引っかけながら、だらしなく椅子を倒す。
「今日のは、でかいぞ」
あくびを噛み殺すように言う。
「どのくらい?」
「分かんねぇ。でも、ミナが昨日から端末握りしめてた」
その言葉の意味は、すぐに分かった。スクリーンの地図が、さらに広い範囲に切り替わる。帝国領から、小国群を挟んで、連合の南方基地まで。
「遅かったじゃない、ボリー」
パーカーを羽織ったリアが、椅子の脚に足を絡めながら振り返る。
「整備長にちょっと」
「ああ、タミルに絡んだのね。生きて帰ってきたの偉いわ」
「絡んでない。感想を言っただけ」
「それを絡むって言うの」
軽口に苦笑しかけたところで、ミナが静かにこちらを見た。
「着席を。リンク開始まで三分」
その声は柔らかいのに、有無を言わせない何かがある。カイトは、自分の席に座り直した。
*
「じゃ、そろそろ始めようか」
室内のスピーカーから、ニコのあくび混じりの声が響く。
「本日のメニュー。一、世界地図。二、帝国が何考えてるか。三、俺たちが何やらされるか。以上」
サジが「ざっくりしてんなぁ」とぼやく。
「詳細はこれから。ミナ、お願い」
ニコの声に促されて、ミナが立ち上がった。レーザーポインタを手に取り、スクリーンの地図に赤い線を走らせる。
「帝国の南下ルートです」
赤い矢印が、地図の上を滑っていく。帝国領――小国群――連合南方基地。矢印の通り道に、いくつもの小国の名前が並んでいた。
グラディウス共和国。
エルネスト自由都市。
ラインフェルト公国。
どこも、地図で見るだけなら綺麗な線で囲まれているけれど、
その線の向こう側にどれだけの人が住んでいるかなんて、この部屋の誰もが知っている。
「この小国群が、今、挟み撃ちの状態です」
ミナの声は、淡々としていた。
カイトは地図を見つめる。
小国群。
その中に、どれだけの街があって、どれだけの人が住んでいて。
——どれだけの人が、逃げようとしているのか。
難民船団。
沈んだ一隻。
ブリッジヘッドの炎。
全部、この地図の上の話だ。
「連合は?」
ウィリスが短く問う。
「公式には、静観姿勢。表向きは"中立国の自治を尊重"という名目です」
「表向きは、って」
カイトが思わず口を挟むと、ミナは地図に新しい青い点線を追加した。連合――小国群。
「裏では、小国群に武器を流しています。ただし、連合軍の正式な介入はありません」
「要するに、代理戦争ってやつか」
サジが椅子をぎしりと傾ける。
「……そうとも言えます」
ミナが頷く。その頷きの向こう側で、カイトは地図の上の小さな国境線を見つめていた。矢印の通り道。挟まれた小国群。どこも、誰かが暮らしていて、誰かが逃げようとしている場所。
「ろくでもねぇな」
リアが小さくぼやいた。誰も否定しなかった。
*
「じゃあ、続き」
スピーカーの向こうで、ニコが端末を叩く音がする。スクリーンの地図が、また少し拡大された。そして――
ドアが開く音。全員が振り向く。
室内に入ってきたのは、ケイだった。煙草を咥えていない。珍しい。代わりに、端末を片手に持って、スクリーンの前に立つ。
「……続けて」
ミナが一度だけ頷き、席に戻る。ケイが、スクリーンの地図に目を向けた。
「このままじゃ、小国が全部"緩衝材"にされる」
その声は、いつもより少しだけ低かった。ケイは、地図の上の小国群を指先でなぞる。
「帝国は南下を止めない。連合は正面で睨むだけ。小国は、その間で潰される」
「……で、俺たちは?」
ウィリスが、腕を組んだまま訊く。
「連合は正面。俺たちは裏側から、帝国の足をかじる」
スクリーンに、新しい矢印が追加される。ARCLINE――帝国補給線・輸送ルート。
「補給線を叩く。輸送船を沈める。オルタイト鉱山のルートを塞ぐ」
ケイの指が、地図の上をなぞる。
「帝国の南下を、少しでも遅らせる。それが、俺たちの仕事だ」
室内が、静かになった。笑い声も、軽口も、今は誰も口にしない。地図の上で動く矢印が、全部、誰かの命の重さに繋がっている。
「またろくでもない仕事が来たな」
ニコの声が、スピーカーから落ちてくる。
「ろくでもなくない仕事なんて、この世界にあるの?」
リアが肩をすくめる。
「ないな」
サジが即答した。
「……ない」
ウィリスも、短く返す。短い笑いが、室内に広がって、すぐに消えた。
ケイは、スクリーンの地図をしばらく見つめていた。その横顔が、いつもより少しだけ疲れて見える。
「質問は?」
誰も手を挙げなかった。
「じゃあ、準備しろ。出撃は明日0600」
「了解」
椅子が一斉に軋む。メンバーが、それぞれの持ち場へ散っていく。
*
カイトは、最後まで地図を見ていた。
帝国の南下ルート。挟まれた小国群。連合の青い点線。ARCLINEの矢印。
そして、地図の、ずっと北側と西側に、小さく表示されている文字。
北方第七基地
西方本部基地
その文字を、カイトは目で追う。
(……赤い薔薇は、北方から西方に移った)
TVで見た映像。
雪の戦場。
赤い残光。
あれから、どのくらい経ったんだろう。
(西方でも、まだ飛んでいる)
スクリーンの中の赤い矢印を見る。帝国の南下ルート。その先には、連合の基地がある。北方も、西方も、全部、この矢印の先を守ってる。
(あすみは、この矢印の先を守ってる)
カイトは、視線を落とす。ARCLINEの矢印。帝国の補給線を叩く。輸送船を沈める。オルタイト鉱山のルートを塞ぐ。
(俺は、この矢印の根っこを削ってる)
同じ地図。違う場所。
(……会えない)
(会っても、何も言えない)
胸の奥が、きゅっと縮む。
(でも――)
地図の上の、西方の文字をもう一度見る。
(俺が、ここで足を削れば)
(あの矢印が、少しでも遅くなる)
それだけでいい。今は、それだけでいい。
「ボリー、行くぞ」
ウィリスの声に、カイトは振り返った。
「うん」
スクリーンから目を離し、作戦室を後にする。背後で、地図の光だけが静かに残っていた。
*
休憩室は静かだった。作戦室の喧騒から一枚隔てただけなのに、空気がまるで違う。
テーブルの上に、簡易チェス盤。マグカップが二つ。どちらも中身は冷めている。
サジが椅子にどさっと腰を落とし、盤を指で弾いた。
カイトとサジは、いつもの休憩時間と同じようにチェスをしながら話し始めた。
「なあ、カイト。結局さっきの話、俺らは“遅らせる”だけなんだよな?」
「ああ」
カイトは答えながら、白のナイトを一つ進めた。盤面の中央には、すでに駒が密集している。
「正面は連合。俺らは裏から足削る係。……まあ、いつもの汚れ役だな」
サジは笑いながら、黒のポーンを前に出す。
軽い手つきだった。
「正面で派手にやる方が、まだ気持ちいいぜ」
「派手なのは、目立つからな」
カイトはそう言って、ビショップを斜めに滑らせる。
サジのナイトの進路を、さりげなく塞ぐ位置。
サジは気にせず話を続けた。
「帝国もさ、小国もさ。地図の上じゃ線一本だけど、
中に人がいるって考えると、気分悪いよな」
「……そうだな」
返事は短い。
カイトは盤面から目を離さない。
サジがルークを動かした。
守りを固めたつもりの配置。
「でも、俺らがやらなきゃ、
もっと酷いことになるって話だろ?」
「ああ、そうだ」
白のクイーンが、ゆっくりと前に出る。
サジの視線は、まだその意味に届いていない。
「要するにさ、
誰かが嫌な役を引き受けないと、終わらないんだよ」
サジはそう言って、黒のビショップを動かした。
その瞬間――
カイトの指が止まった。
ほんの一拍。
考えているようで、もう決まっている間。
白のナイトが跳ねる。
サジは、まだ笑っていた。
「……ん?」
盤を覗き込む。
自分のキングの周りを、初めて見渡す。
「え?」
クイーン。ナイト。ビショップ。
逃げ道が、いつの間にか消えている。
「……あっ」
カイトは何も言わない。
サジがもう一度、盤を見る。
「マジかよ……」
間の抜けた声が漏れた。
「だから、お前とやるの嫌なんだよ!」
椅子にもたれ、天井を仰ぐ。
「いつの間に詰めてんだよ。
さっきまで、普通に喋ってただろ」
カイトは駒を戻さない。
「話してたから、だよ」
「意味わかんねえ……」
サジは苦笑して、カップを持ち上げた。
「お前には勝てる気がしねえわ」
カイトは答えなかった。
その代わり、盤を片付ける。
駒を一つずつ、丁寧に箱へ戻していく。
最後に、白のキングを持ち上げて――
静かに伏せた。
ちょうどその時、
机の端末が短く鳴った。
一度だけ。
呼び出し音というより、通知に近い音。
カイトは、その音にだけ反応した。
盤面から目を上げるでもなく、指先で最後の駒を箱に収める。
白のキングを持ち上げて――
静かに伏せた。
それから端末に手を伸ばす。
画面を見た瞬間、表情は変わらないのに、空気だけが少しだけ固くなる。
カイトは立ち上がった。
「先に戻る」
「おう。次は手加減しろよ」
振り返らず、カイトは言った。
「無理」
扉が閉まる。
サジは一人、空になった盤を見下ろしたまま、
しばらく動かなかった。
「……気づいた時には、何も残ってねえんだよな」
さっきまでの笑い声が、嘘みたいに遠い。
残ったのは、駒のいない盤と、冷めたままのコーヒーだけ。
格納庫に戻ると、タミルが機体の下で作業をしていた。
「お、ボリー。もう終わったのか」
「うん」
「明日0600出撃だろ? 早く寝ろよ」
「……分かってる」
カイトは、機体の腹を軽く叩く。冷たい金属の感触が、手のひらに残る。
(……あいつらが飛んでる空と、同じ地図の上)
上を見上げる。格納庫の天井の向こうに、宇宙が広がっている。
(同じ空を、違う場所から見てる)
目を閉じる。北方の雪。西方の砂。南の海。全部、同じ空の下。
(……それでいい)
(今は、それでいい)
タミルの声が、遠くで何か言っている。カイトは機体の腹をもう一度叩いてから、通路へ向かった。
格納庫の灯りが、背中越しに長く伸びていた。
明日も、根っこを削りに行く。
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