Sky46-裏路地の再会-
輸送艇がアルクトリ第三区画の着陸ベイに降りたのは、地上時間の午後三時過ぎだった。
機体の外装に、ドック内の冷たい空気が触れてわずかに軋む音がする。
エンジンの振動が止まり、代わりに油圧ハッチの開く音だけが格納庫に響いた。
「着いたぞ」
ニコが操縦席から立ち上がり、後部ハッチへ向かう。
カイトは窓際の席から立ち上がり、肩にかけたバッグの重さを確認した。
外に降りると、ベイの照明が薄暗い。
天井の高い格納庫は、昼間なのに夜のような静けさがあった。
コンクリートの床。
壁に貼られた錆びた案内板。
奥の方から、油と金属の匂いが流れてくる。
「よし、補給物資の確認から行くぞ」
ニコが先に歩き出す。
サジとカイトが続いた。
*
第三区画の補給センターは、ベイから徒歩で五分ほどの距離にあった。
通路は薄暗く、壁には配管が剥き出しになっている。
古い建物の匂い。
どこかで水が滴る音。
行き交う人間の顔は、みんな疲れているか、警戒しているか、その両方だった。
「ここが”中立”かよ」
サジが小声で言う。
「旗がないだけで、中身は変わらねえよ」
ニコが肩をすくめる。
カイトは黙ったまま歩いていた。
補給センターの入口に着くと、警備員が一人立っていた。
無精髭の中年男。
腰には拳銃。
目は疲れているが、視線は鋭い。
「ARCLINE?」
「ああ」
ニコが身分証を見せる。
警備員は端末で照合し、短く頷いた。
「中へどうぞ。担当者が待ってます」
*
補給センターの中は、倉庫というより市場に近かった。
積み上げられたコンテナ。
フォークリフトの音。
作業員の怒鳴り声。
その奥に、小さなオフィスがあった。
「ARCLINEの方ですね」
中年の女性が立ち上がる。
「こちらが今回の物資リストです。医薬品、食糧、燃料。それと難民船団への追加物資」
彼女が端末を操作すると、ホロに詳細なリストが浮かび上がった。
ニコが目を通し、短く頷く。
「数量は?」
「リスト通りです。ただし、医薬品の一部は代替品になっています。供給元の都合で」
「了解。確認する」
カイトとサジは、それぞれコンテナの検品に回った。
*
コンテナの中身を確認する作業は、地味だが重要だった。
医薬品の箱を一つずつ開け、中身を確認する。
食糧パックの数を数える。
燃料タンクの封印をチェックする。
サジが隣で同じことをしている。
「……全部ちゃんと入ってるな」
「当たり前だ。ここは一応”公式”のルートだからな」
ニコが後ろから声をかける。
「問題は、これを難民船団まで運ぶ途中だ」
カイトは黙って頷いた。
アルクトリから難民船団への輸送ルート。
表向きは安全な中立圏内だが、実際にはどこで何が起きてもおかしくない。
「積み込みは明日の朝」
ニコが確認する。
「それまでは自由時間だ。ただし、連絡は常に取れるようにしとけよ」
「了解」
カイトは短く返事をした。
*
補給センターを出ると、外はまだ明るかった。
アルクトリの空は、薄く曇っている。
ビルの隙間から見える空は、灰色と青の間のような色だった。
「じゃ、俺は情報屋に顔出してくる」
ニコが手を振る。
「サジはどうする?」
「俺は酒場だな。情報収集って名目で」
サジがにやりと笑う。
「ボリーは?」
「……散歩」
ニコが肩をすくめる。
「六時間後、ベイに集合な」
「分かってる」
カイトは短く返して、二人と別れた。
*
一人になると、カイトはフードを深く被り直した。
補給センターから大通りへ出ると、アルクトリの空気が一変する。
人の波。
看板の洪水。
複数の言語が入り乱れる喧騒。
アルクトリ第三区画の中心通り⸺ここは「中立」という名の無法地帯だった。
カイトは人混みの端を歩きながら、周囲を観察した。
通りの両側には、雑多な店が軒を連ねている。
武器商人の看板。
情報ブローカーのオフィス。
偽造IDを売る裏店。
どう見ても怪しい「輸出入代行業」の事務所。
その間に、普通の飲食店や雑貨屋が混ざっている。
表と裏が入り混じって、境界線が見えない。
通りを歩く人間の服装も、ばらばらだった。
連合軍の制服から階級章だけを外した男。
帝国の軍用ブーツを履いた女。
どこの国のものとも判別できない迷彩服。
高級スーツに身を包んだ企業の人間。
ぼろぼろの作業着を着た労働者。
みんな、どこか警戒している。
視線が合わない。
誰も長く立ち止まらない。
会話は小声で、素早く。
……ここじゃ、軍服より「何も着てない」やつの方が目立つ
ケイの言葉を思い出す。
その通りだった。
堂々と軍服を着ている人間は、ほとんどいない。
みんな、何かを隠している。
カイトは立ち止まり、通りの向こう側を見た。
古いビルの壁面に、巨大な広告ホロが浮かんでいる。
ヴァルシュタイン重工のロゴ。
アステリア総合体の企業マーク。
ベルナイン共和国の観光案内。
帝国系企業の求人広告。
全部が、同じ壁面に並んでいる。
連合も帝国も、中立国家も、企業も⸺全部がここでは「客」だ。
カイトは歩き出した。
通りの中央を避け、建物の影を縫うように進む。
露店の前を通り過ぎる。
焼き肉の煙。
香辛料の匂い。
どこかの国の郷土料理。
店主が声をかけてくる。
「兄ちゃん、いい肉あるよ! 帝国産!」
「連合のワインもあるぜ、本物だ」
「ベルナインの工芸品、見ていかない?」
カイトは無視して歩く。
声をかけられるたびに、少しずつフードを深くする。
次の角を曲がると、雰囲気が変わった。
少し静かになる。
大通りから一本入った路地。
ここは、もう少し「裏」に近い。
壁に貼られたポスター。
募集:輸送船クルー(国籍不問)
求む:護衛任務経験者(軍歴問わず)
高額報酬:危険地域への物資輸送
全部、グレーゾーンの仕事だ。
カイトはそれを横目に見ながら、さらに奥へ進んだ。
路地の奥に、小さなカフェがあった。
看板は色褪せていて、窓ガラスは曇っている。
でも、中には数人の客が座っていた。
カイトは立ち止まり、窓越しに中を見た。
カウンターに座る男⸺連合軍の軍用時計をしている。
テーブル席の女⸺帝国製の通信機を腰に下げている。
奥の席の老人⸺どこの国の人間かも分からない。
みんな、黙って飲んでいる。会話はない。
ただ、互いの存在を認識しながら、一定の距離を保っている。
……中立地のルール
カイトは、そのカフェを通り過ぎた。
さらに奥へ向かう。
建物の壁には、古いポスターの上に新しいポスターが貼られている。
その上からまた別のポスターが貼られて、何層にもなっている。
一番下に見えるのは、十年以上前の広告だ。
アルクトリは、何度も塗り替えられながら、何も変わっていない。
通りの向こうから、笑い声が聞こえてくる。
カイトは立ち止まり、音のする方を見た。
小さな広場があった。
中央に古い噴水。
その周りに、ベンチがいくつか。
観光客らしい若者たちが、笑いながら写真を撮っている。
その横で、難民らしい家族が荷物を抱えて座っていた。
老人と、若い母親と、二人の子供。
疲れた顔をしていて、荷物はわずか。
子供の一人が、噴水の水を見つめている。
カイトは、その光景を数秒だけ見た。
それから、視線を外して歩き出した。
広場の反対側へ。
そこには、高級そうなレストランがあった。
ガラス張りの入口。
中には、スーツ姿の男女が座っている。
テーブルの上には、ワインと料理。
窓の外⸺広場の難民家族とは、わずか数十メートルしか離れていない。
でも、まったく違う世界。
カイトは、その対比を見ながら、小さく息を吐いた。
……これが、アルクトリ
中立という名の、カオス。
誰もが何かを隠し、誰もが何かを探している。
軍人も、商人も、難民も、犯罪者も⸺全部が同じ通りを歩いている。
カイトは歩き続けた。
広場を抜け、また別の路地へ。
ここは、さらに静かだった。住宅地に近い。
古いアパートが並んでいる。
壁には洗濯物が干してあり、窓からは料理の匂い。
どこかで子供の泣き声。
普通の生活がある。
でも、その普通も、どこか歪んでいる。
一階の窓に、鉄格子。
玄関には、複数の鍵。
路地の角に、監視カメラらしきもの。
みんな、何かから身を守っている。
カイトは、その路地を抜けて、また大通りへ出た。
今度は、商業区画に出た。
大きなビルが並んでいる。
ヴァルシュタイン重工のオフィスビル。
アステリア総合体の支社。
いくつかの中立国家の大使館。
ここは、アルクトリの「表」の顔だ。
清潔で、整然としている。
でも、その裏には、さっき見た路地がある。
表と裏が、すぐ隣にある。
カイトは、ヴァルシュタイン重工のビルを見上げた。
ガラスと金属の外壁。
巨大な企業ロゴ。
以前、ここでアンナ・ヴァルシュタインとキーン・グルドマン少尉を護衛した。
あの時のことが、ぼんやりと蘇る。
アンナの投げやりな笑い。
キーンの冷静な横顔。
二人とも、この街に慣れていた。
表と裏を、自然に使い分けていた。
……今日は、あの二人はいない
ケイの言葉を思い出す。
カイトは、ビルから視線を外して歩き出した。
もう少しだけ、歩きたかった。
この「どこでもない場所」を。
通りを進むと、また雰囲気が変わる。
今度は、娯楽地区。
バー、クラブ、カジノ。
昼間なのに、すでにネオンが灯り始めている。
入口に立つ呼び込み。
派手な服を着た女性たち。
酔っ払った男が、路地の隅で眠っている。
ここは、アルクトリの「夜」の顔だ。
昼も夜も関係ない。
カイトは、その通りを素早く抜けた。
足早に。
ここは、長居する場所じゃない。
次の角を曲がると、静かな通りに出た。
古い建物に石畳の道、街灯が少ない。
人通りも少ない。
カイトは、ようやく足を緩めた。
ここなら、少し落ち着ける。
建物の壁には、古いポスター。
足元の石畳には、昨夜の雨の跡。
窓から見えるカフェには、数人の客が座っている。
その向こうのビルには、中立国の旗が掲げられていた。
……ここなら、誰も俺を知らない
そう思った瞬間、胸の奥が妙に軽くなった。
ARCLINEのパイロット。
レジスタンス。
帝国の補給線を叩く側。
そのどれでもない。
ここでは、ただの通行人。
カイトは、フードを深く被り直して、さらに奥へ歩いた。
*
気づけば、裏通りに入り込んでいた。
倉庫街を抜け、古い建物が並ぶ路地。
人通りは少ない。
壁には落書き。
ゴミ箱の横に、壊れた椅子が放置されている。
なぜここに来たのか、自分でもよく分からない。
ただ、輸送艇に戻る前に⸺もう少しだけ、この「どこでもない場所」にいたかった。
ビルとビルの隙間。
換気口から漏れる温い風。
自販機の白い光が、壁の剥げを無言で照らしている。
カイトは、その光の半分に立ち止まった。
ポケットから小銭を出して、自販機のボタンを押す。
ガタン、という音。
缶が落ちてくる。
冷たい。
カイトは缶を持ったまま、壁にもたれた。
頭上には、洗濯物を干すためのロープ。
その向こうに、細く切り取られた空。
……あすみは、今どこにいるんだろう
考えても仕方ないのに、ふと頭に浮かぶ。
ケイが言っていた。
「学校に通って、進路に悩んでる」と。
それなら⸺もう、俺のことなんて忘れてるかもしれない。
そう思うと、少しだけ楽になる。
同時に、胸の奥が痛む。
矛盾した感情が、行き場なく胸の中で渦巻いていた。
カイトは缶のタブを開けた。
プシュ、という小さな音。
一口飲む。
炭酸が喉を通る感覚。
甘い。
でも、味をちゃんと感じているかどうか分からない。
その時⸺
背後に、気配が立った。
*
カイトの全身が、一瞬で強張った。
足音ではない。
でも、確かに誰かがいる。
視線を感じる。
足の裏が床に貼りついて、呼吸だけが遅れる。
カイトは缶を持ったまま、ゆっくりと振り返った。
路地の入口に、一人の青年が立っていた。
薄茶の髪が、昔より金に寄った色。
茶色の目も、薄茶色に変わっていた。
その目が、まっすぐこちらを捉えている。
カイトの心臓が、一度だけ大きく跳ねた。
……嘘だろ
喉が乾く。
息が引っかかる。
まずい。
誰かに見つかるかもしれないとは思っていた。
でも⸺セリだけは、ありえない。
セリは、こちらを見たまま動かない。
その目は、昔と同じ、真っ直ぐすぎる目だった。
「……カイトだろ」
低い声。
名前を呼ぶだけで、五年分の距離が一歩で埋まる。
カイトは、缶を持ったまま立ち尽くしていた。
何か言わなければ。
でも、何を言えばいい?
喉の奥が渇いて、声が出ない。
……なんで、セリがここに
頭の中が真っ白になる。
でも、口からは自然に言葉が出た。
「……久しぶり」
それだけ。
それだけしか、渇いた喉の奥から出てこなかった。
*
次の瞬間、距離が消える。
セリが二歩を一気に詰めて、カイトの肩を掴んだ。
強い力じゃないのに、逃げ道がなくなる掴み方だった。
引き寄せられて、胸と胸がぶつかる距離。
カイトは、手に持っていた缶を落としそうになった。
セリの指が、肩に食い込んでくる。
「……生きててよかった」
その言い方が、胸の奥を一発で殴る。
カイトは、少しだけ目を伏せた。
……そんな顔するな
心の中で、誰にも聞こえない声が叫ぶ。
そんな、安心したみたいな顔するな。
俺は⸺もう、お前たちのいる場所には戻れない。
視界の端で、路地の湿気が白く揺れている気がした。
VR教室の白い乾いた匂いが、一瞬だけ蘇る。
机の並び。椅子の軋み。隣の席。
セリの隣で、あすみが笑っていた光景が、一瞬だけ浮かんでくる。
口の端が引きつる。
フードに隠れて、セリには届かない。
その瞬間、言うつもりのない言葉が、勝手に落ちた。
「……俺、いまARCLINEにいる」
口から出た瞬間、自分で驚いた。
……誰にも言わないと決めていた
決めていたのに、セリの前だと”決めた自分”がほどける。
知っておいて欲しかった。
そう思う自分が、確かにそこにいた。
*
セリの視線が、フードの影を一度だけ探る、眉がぴくりと跳ねた。
カイトは、ゆっくりと続けた。
「レジスタンス。……パイロットやってる」
空気が、すっと冷えた。
路地の外のざわめきが、遠のいていく。
セリの指が、肩を掴む力を強める。
……怒ってる
分かっていた。
分かっていて、それでも言った。
カイトは、視線を横に滑らせた。
壁の落書き。
ゴミ箱の影。
どこでもいいから、セリの目を見ないで済む場所を探す。
「……あすみには、ここで会った事、絶対に言うなよ」
一拍も置かずに続けた瞬間⸺
セリの手が、肩から胸ぐらに移った。
ぐしゃっと布地が握りしめられる。
怒鳴り声が、耳の横でぶつけられる。
その言葉は、聞こえているのに、頭の中で意味にならない。
カイトは、ようやくセリの手首を片手で掴んだ。
強くは握らない。
それでも、「これ以上は引かない」という線だけは、はっきりさせた。
「……分かってるよ」
低く、小さく。
けれど、迷いのない声だった。
セリの目が、さらに鋭くなる。
その目を見て⸺カイトは、言わなければならないと思った。
言わなければ、セリは納得しない。
言わなければ、セリはあすみに伝えてしまう。
カイトは、ほんの一瞬だけセリの目を真正面から捉えた。
「……うちの親父がやったんだよ」
その言葉を吐き出した瞬間、胸の奥が締め付けられた。
「…あすみの母親が死んだのは俺の父親のせいなんだよ」
路地の奥で、換気扇がくぐもった音を立てて回っている。
それ以外の音が、全部消えた気がした。
セリの動きが、止まる。瞬きの回数だけが、不自然に増える。
カイトは、胸ぐらを掴まれたまま、ほんの少しだけ視線を落とした。
「だから、俺は連れてかれた。人質だ」
淡々と言う。
感情を込めたら、全部崩れてしまいそうだった。
*
セリが何か言う。
その声は、聞こえているのに、意味が頭に入ってこない。
カイトの指が、セリの手首を握る力を少しだけ強める。
短い沈黙。
……言えるわけがない
あすみの顔が、頭の中に浮かぶ。
教室で笑っていた横顔。
「軍なんて嫌い」と言っていた声。
その理由を、俺は知ってしまった。
そして⸺その理由を作ったのが、自分の父親だと知ってしまった。
セリの声が、また聞こえてくる。
今度は、意味が分かった。
「……あすみ、今SKYに乗ってる。次は西方だ、最前線。分かるか?」
その言葉が、胸に突き刺さる。
カイトの目が、大きく見開かれる。
……SKYに
一瞬だけ⸺本当に一瞬だけ、昔の自分が浮かんで、すぐに押し殺された。
視線がふっと伏せられる。
「…今更だな」
自分に叩きつけるみたいに言う。
胸の奥が、ぎゅっと締め付けられた。
……あいつが、SKYに
……前線に
……俺がいなくなったから
全部、繋がってしまう。
全部、俺のせいだ。
セリが何か言いかけた。
でも、その言葉を遮るように、カイトは言った。
「…言うなよ、絶対に」
少しだけ顔を上げる。
目の奥の影は、そのままだ。
セリの指から、力が抜けていく。
カイトがそっと、その手を外した。
*
セリが、壁にもたれかかったまま、ずるずるとしゃがみ込む。
背中に、コンクリートの冷たさ。
カイトは、立ったまま、セリを見下ろしていた。
……ごめん
でも、その言葉は、もう軽すぎる。
しゃがみ込んだまま、セリが言う。
顔は上げない。
声だけが、上向きに投げられる。
「……あいつ、ずっと待ってるぞ」
その言葉が、胸の奥に刺さる。
「知ってるよ」
即答。
でも、目線は合わせない。
ほんの少しだけ横を向いて、路地の奥の暗がりを見る。
……待ってる、って
……何を、待ってるんだろう
……もう、俺は戻れないのに
カイトは、短い沈黙の後⸺ようやくセリの方を見下ろした。
自分から距離を詰めようともしない。
半歩分の遠さを保ったまま。
「…ごめんな」
その言葉は、妙に軽くて、妙に重くて。
セリは、膝に肘を乗せて、拳で額を押さえた。
指先がわずかに震えている。
カイトは、それを見ていた。
……言いたいことは、まだある
……でも、言葉にしたら、全部が崩れる
カイトは、小さく息を吐いた。
足音は、一歩、二歩。
セリのすぐ脇をかすめるようにして、路地を抜けていく。
すれ違いざま、袖がかすかに触れた気がした。
……振り返ったら、たぶん、止まってしまう
……止まったら、たぶん、もう歩けなくなる
だから、振り返らない。
背中に、セリの視線を感じる。
息を吸う音がした。名前を呼ぶための呼吸だった。
何か言いかけて、飲み込んだ気配。
……セリも、まだ何か言いたいんだろう
でも、どちらも、もう振り返らない。
変わってしまった全てを、路地に置いていく。
置いていけないものまで。
*
通りに出ると、陽射しが眩しかった。
カイトは、フードを深く被り直した。
人混みの喧騒が、耳に流れ込んでくる。
観光客の笑い声。
露店の呼び込み。
どこかの店から流れる音楽。
さっきまでと同じ、中立地の昼の音だ。
でも、全部が遠くに聞こえる。
カイトは歩き出した。
港の方向へ。輸送艇の待つ場所へ。
足が、勝手に前に出る。
一歩、一歩。
石畳を踏みしめる感覚だけが、やけにはっきりしていた。
*
桟橋が見えた。
ARCLINEの輸送艇が、薄暗い岸壁に停泊している。
タラップの上に、見慣れた仲間の姿。
「おーい、カイト! 遅えぞ」
ニコが手を振る。
カイトは、短く手を上げて返した。
金属の階段が、ブーツの重みを素直に響かせた。
*
船室に戻ると、カイトはベッドに腰を下ろした。
狭い部屋。
壁にはパイプと配線。
ベッドの端からは、かすかにオイルと金属の匂いがする。
カイトは、フードを外した。
乱れた前髪を指で払う。
……乗ってるのか……SKYに……
セリの声が、路地裏の残響と一緒に頭の中でくり返される。
西方。前線。
言葉を並べるたびに、喉の奥がざらついた。
……なんでだよ
カイトは、ベッドの端に肘をついた。
頭を両手で抱える。
……あんなに、軍は嫌いだって
床に伸ばした足を組み替える。
輸送艇のエンジンが始動する振動が、床伝いにじわじわと上がってきた。
……ここに残ると決めたのは自分だ
自分で口に出した言葉が、今さらながら胸の内側をもう一度抉る。
それでも⸺と、カイトは奥歯を噛んだ。
……言えない。あすみには
自分の首に巻き付いているその「線」の存在を、改めて指でなぞるみたいに意識する。
今いる場所は、レジスタンス ARCLINE。
帝国の補給線を断ち続ける、小さな牙。
あいつらと同じ地図の上で、違う線を引いている。
「⸺各員、ブリーフィングルームに集合」
船内スピーカーが、短く呼び出しを告げた。
次の作戦の説明だろう。またどこかの補給列を叩きに行く。
帝国のどこかの線を、少しだけ削り取りに行く。
カイトは、ベッドの端から腰を上げた。
低い天井に頭をぶつけないように少し身をかがめ、通路へ出る。
金属の床板が、ブーツの重みを反響させる。
俺は今、ARCLINEにいる。
帝国の補給線を削り続ける側にいる。
あすみは、連合軍にいる。
前線で、SKYに乗っている。
……それでも
カイトは、思考を止めた。
今は、次の一点を撃ち抜くことだけを考える。
狭いブリーフィングルームの扉を押し開けた瞬間、
アルクトリの路地裏の湿った空気は、ようやく船の空気に塗り替えられた。
それでも、胸の奥の硬さだけは、残ったままだった。
更新時間ずれました。
次回更新は2/1 0時頃になります。




