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SKY  作者: RUI


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42/44

Sky42-届かない空-

 


 戦闘は、まだ続いていた。


 カイトのHUDには、帝国本隊の位置が赤い点で表示されている。難民船団の三隻は、まだ海上を進んでいる。


 そして――


 爆ぜた偵察機の残骸が、雲の切れ間を黒く染めて落ちていく。金属の破片が空気を裂きながら回転し、太陽光を不規則に反射させる。やがて、薄く途切れた雲の層の向こうへ消えていった。


 くぐもった爆発音が、ワンテンポ遅れて響く。


 カイトのコクピットに、その振動が微かに伝わってくる。計器盤が小さく震え、ヘルメットの内側で自分の呼吸音が大きく聞こえる。


『――敵本隊、針路変化。海側へわずかに偏向』


 コアシップのブリッジ。情報席のコンソールに座ったミナが、淡々とした声で読み上げる。彼女の横顔は無表情に見えるが、視線だけが忙しく画面の上を走っている。指先がキーボードを叩く音が、通信越しに微かに聞こえる。


『難民船団の直進ルートからは外れてる。でも、このままだと”かすめる”』


「かすめる、で済ませるつもりはねぇだろ」


 ヘルメット越し、フォックス――サジの鼻にかかった声が、通信回線に割り込む。軽口の形はしているのに、言葉の奥の色は低く硬い。


「ベクター」


 シェイド――ウィリスが、短くカイトのコードネームを呼んだ。機体ごと僅かにロールさせながら、彼はカイトの機影を視界の端で捉える。


「ここからどう切る」


 カイトは、スロットルを一度だけ微調整しながら、HUDのマップを俯瞰表示に切り替えた。青い海面を示すグリッド線の上に、白い点と赤い点が散らばっている。


 難民船団三隻。その少し先、斜め上をかすめるように伸びる、帝国本隊の推定航路。フォックスが撒いたデコイに、確かに針路は引き寄せられている。


 けれど――完全には、外れていない。


 一番うしろの一隻。速度の乗っていない、古い輸送船。


 あれが、引っかかる。


『Strike Wing、判断はそっちに任せる』


 低く掠れたケイの声が、ブリッジから全機へ落ちてくる。


『こっちでできるのは、連合と”衝突しない位置”を維持することだけだ』


 帝国と連合、その間の細い隙間を、沈まないように泳ぐしかないレジスタンス。補給線も、逃げ道も、自分たちで引かなきゃいけない。


「……シェイド」


 カイトは、一度息を飲み込んでから、静かに口を開いた。喉が少しだけ乾いている。唾を飲み込む音が、自分の耳に妙に大きく響いた。


「本隊の真横に出る。こっちの存在に気づかせて、進路を海側に押しやる」


 ウィリスの機体が、わずかに姿勢を変える。モニター越しに、彼の機体の翼端が光を弾いて光るのが見えた。


「やれるか」


「やる」


 短く答えながら、カイトは自分の喉がもう一度乾くのを感じた。そのために、ここにいる。言葉にならなかった部分は、飲み込んだまま。


「フォックスは難民船団の”影”に回ってくれ。誰か抜けたらすぐ拾えるように」


「生け捕り係かよ」


 サジが肩をすくめる仕草まで想像できる声で笑う。


「……了解」


「クラゲ、幕をもう一段濃くできる?」


 カイトが問いかけると、電子戦機のコクピットで、リアが椅子の背にもたれ直した。


『できるけど、私らの位置もバレやすくなるよ?』


「それでもいい。こっちを”敵”として認識してくれた方がいい」


 沈むのが、船じゃなくて自分たちで済むなら――。


「ベクター」


 ウィリスが、ほんの一瞬だけ間を置いてから言う。モニターの隅で、最後尾の船を示すマーカーを確認しながら。


「最後尾は、俺ができるだけ見る。……でも、全部は無理かもしれん」


「分かってる」


 カイトは、ヘルメットの内側で眉をひそめた。額に汗が滲んでいるのが分かる。


 全部は――最初から無理だ。


 それでも、何もしないで見ているよりはマシだ。


『ミナ、本隊位置、更新』


 ケイの声が飛ぶ。


『送る。……数は十五。先頭四、攻撃機。その後ろ、護衛戦闘機』


 ミナが手早くキーを叩きながら、即座に数を返した。通信越しに、彼女の指がキーを叩く速度が上がっているのが分かる。


「攻撃機だけでも、こっち向けさせる」


 カイトはそう言うと、スロットルをぐっと押し込み、機体を雲の上へと浮上させる。


 視界が、一瞬、乳白色に染まる。冷たい雲の粒子が機体表面を叩く音が、コクピット内に微かに響く。湿った空気が、機体の隙間から入り込んでくる。


 雲を突き抜けた先、鈍い銀色の機体群が雲海を割って現れた。


 帝国の紋章。規則正しく組まれたフォーメーション。灰色の装甲板が、太陽光を冷たく反射している。


 ――見せてやる。


 誘うように、真正面に踊り出る。わざと、少しだけ早いスピードでかすめていく。


 敵編隊の先頭が、訝しむようにわずかに揺れた。機体の角度が微妙に変わり、キャノピーの反射が一瞬だけこちらを向く。


『敵先頭機、進路変更。……こっちを追う』


 ミナの声が、わずかに早口になる。


『攻撃機三がベクター方向へ。護衛はそのまま船団側』


「中途半端が、一番タチ悪ぃな」


 サジが、歯噛みするように小さく毒づいた。


「フォックス、護衛の線、切れるか」


 ウィリスが問う。


「やってみるよ。……死なない範囲でな」


 サジは短く息を吐き、海面ギリギリに機体を潜り込ませた。青い海面が、機体の下でぼやけて流れる。白い波頭が、規則的に並んでいる。難民船団の下へと滑り込み、その”影”にぴたりと張り付く。


 雲の上では、カイトが先頭の攻撃機とすれ違うように飛んでいた。


 レーダー上で交差する軌跡。敵の銃口が、じわりとこちらへ向きを変える。金属の鈍い光沢が、距離を詰めるたびに大きく見えてくる。


 ――こっち向け。


 わざと、少しだけ発射タイミングをずらし、“撃てそうで当たらない距離”に自分を置く。敵の視界と怒りを、自分に縫いつけるために。


「ベクター、遊びすぎるなよ」


 ウィリスの低い声がかぶさる。


「そっち三機全部引き受ける気なら、なおさら落ちるな」


「言われなくても」


 カイトは短く返し、機体を雲間へと引きずり込んだ。


 雲の中。真っ白な視界の中で、センサーと、自分の勘だけが頼りになる。湿った冷気が機体を包み込む。前も後ろも分からない。ただHUDの線だけが、敵の位置を示している。


 音もなく迫る敵機の軌跡を、HUDの線と身体感覚で追う。撃って、避けて、また引きつけて――。


 重力が体を押しつぶす。シートベルトが肩に食い込む。呼吸が浅くなる。


 その間にも。


『最後尾、被弾』


 ミナの声が、ほんのわずか震えた。


『難民船団最後尾、機関部に直撃。速度低下』


「クソ……!」


 フォックスが、舌打ちする音を隠しもせず叫ぶ。


「シェイド、すぐ後ろに――」


「見えてる」


 ウィリスの機体が雲を割って飛び出す。雲を抜けた下、海面すれすれで、輸送船の後部が黒い煙を上げていた。


 白い波の上に、鉄の塊が重く傾ぐ。デッキの上で、小さな人影が何かを抱えて走っている。

 その横で、船体の一部が火を噴いた。


 その上空を、帝国の護衛戦闘機がかすめていった。灰色の翼が、冷たく光を弾く。

 エンジン音が、空気を引き裂いて通り過ぎる。


 ウィリスは、舵を切る迷いを持たなかった。


「フォックス、前に出ろ。船団の頭を守れ」


「でも――」


「いいから行け。ここは俺が見る」


 押し返すような強さで言い切る声。


 カイトの耳に、その短い会話が鮮明に届く。


 ――カバーに入るか、全体を見るか。


 自分がこの場から離れて、最後尾に張り付けば。あの船は、少しは長く持つかもしれない。


 その間に――先頭の二隻が、本隊の射程に入るかもしれない。


 全部を守れるほど、俺たちは多くない。


 レーダーに映る点の数。自分たちの機数。リアの電子幕。ミナの情報。


 全部を一瞬で計算して、答えは一つしか出てこなかった。


「……全体を優先する」


 カイトは、自分の声がわずかに掠れるのを感じた。喉の奥が、きゅっと締まる。


「フォックス、前を頼む」


「了解」


 フォックスの機影が、煙を吐きながら進む先頭船の真上に躍り出る。


 シェイドは、最後尾の上空で機体を翻し、迫る護衛機を一機、また一機と削ぎ落としていく。


『敵攻撃機三、ベクター側に固定。護衛の一部は撤退開始』


 ミナの声が、少しだけ安堵を含んだ。


 カイトは、攻撃機の一機を落としながら、ほんの一瞬だけ下を見た。


 傾いた輸送船。デッキの上で、小さな影が何かを抱えて走っているのが見える。

 子供を抱えた女性だろうか。その後ろを、別の影が追いかけている。


 そのすぐ横で、鉄の板が膨らむように歪んだ。オレンジ色の光が、船体の内側から漏れ出す。


 間に合わない。


 そう分かっていても、目を逸らせなかった。


「ベクター、上だ!」


 ウィリスの警告が飛ぶ。


 カイトは反射的にスティックを引いた。直後、さっきまで自分がいた空間を、赤い光が横切る。


 雲海が眩しく焼かれ、白い光の筋が残った。熱波が機体を揺らす。警告音が、コクピット内に響く。


 船が――


 その先を想像する余裕は、もうなかった。


 敵は、彼らを”敵”としてはっきり認識した。


 それだけは、確かだった。


 *


 戦闘が終わったのは、それから二十分後だった。


 帝国本隊は、損害を受けたあと針路を反転し、遠ざかっていく。難民船団の二隻は、かろうじて指定ポイントまで逃げ切った。


 最後尾の一隻は――途中で、海に沈んだ。


 *


 ARCLINE旗艦のブリッジの空気は、妙に静かだった。


 低く唸るエンジン音と、コンソールの小さな電子音だけが、一定のリズムで響いている。

 換気扇が回る音。誰かが椅子に座り直す音。キーボードを叩く音。


 正面のモニターには、まだ戦況ログが流れていた。白い文字が、黒い背景の上を規則的に流れていく。


 数値と、短い文。


 《護衛対象:民間船団3/到達2/損失1》

 《生存者:一部救助 救助数 確認中》


 情報席のミナは、コンソールの前から動かない。

 細い指でスクロールを止め、じっと画面を見つめていた。椅子に座ったまま、背筋だけはまっすぐに伸びている。


「……ミナ」


 背後のオペレーター席から、ニコが声をかける。肘を椅子の背に引っかけた、いつもの崩れた姿勢のまま、視線だけを彼女に向けた。


「帝国側の反応は?」


「一時撤退。難民船団を追う動きは、今のところない」


 ミナは、淡々とした声のまま答える。指先が、無意識にコンソールの端を叩いている。


「ARCLINE側の損害は?」


「機体軽微損傷数機。人的死者ゼロ。負傷者は――」


 彼女は、ちらりと横のパネルに視線を投げた。


「医務室のログだと、重傷二。あとは軽傷」


「……そうか」


 ニコは、椅子にもたれた背を少しだけ深くして、天井を見上げた。白い天井のパネルが、蛍光灯の光を反射している。


 救えた数と、救えなかった数。数字にすれば、ただの差分に過ぎない。


「ログ、まとめておいてくれ。後でケイに回す」


「了解」


 ミナは短く答え、画面の隅に小さく保存マークを点灯させた。青い光が一瞬だけ強く光り、すぐに消える。


 その一瞬だけ、彼女の唇が、ほとんど分からないほど僅かに歪む。


 *


 医務室の前の廊下は、消毒液と鉄の匂いが混ざっていた。


 白い蛍光灯が、廊下全体を冷たく照らしている。床のタイルは灰色で、所々に黒い擦り傷がついている。壁は白く塗装されているが、角の部分だけ少しだけ塗装が剥げて、下の金属が見えている。


 担架の車輪が、床をかすめる音。ゴムのタイヤが金属の床を転がる、規則的な音。誰かの靴音。遠くで聞こえる機械のビープ音。


 白い照明に照らされた狭い通路の壁にもたれかかるように、カイトは立っていた。


 右肩の奥に、鈍い痛みがある。シートに叩きつけられた時に打ったらしい。ついさっきまで医務室の中で、サユリに包帯を巻かれていた。


「軽度の振動外傷、あと打撲。寝ろ」


 そう言われて、「まだいける」と返したら、


「寝ないと次で死ぬ」


 と、淡々と釘を刺されたところだ。


 無理しなきゃ、間に合わないことの方が、多いのに。


 心の中でだけ、形にならない反論を転がす。


「そこ、邪魔」


 背後から、サユリがステンレスのカートを押しながら近づいてきた。白衣の袖をまくり上げた腕で、器具のトレイを押さえながら、ちらりともこちらを見ずに言う。金属の器具が、トレイの中でカチャカチャと音を立てている。


「悪い」


 カイトは、壁から少し身を離して道を空けた。冷たい金属の壁から離れると、背中に残っていた冷たさが、ゆっくりと消えていく。


 その時、ちょうど、反対側の角から担架が一つ、押されてきた。


 薄い毛布の下で、小さな体がかすかに動く。毛布は軍支給の灰色で、端が少しだけほつれている。


 毛布の端から覗く腕は、細くて、あざだらけだった。紫色の打撲痕が、肘から手首にかけて広がっている。皮膚は土で汚れていて、爪の間に黒いものが詰まっている。


 担架を押しているのは、煤で汚れた民間服の男と、ARCLINEのクルーが一人。二人とも、疲れ切った顔で、それでも慎重に担架を運んでいる。靴底が床を擦る音が、廊下に響く。


 彼らは、カイトに一瞬だけ視線を向けてから、すぐに医務室の中へと消えていく――その直前。


 担架の上の少年が、ふと目を開けた。


 意識は、はっきりしていない。焦点の合わない視線が、天井を彷徨い――そして、偶然のようにカイトの方をかすめる。


 黒に近い髪。少しだけ赤みの混じった瞳。


 あすみの目を、ほんの少しだけ濃くしたような色。


 ――オルディア。


 胸の奥が、きゅっと縮まった。


 少年の瞳は、すぐにまたどこかを見失う。薄いまぶたが重たげに閉じ、担架はそのまま医務室の内側へと滑り込んでいった。


 自動ドアが、静かに閉まる。シューッという空気の音がして、それから金属のロックがカチャリと鳴る。


 音がひとつ、減る。


 カイトは、しばらくその扉を見つめて立ち尽くしていた。白い扉の表面に、小さな傷がいくつもついている。誰かが何かをぶつけた跡だろうか。


 守れた二隻。沈んだ一隻。その中から引き上げられた、生き残りの一人。


 ――全部は、守れない。


 あの日。金属の部屋で、ケイに叩きつけられた現実。


 ここにいることを、選んだ自分。


 どれだけ線を読み、どれだけ先回りしても――救い損ねる線は、必ず残る。


 それでも。


 カイトは、ぎゅっと右手を握りこんだ。


 包帯の下で、擦りむいた皮膚がきしむ。布の繊維が、傷口を刺激する。


 だからって、何もしない理由にはならない。


 目を閉じて、ゆっくりと息を吐く。冷たい空気が、喉を通って肺に入っていく。


 頭の中に、一瞬だけ、VRの教室で笑っていた少女の横顔が浮かんだ。


 その像を、意識的に切り離す。


 あいつは、あいつの空で飛ぶ。


 そう決めたはずだ。


 ここは、自分の空だ。


 カイトは、医務室の扉から視線を外し、重いブーツを一歩前に出した。

 鈍い足音が、廊下の先へ続いていく。金属の床が、靴底の下で冷たく硬い。


 *


 甲板は、夜でもうっすら明るかった。


 頭上には分厚い装甲板、その向こうにあるはずの星空はほとんど見えない。代わりに、遠くの宙域でまだくすぶっている爆光の名残だけが、鈍い橙色となって薄く反射していた。爆光は、ゆっくりと明滅を繰り返している。


 床を伝ってくる低い振動音。エンジンの鼓動と、循環空調の風の音。金属が軋む音。どこかで水が流れる音。


 カイトは、手すりに片肘をついて、誰もいない宙の暗さをぼんやりと眺めていた。手すりの金属が、冷たい。冷たさが、肘から腕に伝わってくる。


 風が吹いている。循環空調の風ではなく、外から入り込んでくる風。冷たくて、少しだけ湿っている。頬を撫でて、髪を揺らす。


 ――眠れないよな、そりゃ。


 さっきまでの戦闘の映像が、目を閉じなくても脳裏に浮かぶ。


 沈んだ船。助け損ねた影。医務室前の廊下で見た、あの少年の目の色。


 あいつと、少しだけ似てた。


 胸の奥が、じわりと痛む。


 そこまで考えて、カイトは小さく息を吐いた。白い息が、目の前で揺れて消える。


 その時だった。


 甲板へ続くハッチが、きぃ、と金属音を立てて開く。


 振り返る前に、足音が聞こえた。ブーツが金属床を踏む、ゆっくりしたリズム。重たい靴底が、規則的に床を叩く音。


「――よぉ。起きてたか」


 聞き慣れた低い声に、カイトは肩越しに顔を向けた。


 古賀ケイが、そこにいた。


 いつもの地味なジャケット。片手には、どこから持ってきたのかマグカップ。

 湯気の代わりに、冷えた空気の中に白い気配が揺れている。マグカップの表面に、わずかな結露がついている。


「……眠れなくて」


 カイトは、言い訳みたいに呟いた。


 ケイは「だろうな」と短く言って、カイトの隣、少し離れた手すりに背中を預ける。

 マグを手すりに置き、腕を組んだ。ジャケットの布が擦れる音がする。


 しばらくの間、二人とも何も喋らなかった。


 エンジン音だけが、一定のリズムで響いている。遠くで、誰かの足音が聞こえる。

 金属の扉が開く音。閉まる音。


「お前」


 しばらくして、ケイがふいに口を開いた。


「でっかくなったなぁ」


「……は?」


 カイトは思わず顔をしかめる。


「昔はこーんな、豆みたいだったのによ」


 ケイは片手を腰のあたりまで下げて、適当な高さを示した。指先が、どう見ても盛っている。


「豆って言うな」


「いやぁ、豆だったろ。泣き虫豆ボウル」


「そんな名前で呼ばれた覚えはねぇよ」


 即座に返すと、ケイはふっと笑った。


 ほんの少しだけ、戦場の気配から外れた笑いだった。口角だけが上がって、目元が少しだけ緩む。


 また、短い沈黙。


 ケイは腕を組んだまま、視線だけを宙の方へ向ける。遠くの爆光が、彼の横顔を薄く照らしている。


「……ひどいやつだって、思ってるか?」


 唐突に落とされた問いに、カイトは瞬きをした。


「……なにが」


「軍からも家族からも逃げたと思ったらだ」


 ケイは、表情を変えずに言葉を続ける。


「なにも知らないガキを攫って、人質にして。それでも娘の平凡な幸せは守りたいって……自分勝手だよなぁ」


 声は、どこか他人事みたいに乾いていた。


 責めてくれと言っているわけでもなく。許してくれと乞うわけでもなく。


 ただ、自分のやったことの線を、事実として並べているだけの声音。


 カイトは、手すりから肘を外し、両手で握った。


 冷たい金属の感触が、掌に食い込む。ザラザラした表面が、皮膚を刺激する。


「……勝手だって、思ってないよ」


 少しだけ間を置いてから、そう答えた。


 ケイがわずかに眉を動かす。


「守りたいって気持ちは、俺も……分かるから」


 あの教室。あのコロニー。VRの箱庭みたいな青春。


 全部、誰かが「守ろうとしていた」から存在していたものだと、今なら分かる。


 それが正しいやり方だったかどうかは、別として。


「だからって、やったことが消えるわけじゃねぇけどな」


 ケイがぼそっと付け足す。


「お前を攫ったのも、ノーザンでノエルを乗せてたのも。全部、自分の都合で振ったサイコロの結果だ」


 その言い方が、あまりにも投げやりで。でも、妙にまっすぐで。


 カイトは、少しだけ目を細めた。


「……それでも」


「ん?」


「それでも、あいつは今、生きてる」


 言葉にした瞬間、胸の奥がちくりと痛んだ。


 どこでどう暮らしているのかも、具体的には知らない。

 それでも、ケイの口から「死んだ」とは一度も聞かされていない。


 だから――生きていると信じるしかない。


「それを守るために、こんだけ馬鹿やってんなら。少なくとも”ただのクソ野郎”とは思ってない」


「……お前の評価は、けっこう甘いな」


 ケイが小さく笑う。


「じゃあ、こう言ったらどうだ」


 肘で手すりを軽く叩きながら、わずかに視線をカイトへ向ける。手すりの金属が、コンコンと低い音を立てる。


「いざとなったら、お前を帝国との交渉材料に使うぞ」


 声には、冗談みたいな抑揚はない。


 本気とも冗談ともつかない、低い調子。


 カイトは、一瞬だけ目を伏せた。


 あの夜。金属の部屋。「人質だ」と言われたあの日の感覚が、微かに蘇る。冷たい金属の床。暗い照明。ケイの低い声。


 ――この人は。


 人質にすると、ちゃんと言えるくせに。


 たぶん、本当にその時が来たら、最後の一線では躊躇うんだろう、と思う。


 それでも。


「……覚悟はできてるよ」


 カイトは、正面を向いたまま答えた。


「最初から、そういう場所に立つって言ってここにいるから」


 この艦に。この組織に。ケイの側に。


 自分の足で乗り込んだ以上、「知らなかった」はもう使えない。


 ケイは、しばらくカイトの横顔を見ていた。


 暗がりでも分かるくらいに目を細めて、それからふっと視線を外す。


「……そうか」


 短く、それだけ言った。


 マグカップを片手でつかみ、そのまま背を向ける。カップの中の液体が、わずかに揺れる。


「じゃあ、せめて寝ろ」


 歩き出しながら、ケイは背中越しに続けた。


「寝ないで飛ぶやつは、誘拐犯としても隊長としても嫌いだ」


「どっちの肩書きで怒ってんだよ」


「さあな」


 答えになっていない答えを残して、ケイはハッチの方へ向かっていく。


 足音が遠ざかる。ブーツの音が、だんだん小さくなる。ハッチが開く音と、閉じる音。金属の扉が、重たく閉まる。


 そして、再びエンジンと空調だけの世界になった。


 カイトは、しばらくその背中が消えた方向を見つめていた。


 ゆっくりと、手すりから手を離す。手のひらに、金属の冷たさが残っている。


 この人は。


 胸の内側で、言葉が形になる。


 俺にも、あいつにも、同じくらい不器用だ。


 だからこそ――と、カイトは小さく息を吐いた。白い息が、また目の前で揺れて消える。


 だからこそ、この艦でなら、“ここにいる”って言えたんだろうな。


 戦場の残光が、装甲板の裏側をかすかに照らしている。鈍い橙色の光が、ゆっくりと明滅している。


 その薄い光を見上げながら、カイトはようやく、眠気の気配を少しだけ思い出した気がした。


 風が、また吹く。冷たい風が、頬を撫でて髪を揺らす。


 手すりから離れて、ハッチの方へ歩き出す。靴底が、金属の床を叩く。


 届かない空は、まだ遠い。


 でも、ここで飛び続ける。



次回更新は1/24 0時頃になります

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