Sky36-ARCLINEの空-
本作『SKY』は作者本人が小説家になろうにて連載・管理しています。無断転載・無断利用を禁じます。
甲板を伝ってくるエンジンのうなりは、ノーザンクロスのものより低い。
腹の底に響く周波数の違いを、カイトはもう聞き分けられるようになっていた。この艦の音は、どこか呼吸に似ている。吸って、吐いて、また吸う。眠らない艦の、眠らない肺。
ARCLINEのコアシップ《アークライン》、その第二格納庫の片隅で、カイトは自分のヴィーラの脚部にしゃがみ込み、装甲パネルの継ぎ目を指先でなぞっていた。爪の先に、ほんのわずかな段差が引っかかる。
「……ここ、まだ微妙にズレてる」
「皇王坊ちゃんは、微妙って言葉が好きだな」
頭上から、タミル・ホー整備長のぼやきが落ちてくる。油で黒ずんだつなぎに、無造作に束ねた白髪まじりの髪。レンチを片手に、機体の側面をトン、と叩いた。金属の短い残響が、格納庫の高い天井へ吸い込まれていく。
「安全基準内。文句あんなら、自分でバラして自分で組み立てな」
「文句じゃなくて、感想ですよ」
「感想で飛行時間が伸びるなら、みんな詩人になってる」
言い返しながらも、タミルは結局ジャッキを引きずってきて、機体の角度を微調整し始める。文句を言いながら手だけは動く。この整備長の言葉と手は、いつも別々の方向を向いていて、信用できるのは手のほうだった。
「壊すなよ、ボリー」
「分かってます」
「壊すなって言ってんだ。撃墜されて帰ってこないやつより、壊して帰ってくるやつのほうが腹立つんだよ」
「ひどい差別だな」
「差別じゃなくて現場の本音だ。お前の飛び方は、時々危なっかしいからな」
ぶっきらぼうな口調に、カイトは小さく笑った。
ボリー。
自分の、母方の姓。
ここでそう呼ばれるたびに、あの日、あの部屋の端末に並んでいた署名――ロナルド=オルディア二世という名が、遠くなる気がした。血の名ではなく、母が捨てなかったほうの名。油の匂いのする場所で呼ばれると、その名はちゃんと自分のものとして響いた。
「おーい、ボリー。整備長に絡んでる暇あったら、ブリーフィング行けよ」
格納庫の出入口のほうから、間の抜けた声が飛んできた。
振り向くと、オレンジ色のフライトジャケットを羽織ったサジが、片手をひらひらと振っていた。サジ・レンブラント。《Fox》のコールサインで呼ばれる、カイトより二つ三つ年上の元貨物船パイロットだ。
「先に行っててくれ。あと十分はかからない」
カイトが声を張ると、サジは首を傾けた。明るい髪に、格納庫の照明が反射する。
「十分もタミル様のご高説拝聴してたら、俺ら待ちくたびれて寝るぞ」
「寝てろよ」
「えっ、マジで? じゃあ本当に寝――」
「サジ」
機体の向こう側から、低い声がした。
長身で、パイロットスーツの袖を無造作にまくったスキンヘッドの男――ウィリス・フェルツが、サジを見ていた。浅黒い肌の中で、目だけが鋭い。元オルテア帝国軍。その経歴を知らなくても、あの目を見れば誰でも分かる。戦場の色は、除隊しても抜けない。影を宿したその目のせいか、ヴィーラに乗るとき、ウィリスは《Shade》と呼ばれていた。
「ブリーフィング、五分前だ」
「……わかってるよ。そんな怖い目で見るなって」
サジは両腕を首の後ろで組み直し、ウィリスのほうへ身体を向けた。それから思い出したように、カイトを振り返る。
「ボリー、あとで合流。今日のフォーメーション、また俺が囮らしいからさ、優しくしてな?」
言い残して、サジは格納庫を出ていった。オレンジの背中が扉の向こうに消えても、場の空気は軽いままだった。ああいう軽さは、才能だと思う。
「行け」
タミルがジャッキを外しながら、顎でドアをしゃくった。
「微妙なズレは直しとく。お前が生きて帰ってくる前提でな」
「頼みます」
カイトは立ち上がり、機体の脚元を一度だけ軽く叩いてから、格納庫を後にした。掌に、冷えた金属の感触が残った。
*
第一作戦室には、既に数人が集まっていた。
照明を落とした室内で、壁一面のスクリーンだけが明るい。海と陸と国境線が入り組んだ地図が、青白い光を人の顔に落としている。
「遅かったじゃない、ボリー」
コンソールに肘をついたまま、リア・シュナイダーが振り返った。
細身の身体にゆるいパーカー。ポニーテールの後れ毛の下、首元にはヘッドセットを引っかけたまま、足を椅子の脚に絡めて座っている。電子戦担当の女性パイロット。ふわふわと掴みどころのない座り方のくせに、海月というコールサインは、電子の海を漂って獲物を痺れさせる彼女の仕事ぶりから来ていた。
「整備長に捕まってた」
「ふーん。捕まってた、って言い方。今度タミルに伝えてあげようか?」
「やめてくれ」
「冗談。あの人、本気で怒るからね」
リアが肩をすくめると、その横で別のモニターに向かっていた女性が、静かにこちらを見た。
ミナ・オルソン。情報処理担当。夜の湖みたいに波の立たない目をしている。
「着席を。あと二分でリンク始めます」
簡潔な言葉に従い、カイトは自分の席に腰を下ろした。前方のスクリーンで、作戦地域が音もなく拡大されていく。
「じゃ、そろそろ始めようか」
天井のスピーカーから、あくび混じりの声が降ってきた。ニコ・ヴァレンテ。コアシップのオペレーター兼操舵士だ。だらしなく聞こえる声とは裏腹に、モニターの隅に映る指先は、信じられない速さでコンソールを走っている。
「本日のメニュー。一、帝国補給船団の監視。二、もしチャンスがあれば、ついでに嫌がらせ。以上」
「ざっくりしすぎてないか」
カイトが思わず突っ込むと、リアが吹き出した。
「詳細はこれから。ミナ、お願い」
促されて、ミナが新しいデータをスクリーンに展開する。
「対象は帝国軍第十七補給線。ここ――」
レーザーポインタの赤い点が、小国群と帝国領の境界付近で止まった。
「このルートを定期的に通過する輸送艦隊。通常は帝国本国から南方基地への物資搬送。最近、護衛艦の数がわずかに増えています」
「〝わずか〟だってさ。整備長と気が合いそうだな」
サジが隣で小声で言う。
「サジ、うるさい。黙ってください」
ミナが目を細めてサジを睨んだ。声の温度は一度も上がらないのに、室温だけが二度ほど下がった気がした。
「こわ」
リアが笑いながら、自分のコンソールを操作する。
「今回の任務は、〝見て、覚えて、帰る〟が基本。私は通信妨害と疑似信号発信を担当。ボリーとウィリスは、護衛の動きのパターンを見てきて。撃つのは、自分たちからは極力控えること。相手から撃ってきたら、まあ……各自判断で」
「了解」
ウィリスは、投影されたホログラムを見たまま短く答えた。
ニコが続ける。
「今日の主役はミナとリア。俺らはその護衛」
「護衛の護衛って、変な言い方だよな」
サジが椅子の背にもたれ、頭を掻いた。
「文句があるなら、ミナに勝てるくらい頭よくなってからにしなさい」
リアの返しに、サジは苦い顔で笑い、掻いていた手をそのまま挙手に変えた。
「はい、成長は諦めました」
短い笑いが弾けて、作戦室の暗がりに消えていく。
カイトは、ふと、昔の教室を思い出した。
誰かの冗談で笑いが起きて、先生が咳払いをして、それでも机の下では膝を突き合わせて笑いを堪えていた、あの狭い部屋。あの頃の自分は、この先に死があるなんて、少しも分かっていなかった。
いま、スクリーンの上で動く矢印は、その一本一本が、誰かの死に方と直接繋がっている。
それを知った上で、この椅子に座っている。
知った、と言い切れるほど慣れてはいない。矢印が一本増えるたび、胃の底がまだ冷える。この冷たさに慣れる日が来るのかどうか、カイトには分からなかった。
「質問は?」
ニコの声に、誰も手を挙げなかった。
「じゃ、解散。各自出撃準備」
「了解」
椅子が一斉に軋む音が、作戦室を満たした。
*
出撃準備区画へ向かう通路は、いつもと同じ金属の匂いがした。
艦の外側で宇宙がどれだけ静かでも、ここだけは常に人と機械の気配でざわついている。工具のぶつかる音、圧搾空気の抜ける音、誰かの短い笑い声。
「ボリー」
後ろから呼ばれて振り向くと、ウィリスがゆっくり歩いてきていた。急いでいないのに歩幅が大きいから、すぐ隣に並ばれる。
「さっきの、難民護衛の時のログ、見たぞ」
「また?」
「お前、やっぱり線読むのだけは天才だな」
褒めているのか呆れているのか分からない口調だった。
「〝だけ〟は余計です」
「他に褒めるとこが見つからないだけだ」
「ひどいな」
ウィリスが息を吐いた。笑ったのかもしれない。この男の笑いは、いつも呼吸と区別がつかない。
「前に出る癖は、少しマシになった」
熟練のパイロットに褒められて、悪い気はしなかった。カイトは込み上げる気恥ずかしさを、軽口で隠す。
「変に傷をつけたら、タミル整備長に殴られますからね」
「タミルは手は出さない。機体を雑に扱う奴に厳しいだけだ」
「そうですか?」
ウィリスが、歩く速度を落とした。
「少なくとも、お前がここにいることは、あいつも歓迎してる」
その言葉に、カイトはわずかに足を止めた。
「……何ですか、急に」
「いや」
ウィリスは前を向いたまま続ける。
「ここは軍隊じゃない。正義の味方ってわけでもない。ただ、自分でここを選んだやつしかいない場所だ」
カイトの顔から、気恥ずかしさが引いていった。
「知ってます」
半歩後ろで、ウィリスがカイトの横顔を見た。目元が、わずかに緩んでいる。
「たまに確認したくなるだけだ。お前がここにいると決めた時の顔と、今の顔が、ちゃんと繋がってるかどうか」
感傷で訊いているのではないことは、カイトにも分かっていた。迷いを抱えたまま飛ぶ者から、順に墜ちていく。ARCLINEに来てから、任務のたびにそれを見てきた。ウィリスの確認は、祈りではなく点検だ。そして点検してもらえるうちは、まだこの男の隊列の中にいるということだった。
カイトは息を吸った。
「大丈夫です」
「そうか」
ウィリスは、それ以上何も言わなかった。
*
出撃準備の喧騒の中、カイトはヘルメットを脇に抱え、格納庫の端の小さな窓に目を向けた。
分厚い強化ガラスの向こうに、星の光が滲んでいる。ガラスの厚みのぶんだけ歪んで、瞬きもせずに、ただ在る光。
アスミが今、どこで何をしているのか。あれからケイに聞いたことはない。聞けば、知ってしまう。知れば、行きたくなる。行けば、全部が崩れる。だから聞かない。その我慢の順番だけは、もう間違えないと決めていた。
いつか、同じ地図の上で線が交差する日が来るだろうか。
できれば、戦場なんて知らない場所で生きていてほしい。
自分がARCLINEにいる理由は、ただひとつ。アスミのいる場所にオルテアが近づく日を、少しでも遅らせるためだ。
「ボリー、行くぞー!」
サジの声が、格納庫の天井に跳ねる。
「了解。Shade、Fox、クラゲ、出撃準備完了。Vector、遅れないでください」
ミナの声が、スピーカー越しに格納庫へ響いた。
「了解」
カイトはヘルメットをかぶり、機体への梯子を上り始めた。一段ごとに、掌の中で梯子の冷たさが薄れていく。
ARCLINEの空は、今日も静かじゃない。
でも、その騒がしさごと――今の自分の現実として、受け入れていくしかなかった。
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