Sky35-言わない約束-
本作『SKY』は作者本人が小説家になろうにて連載・管理しています。無断転載・無断利用を禁じます。
金属の壁に跳ね返っていた鼓動が、ようやく自分の胸の内側へ戻ってきた。
ここにいる、と言い切ったあとも、しばらく誰も口を開かなかった。端末の白い光が、テーブルの縁に薄く溜まっている。空調の音は低く、一定だった。
カイトは乾いた喉を鳴らした。
「アスミは。アスミ・レイナーは」
言い切るより先に、ケイがわずかに目を伏せた。
「生きてる」
その一言だけで、背中から抜けかけていた力が戻った。
「ポッドからは抜けた。NTOの管轄下にいる」
「……どこに?」
「NTOの保護下にある生活圏だよ」
地名は出なかった。
「学校に通って、本を読んで、進路に頭を悩ませてる。そういう場所だ」
教室のざわめきが、耳の奥をかすめた。窓際の席。伏せた睫毛。ページをめくる細い指。
カイトは唇を噛んだ。
「戦場じゃないんだな」
ケイはまっすぐに見返した。
「少なくとも、今この瞬間、銃声の聞こえる場所にはいない。帝国の砲撃も届かない。NTOの監視網の内側だ」
胸の奥で固まっていたものが、ほんの少しだけほどけた。
よかった。そう思った、そのすぐあとだった。
「でも、あいつは狙われる」
安堵の表面に、薄い膜が降りた。カイトは顔を上げた。
「どういう意味だよ」
ケイはテーブルの端へ片手を置いた。
「ノエルの名字、覚えてるな」
「……ノエル・オルディアさん……」
「そうだ。俺の妻で、オルディア人。オルテアが標的にした《種》の一人だ」
オルディア。ニュースの中で、何度も聞いた名だった。拘束。移送。収容。画面の隅に流れる白い文字。
「オルディア人は、オルタイトと相性がいい」
ケイの声は変わらない。
「この世界で一番、あの石に“噛み合う”体質を持っている。だから」
そこで、短く舌打ちをした。
「ヴィーラに乗れば、あいつらにとっては“最高級の兵器”になる」
カイトは息を呑んだ。
ヴィーラ。その名は、ずっと空へ続くものだった。なのに、今は違う。
「だからオルテアは、オルディアを集めて実験台にしている。ノエルがそうだったようにな」
ノエルの名が、また胸を刺した。
「アスミも、ノエルと同じオルディア人だ」
一瞬、意味が追いつかなかった。適合テストの日の、アスミの横顔が浮かんだ。何を聞いても曖昧に笑い、すぐに話を逸らした。
「あいつがオルタイトに触れ、ヴィーラに乗れば、お前の父親にとって“価値のある資源”になる」
父親、という言葉に、頬がひきつった。
「帝国から見れば、“回収して兵器にしたいオルディア”」
ケイの視線が、わずかに下がる。
「NTOから見れば、“帝国にさらわれたとたん爆発する可能性のある爆弾”」
机の上に、見えない天秤が置かれたようだった。どちらにも、人間の姿はなかった。
「だから、あいつには何も考えずに、ただの学生でいてほしい。軍に入ることも選ばせたくはない」
最後の一文だけが、少し低くなった。カイトは拳を握った。爪の先が掌に食い込む。
「……なら、なんで……」
その先にあった言葉を、飲み込んだ。ここにいると決めたのは、自分だ。
ケイは何も言わず、短く息を吐いた。
「一つ、俺から条件がある。今後どこかで会うことがあっても、あいつには、今話したことを言うな」
カイトは顔を上げた。
「……今の全部……?」
「全部だ」
「お前の父親の名前も。皇王だったことも。ノエルの死に方も。連合の保護施設を襲って、お前を攫ったことも」
言葉が一つずつ、テーブルの上へ置かれていく。
「あいつを壊す情報は、俺が全部持っておく」
ケイはカイトを見なかった。端末の光だけが、その横顔の輪郭を削っていた。
「……なんで」
声が掠れた。
「アスミの母親を殺したのは、俺の……父親だろ」
父親という言葉は、まだ口の中で異物のままだった。
「知らないまま笑ってたのは、俺だけだ」
アスミは、軍なんて嫌いだと言っていた。その時、自分は笑っただろうか。何を返したのか、もう思い出せなかった。
「……知る権利とか、そういう話じゃねぇのかよ」
ケイは短く目を閉じた。
「そう思うなら、それでもいい」
睫毛の影が、頬に落ちた。
「“俺の父親が、お前の母親を殺した”って、今すぐ言いに行ってもいい」
胸の奥が狭くなる。
「――ただし、その瞬間、何が起きるかは分からない」
カイトは顔を上げた。
「今のアスミには、まだ受け止めきれない」
ケイの目は、カイトを通り越した先を見ていた。
「誰かの罪と、自分の人生を、器用に分けられる年齢じゃない」
何も返せなかった。自分でさえ、父親の罪と、自分の身体の境目を見失っている。アスミの顔が浮かんだ。
進路に悩み、伯母に気を遣い、友達と笑っていた。けれど家族のことになると、決まって少しだけ目を伏せた。
その目に、今の言葉が落ちていくところを想像した。喉が塞がった。
「俺は、あいつに全部ぶつける役はやらない」
ケイの声は静かだった。
「あいつを壊すのは、これからのアスミの一歩の重さだけで十分だ」
カイトは視線を落とした。言わないほうが楽だからではない。言えば、アスミがどんな顔をするのかを知ってしまったからだ。
「……言わねぇよ」
声は、自分にしか聞こえないほど小さかった。
「言えるわけねぇだろ、そんなの」
ケイは静かに頷いた。
「それでいい」
「俺が言わなくても、いつかどっかから漏れんだろ」
カイトは続けた。
「オルテアがどう崩れるか知らねぇけど、その時、あんたも俺も、たぶんそこにいる」
自分でも驚くほど、遠い先のことを話していた。
「その時までに……」
言葉を探した。
「アスミが、自分で選べるくらいには……」
そこで口を閉じた。
ケイは、わずかに目を細めた。
「それで十分だ。俺は、娘の歩幅を信じる」
歩幅。その言葉だけが、妙に長く残った。
「お前は、お前の道を歩け」
ケイは立ち上がった。
「ロナルド二世の息子としてじゃなく、《ARCLINE》のパイロットとして」
椅子の脚が床を擦り、乾いた音を立てた。カイトは、しばらくテーブルの木目を見つめていた。
何もかもを一度に抱えるには、まだ自分の中に場所が足りなかった。それでも、アスミは生きている。
その一点だけが、まだ手の中に残っていた。握った拳へ視線を落とし、そのまま見つめた。
もう会えない、あの笑顔が、閉じた指の内側に一瞬だけ浮かんだ気がした。
放課後に交わした約束は、もう昔の形のままでは戻らない。
金属の部屋の空気は冷たかった。けれど、握った掌の奥にだけ、消えきらない熱が残っていた。
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