Sky34-目の前の名前-
本作『SKY』は作者本人が小説家になろうにて連載・管理しています。無断転載・無断利用を禁じます。
静かな沈黙が、金属に囲まれた部屋の中へ重く落ちたままだった。壁に反響する自分の呼吸音だけが、妙に大きく耳へ戻ってくる。空調の低い駆動音さえ、今は遠く感じられた。
男はカイトを急かすこともなく、正面の椅子に腰を下ろしていた。深く刻まれた皺の奥にある目は、こちらの動揺を見透かしているようで、それでも何も問いかけてはこない。
「ケイ・レイナー」
やがて、男が名乗った。声は低く、余計な抑揚がない。
「レジスタンス組織《ARCLINE》の代表だ」
聞き慣れない単語の羅列に、カイトは瞬きをした。
「……レジスタンス……?」
アンがニュースに文句を言う時、たまに口にしていた言葉だった。帝国支配地域で、オルテア軍の補給線を荒らす連中。その程度のイメージしかない。NTOでも、オルテアでもない。教科書の外側にいるはずの人間たち。
「さっきまで、お前のポッドが置いてあった場所は、NTO統合軍の保護施設だ」
ケイは淡々と言葉をつないだ。
「お前たちが眠っていたVRポッドを“預かっておく”ための、倉庫みたいな場所だな」
NTO統合軍。聞き慣れたはずの単語が、今はひどく遠い場所のものに聞こえた。
「……NTOが……俺を……?」
「保護していた。建前ではな」
ケイの口元が、ほんのわずかに歪んだ。それが笑みなのか、皮肉なのか、カイトには分からなかった。
「俺たちは、そこを襲って、お前のポッドごと攫った」
襲った? 簡単に言うなよ――喉まで出かかった言葉が、乾いた息と一緒に引っかかった。カイトは膝の上で指を握り込む。
「なんで……俺を……」
問いは途中で細くなった。ケイはすぐには答えず、視線をテーブルの上へ落とした。そこには、小さな端末が一つ置かれていた。指先で軽く触れると、暗かった画面に薄い光が立ち上がる。
「時系列から話すと長い」
ケイの指が画面上を滑り、いくつかの項目を呼び出した。
「お前の体感では“昨日”かもしれんが、お前が寝た日から、こっちではそれなりに時間が経ってる」
カイトの心臓が、どくん、と嫌な音を立てた。
時間が飛んだという感覚は、ポッドの中で目覚めた瞬間から薄々あった。身体の重さも、知らない船内の匂いも、何もかもが昨日の続きではなかった。それでも、具体的な数字を聞くのが怖くて、まだ誰にも尋ねていない。
ケイは、その話題を深追いしなかった。
「どうせ、一遍に飲み込める話じゃない。だから、今のお前に必要な分だけ先に渡す」
端末の向きを変え、画面をカイトのほうへ押し出す。
軍の報告書に似た無機質なレイアウトだった。白い文字列が規則正しく並び、その中のいくつかが、否応なくカイトの目に飛び込んでくる。
ノーザン・コロニー第×研究区画。
証拠隠滅作戦。実験記録の廃棄。
――発令者:ロナルド=オルディア二世。
最後の行を見た瞬間、視界の焦点が合わなくなった。文字だけが白く浮かび、周囲の輪郭がぼやけていく。
「……だれ?……」
かすれた声が、自分のものとは思えなかった。
「お前の父親だ」
母の部屋で聞いた声が蘇る。
――あの人は、もういないから。
そう言った時の母は、窓の外を見たまま、こちらを振り返らなかった。
「……父さんは……死んだって……」
「死んでなんかいない」
ケイの声が、冷えた部屋の中へ静かに落ちた。
「オルディア二世。オルテア帝国で皇王の座についている男だ」
皇王。
教科書の中でしか見たことのない肩書きが、突然、現実の名前に結びついた。
ロナルド=オルディア二世。
オルテア帝国の頂点。そして、自分の父親。
身体がわずかに後ろへ引き、椅子の脚が床を擦って軋んだ。ケイは画面から視線を上げ、真っ直ぐカイトを見る。
「この命令で、俺の妻は死んだ」
抑えられた声の底に、ほんの一瞬だけ熱が宿った。
「ノエル・L・オルディア。オルディア人だ。帝国に“実験素材”として捕まって、人体実験の対象になった」
言葉が一つずつ、硬いもののように短く刻まれていく。
「その研究施設ごと、爆破された」
カイトの頭の中で、何かが折れた。
ノエル。
聞き覚えのある名前だった。アスミの家の写真立ての中で笑っていた人。伯母と三人で写っていた、優しそうな目をした女性。
あの人が実験台にされて、最後は施設ごと吹き飛ばされた。
その命令書に、父親という人物の名前が記されている。
――嘘だ。
「嘘だ」
口からこぼれた声は、自分でも驚くほど弱かった。
「父さんは……死んだって……ずっと……」
ケイは、同情も嘲りも浮かべずにカイトを見ていた。ただ、逃げ場のない事実だけを差し出している目だった。
それが、余計にきつかった。
「ノエル・L・オルディア」
ケイはもう一度、今度は一音ずつ確かめるようにはっきりとその名を告げた。
「お前がよく知ってる、アスミ・レイナーの母親だ」
胸の奥で、何かが派手な音を立てて崩れた。
教室で笑っていたアスミ。廊下で横に並んで歩いたアスミ。
「ちゃんと帰ってくるからな」と言った自分に、少し震えた声で「待ってるよ」と返したアスミ。
アスミが本来帰るはずだった場所を壊したのが、自分の父親。
胃の底から吐き気に似た感覚が込み上げた。呼吸が浅くなり、テーブルの端を掴もうと伸ばした指先が、わずかに届かず空を切った。
「お前は今、人質だ」
ケイの声が、崩れかけた意識を現実へ引き戻す。
「皇王の息子って札を、帝国の喉元に突きつけるための」
淡々とした言い方なのに、一言一言が鉛のように重かった。
カイトはゆっくり顔を上げた。喉がひどく乾いている。
「……じゃあ、俺を返して」
「返すことも、できなくはない」
ケイは遮らなかった。ただ、いくつかある選択肢の一つとして言葉を並べる。
「連合に渡して、“何も知らないまま眠っていた学生でした”って書類を整えることも、理屈の上ではできる」
ケイの指先が、端末の画面をトン、と軽く叩いた。乾いた音が、二人の間に落ちる。
「ここで見たものを全部忘れたふりをして、またどこかの保護施設で眠り直すこともな」
それは甘い逃げ道のようでいて、もう逃げ道ではなかった。
さっき見せられた名前も、数字も、写真の中で笑っていたノエルの顔も、頭から消えることはない。何も知らなかったふりなどできないことを、カイト自身が一番よく分かっていた。
「ここに残れば」
ケイは続けた。
「お前は《ARCLINE》の一員として、帝国を折る刃になる」
NTOの兵でもない。帝国の兵でもない。どちらの旗にも属さない、第三の場所。
「帰るか、ここにいるか」
ケイの声は静かだった。
「決めるのは、お前だ」
部屋の空気が張り詰めた。空調の音が低く唸り、端末の淡い光だけがカイトの手元を照らしている。
カイトは椅子に座ったまま、しばらく何も言えなかった。ただ、自分の両手を見るしかなかった。頭の中は、いくつもの記憶と、今知らされた事実とで、ぐちゃぐちゃにかき乱されていた。
昨日まで自分がいたと思っていた世界。
笑ったアスミの横顔。セリやジョンやアンの笑い声。そのすぐ隣で、パイロットになると胸を張っていた自分。
あの時の自分は、本当に何も知らなかった。
戻って、昨日の続きみたいな顔で、あの場所に立てるか。
何もなかったような顔で、全部知らないふりをして、ただいまと言えるか。
喉の奥から、笑いにもならない息が漏れた。
「……帰れないだろ、もう」
自分でも驚くほど、声ははっきりしていた。
ケイが、わずかに目を細める。
カイトは膝の上で固く握りしめていた拳を、指先からゆっくりとほどいた。
「……ここにいる」
言葉が口から出た瞬間、自分の背後で何かが閉じたような気がした。もう元には戻れない。
この先、ARCLINEに残ったところで、自分に何ができるのかは分からない。けれど、ケイから聞かされたことがすべて真実なら、自分はアスミのそばにいるべきではない。
「そうか」
ケイの返事は、それだけだった。
喜びも、安堵も、勝ち誇るような気配もない。
ただ、自分と似た種類の諦めをどこかに抱えた大人の目だけが、逃げることなく真っ直ぐこちらを見ていた。
カイトは握った拳へ視線を落とし、そのまま見つめていた。
もう会えない、あの笑顔の残像が、掌の内側に一瞬だけ蘇った。
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