Sky-22-守られている自分-
本作『SKY』は作者本人が小説家になろうにて連載・管理しています。無断転載・無断利用を禁じます。
夜が変わっても、胸の奥は夜のままだった。
補給都市の朝は薄い雲に覆われていて、光は白く濁っている。コンテナを積み上げた壁の上を、冷たい風がさらっていった。仮設滑走路では、まだエンジンをかけていない輸送機の機体が並び、その間を整備兵たちが眠そうな顔で行き来している。
アスミは、その喧騒から少し離れたところで、空になったマグカップを両手で包んでいた。中身はとっくになくなっていて、温度だけがかすかに残っている。
右の腰には、いつも通りホルスターがついている。革の感触は昨日と同じなのに、その重さだけが違って感じられた。
「……レイナー二等兵」
背中から呼ばれ振り向くと、NTO側の連絡将校が立っていた。昨日の夜、路地の近くでセリを呼びに来た兵士だ。疲れの抜けない目の下に、くっきりとクマができている。
「はい」
「司令部の仮設オフィスまで。昨夜の件で、報告書の確認と署名だ」
来たか、と思う。
逃げ場は最初からない。逃げるつもりも、ない。
空になったカップを返却用の箱に置き、アスミは将校の後ろについて歩き出した。
*
コンテナを改造した仮設オフィスは、紙とインクとコーヒーの匂いがした。
壁にはこの都市の地図と補給路が貼られ、机の上には書類の山。小さな電気ストーブが一台置かれているが、足元までは暖かさが届いてこない。
「ここだ」
将校が一つの机を示す。簡易椅子が向かい合うように置かれ、その間に薄いファイルが一冊。
《事案報告:中立国補給都市における避難民保護について》
タイトルだけが、黒々と印刷されていた。
「内容は、事実関係だけです。読み上げますか?」
「自分で読みます」
短く答え、ファイルを開く。
・発生時刻
・場所:路地裏(区画G-3裏通り)
・関与者:連合軍パイロット一名/中立国軍兵一名/避難民女性一名
・中立国兵による不適切行為の発生
・古賀二等兵による制止行動
・拳銃の抜銃/発砲無し
淡々とした文が並ぶ。一行一行が、昨夜の景色と重なっていく。
壁に押し付けられた細い肩。ずれたコート。切れたボタン。酒の匂い。舌打ち。
手袋越しの指先が、紙の縁をわずかに強く掴んだ。
「……記載に誤りはありません」
あすみは視線を上げずに言った。
「ここに署名を」
将校が最後の欄を指さす。ペンを受け取り、自分の名前を書く。筆圧が少し強くなっているのが、自分でも分かる。ペン先が紙を離れたところで、将校がようやく口を開いた。
「規則だけで言えば、まず上官を呼び、基地憲兵に引き渡すのが筋です」
「分かっています」
アスミは素直にうなずいた。
「でも、昨夜はそれをしていたら間に合わなかったでしょう」
将校の声に、疲れた笑いが混じる。
「……個人的には、助かりました。中立側とも話をつけました。あちらも“問題行為”だったことは認めています」
「処分は……」
「ありません」
きっぱりと言われる。
「ただし、“建前として”一度は言っておきます。次に似た事があったら、まず誰かを呼んでください。」
「……検討します」
本心からの返事だった。
将校は満足そうでも、不満そうでもない顔で頷く。
「署名、ありがとう。戻っていい」
仮設オフィスを出ると、外の空気は少しだけ眩しかった。コンテナの影と影の間に、セリが立っていた。
ジャケットのチャックを一番上まで閉め、腕を組んで壁にもたれている。視線はこちらに向けられているのに、目だけが少し、暗い。
「……待ってたの?」
アスミがセリを見上げて言った。
「待ってた」
いつものように軽口で返してはこない。
アスミは、一歩近づいた。
「報告書、もう読んだ?」
「読んだ」
返ってきた声は短くて、冷えた鉄みたいだった。
「中立兵が避難民に手を出そうとしてたこと。お前が止めに入ったこと。路地の中で、銃を抜いたこと。発砲は無し」
淡々と事実だけを並べる。アスミは、何も言えなかった。
セリは、しばらく黙ってアスミを見ていた。
風が、二人の間を通り過ぎる。遠くの方でトラックのエンジン音が響き、誰かが笑う声が聞こえる。
ここだけ、音の届かない場所みたいだった。
「……中に入るか」
セリが先に口を開いた。
「こういう話は、外でするもんじゃない」
簡易ブリーフィングルームのドアを開ける。昨日も何度か使った、地図だらけの小さな部屋だ。
机の上に置きっぱなしの紙コップの中身は、もう冷たくなっている。
ドアが閉まると、外の喧騒が薄くなった。
セリは、それからやっと、ちゃんとアスミの方を向いた。
「なんで、一人で行った」
最初の一言は、それだった。
怒鳴り声ではない。でも、机の上の紙コップの水面が揺れてもおかしくないくらい、芯のある声だった。
「……聞こえちゃったから」
アスミは正直に答える。
「声が。…はっきりした言葉じゃなかったけど。でも、“あのままじゃダメ”って分かったから」
足が勝手に動いた。そう言おうとして、飲み込んだ。
「無線は持ってただろ」
セリの問いは、静かに続く。
「一言呼ぶ時間は、なかったか?」
「……あったと思う」
嘘はつけない。路地の入口で立ち止まった瞬間。頭の中に「セリ」の二文字は確かに浮かんだ。
その次に浮かんだのは、“間に合わない”という感覚だった。
「呼んでから走ったら、その一瞬で何かが終わってるかもしれないと思ったから。それで、走った」
自分でも、あまり説明になっていないと思う。
セリは、少しだけ目を閉じた。睫毛の影が、頬に落ちる。
「……その判断を、全部間違いだとは言わない」
やがて目を開けて、そう言った。
「もし俺がそこにいても、多分同じタイミングで走るし、銃も抜いたと思う」
「じゃあ――」
「でもな」
言葉を重ねようとした口を、セリが静かに遮った。
「それでも、“なんで俺を呼ばなかった”ってことには、怒ってる」
アスミは、息を飲んだ。
「……怒ってるの?」
「怒ってる」
はっきりと言う。
「一人で路地に入ったことにも。銃を抜いたことにも。それを“全部一人でやった”ことにも」
机の端を掴んだセリの指先が、僅かに白くなっていた。
いつもは、人の話を聞いてから言葉を選ぶ方だ。今は、先に感情が出てきてしまっているのが分かる。
「お前、守る側に立ちたいんだよな」
問いというより、確認。
「……立ちたい、と思ってる」
アスミは、ゆっくり頷いた。
「立たなきゃいけない、の方が近いかも。見たからには、見なかったふりできないし」
路地で見たもの。避難民の列で見た目。ナイルやハルの顔。
全部、もう目の裏から消えてくれない。
「だったら、なおさらだ」
セリは言う。
「“守る側”だからって、自分をひとりにすんな」
その一言が、胸の奥にじかに刺さった。
「……ひとりにしてるつもり、なかった」
反射で返す。でも、昨夜の光景を思い出すと、自分の言葉が薄いことはすぐに分かる。
あの路地にあったのは、自分と、あの子と、銃だけだった。セリも、基地も、連合も、全部画面の外側に追いやっていた。
「俺は、お前のバディだ」
セリは、机から手を離し、代わりに自分の胸の前で指を組んだ。
「前線でも、訓練でも、補給任務でも。“何かあったとき、一番最初に呼ばれる側”でいたい」
「……そんな重いこと、さらっと言う?」
思わず口元が緩む。だけど、すぐ真顔に戻る。
「重く言わないと伝わらない」
セリは、少しだけ苦笑した。
「お前、すぐ“自分で何とかしよう”って思うだろ。その根性はいいところでもあるけど、
“守る側”をやりたいなら、“守られてる自分”がいることも、一緒に自覚しろ」
「守られてる、自分……」
その言葉を、口の中で転がしてみる。
思い出す。
訓練で倒れそうになった時、黙って肩を貸された。教官に怒鳴られて落ち込んだ時、隣で変な冗談を言ってくれた。北方基地でも、避難集落でも、気付けばいつも、近くで“何かしてくれていた”相棒。
(いつもセリがいるから)
胸のどこかで、はっきり形になる。
「うん、そうだね。ありがとう、セリ」
それは、ずっと前から事実だったのに、やっと言葉になった。
セリが、ほんの一瞬だけ目を丸くした。
すぐに小さく笑う。
「自覚したならよし」
「偉そう」
「偉いんだよ。俺はお前よりちょっとだけ冷静だからな」
ムカつくのに、腹は立たない。むしろ、その言い方がいつも通りで、少しほっとする。
でも、胸の中にはもう一つ、別の感情があった。
路地で見た女の子。震える肩。押し殺した「大丈夫」。
(あの子みたいな子は、他にもいる)
(ナイルも、ハルも。名前も知らない誰かも)
「……でも」
アスミは、自分の手を見下ろした。
昨夜、銃を握った右手。今は指先まで血が通っていて、きちんと温かい。
「でも、“守られてる自分”だけでいたら、多分、昨日みたいな事は止められない」
静かに言う。
「私が守らないと壊れる誰かも、たぶん、いる。昨日のあの子みたいに。ナイルたちみたいに。名前も知らないまま、戦争の外側で押し潰されそうになってる誰かも」
セリは何も言わずに聞いている。
アスミは、自分の胸の中にある二つの言葉を、まっすぐに見つめた。
守られている自分。
守る自分。
どっちか一方だけ選んだら、どっちも歪む気がする。
「……両方、抱え込む」
はっきりと言った。
「もう、何も知らなかった私じゃない。どっちもちゃんと持ったまま、前に進む。」
それは、決意というにはまだ不器用な言葉だったかもしれない。
でも、その瞬間、胸の中で何かがカチンと音を立てて、はまった気がした。
セリは、しばらく黙ってアスミの顔を見ていた。
やがて、ゆっくりと頷く。
「……ああ、そうしろ」
そして、いつもの調子で付け足す。
「だから、その全部込みで、“俺を呼べ”」
「結局そこに戻るんだ」
呆れたふりをしながらも、笑いがこみ上げる。
「約束」
セリが手を差し出した。
握手でも敬礼でもない、微妙な高さ。アスミは、自分の手を重ねる。
軍用手袋越しの感触は薄いけれど、その下にある温度は、ちゃんと伝わった。
*
雪混じりの風が、コンクリートの滑走路の上を走り抜けていく。格納庫の扉を叩く音が、低く響いていた。
基地司令室の窓からは、鉛色の空が見える。
その窓を背にして、ハイルトンは大きな机に座っていた。
椅子にだらしなく背を預け、片膝を少し崩している。机の端には冷めたコーヒー。
真ん中には、補給都市から上がってきた報告書の束。薄いファイルの一つを手に取り、ぺらりと開く。
《アスミ・レイナー二等兵 中立国補給都市における避難民保護のための介入について》
活字が整然と並んでいる。
ハイルトンは、眠そうな目で一行ずつ追った。
・中立国兵による不適切行為
・古賀二等兵による制止
・拳銃の抜銃
・発砲無し
「……銃を抜いたか」
誰に聞かせるでもなく、ぽつりと呟く。声は相変わらずのんびりしているのに、その目だけは、紙の行間をじっと覗いていた。
書いてあることはシンプルだ。その割に、書いていないことが多すぎる。
「……ギリギリで止まったな」
眉が、ごくわずかに動く。
彼女の数値は知っている。オルタイト反応も、遺伝子的な背景も。
Sランクの器というのは、そういう“境界”に立ち続けるものだ。
守るためなら、迷わず撃てるタイプ。守るためなら、迷って撃たないタイプ。
どちらにも、転べる。ハイルトンは書類から目を離し、窓の外をちらりと見た。
雪がちらつき始めている。滑走路の端を、整備兵が小さく動き回っていた。
「司令、どうしました?」
ドアの方からキヌアの声がした。振り向きもせずに、「なんでもない」と返す。
「新人の薔薇が、少し棘を見せただけだ」
「また変な例えを……」
キヌアのため息混じりの声がする。
ハイルトンは、報告書の端にペンを走らせた。
《備考:危険状況下においても自制線を維持。ただし自己判断を優先する傾向強し。今後も注意して見守ること。バディとの連携重視。》
「あの子の命の預かり先」は、ここだ。
壊すために預かっているわけじゃない。かといって、ただ守って眠らせておくつもりもない。
「……全部抱えるなよ、レイナー」
机の上のファイルに向かって、小さく呟く。
窓の外で、雪が少し強くなった。北方の風は冷たい。
その中で、守られている自分と、守る自分。二つを抱えた小さなパイロットが、どこまで飛べるか。
ハイルトンは、眠たそうな目の奥でだけ、鋭く空を見ていた。
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