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SKY  作者: RUI
REDROSE

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21/120

Sky21-最低ライン-

本作『SKY』は作者本人が小説家になろうにて連載・管理しています。無断転載・無断利用を禁じます。

 

 補給都市の夜は、昼間よりもうるさかった。

 昼は砂ぼこりで白く濁っていた空気が、今はネオンと看板の光で薄く染まっている。

 安酒場の扉が開くたびに、酒と煙草と揚げ油の匂いが路地へこぼれ出て、冷たい夜気とぶつかり合っていた。

 任務を終えたアスミとセリは、兵舎へ戻る道を並んで歩いていた。


「……今日だけで、何キロ歩いたんだろ」

 アスミがぼそっと言う。

「飛べないSランクも、たまにはいいだろ」

 セリは肩をすくめる。口調は軽いが、靴の裏がちゃんと疲れている歩き方だ。制服の襟元から覗く首筋には、うっすらと汗の跡が残っている。

 二人の横を、中立国のトラックが一台、うなりを上げて通り過ぎていく。荷台から、金属箱同士がぶつかる、鈍い音がした。道の反対側では、屋台の鉄板で肉が焼かれ、香辛料の煙が色のない夜空に細く立ち上る。


「兵舎、この先の角を二つ曲がったとこだっけ?」

「そう。……ほら、昼間俺らが見回りした通り」

 セリが顎で示す先には、コンテナを積み上げて作った壁と、その向こうに低いバラックの屋根が見えていた。街灯は少なく、光の輪と輪の間には濃い影が落ちている。

 その時、小さな影が二人の間に滑り込むように現れた。

「アンダーソン二等兵?」

 中立国語と連合共通語をごちゃ混ぜにしたような訛りで、軍帽をかぶった兵士がセリに声をかけた。胸には中立国軍の階級章。手には書類の束。

「……はい、俺です」

 セリが足を止める。

「統合本部から呼び出しが来ています。アンダーソン二等兵に。と」

「今?」

「はい」

 兵士は眉を下げて笑った。セリが短く息を吐く。

「……了解。行きます。」

 そう言って、アスミに向き直った。

「アスミ、一人で戻れるか?」

「戻れる。さっきも通ったし」

 昼間の見回りで、だいたいの道筋は頭に入っている。兵舎までは、屋台通りを抜けて角を二つ曲がるだけだ。

「無線はオンにしとけ。変なやつに声かけられたら、まず走れ」

「分かってる」

 セリはうなずくと、中立国兵の後をついて、明るい方――司令部のある通りへと歩いていった。街灯の光に肩章が一瞬光り、そのまま人混みの中に紛れる。

 残されたアスミは、冷たい夜気をひとつ肺に入れ直してから、兵舎の方へ足を向けた。


 *


 屋台通りを抜けると、空気の匂いが少し変わる。

 揚げ物と酒の匂いが薄くなり、代わりに湿った土と古い水の匂いがくっきりしてくる。コンテナを並べて作った壁が、両側から圧迫するように迫ってきた。頭上に張り出した鉄板のせいで、街灯の光もねじ曲がっている。

 足元で、砂利がじゃり、と鳴る。その音に紛れて、別の音がした。


「……っ、や……め……」

 かすれた、千切れた声。


 笑い声でも怒鳴り声でもない。喉の奥で押し潰して、漏れてしまった残りかすだけ、みたいな音。

 足が、その場で止まった。

 今のは、気のせいかもしれない。そう言い聞かせる前に、もう一度、音がする。


「んっ――」

 今度は、はっきりと塞がれた声だった。視線が、音の方へ向く。

 コンテナの壁の隙間に、細い路地が一本、口を開けていた。占い師のテント一枚がぎりぎり入るかどうかの幅。街灯の光は届かず、代わりに近くの安酒場の裏口から漏れる黄色い光が、路地の奥に細長い四角を描いている。

 鼻先に、酒と汗と安物の香水が混じった、濃い匂いがかすかに流れてきた。

 アスミの足が、勝手にそちらへ向かう。

 一歩。二歩。

 砂利が潰れる感触と、軍靴の音だけが、耳の奥でやけに大きい。

 路地の入口から、そっと中を覗き込む。


 薄い黄色い光の中に、二つの影が貼り付いていた。

 片方は、軍服の背中。

 中立国軍の制服。肩章と部隊章。腰のホルスター。片腕は壁に立てかけるようにつき、もう片方の腕は――その下の細い身体の肩あたりに絡んでいる。

 もう片方は、壁とその男の間に押し込まれた小さな影。

 避難民用に配られたのだろう、サイズの合わないコートが片側だけずり落ち、薄いワンピースの肩紐が片方、だらりと腕にかかっている。両肩が小刻みに震え、顎は引きつったように上がっていた。口元には、男の手。

 乱暴に押さえつけているというより、“音が漏れないように”蓋をしている手つき。


「……」

 アスミは、息を吸うのを忘れた。


 男の手が、コートの前を乱雑に掴む。ボタンがひとつ、ぷつんと切れて地面に跳ねた。光の中で小さく転がり、すぐに影に飲まれる。

 押し付けられた女の子の足が、硬い地面を探るように動いた。合っていない靴のかかとが浮き、つま先だけで踏ん張っている。膝が震え、足首が白くなっていた。

 昼間、列の中で見たのと同じ震え方だ、と、どこか冷たい場所で理解する。


 胸の奥で、何かが静かに折れた。

「――そこまで」

 自分の声だった。耳に届いた声は、思ったより低く、よく通った。


 男の肩が、ぴくりと動く。

 振り向いた顔は、酒で赤くなっていた。目の焦点は合っていない。けれど、口元だけは嫌な意味でしっかり動く。

「なんだ、NTOか」

 中立国語に混じる、拙い共通語。

「任務は終わりだろ? こっちの娯楽まで管理するつもりか?」

 押さえていた手が、女の子の口から少しだけ離れる。その隙間から、短い息がもれる。女の子の瞳が、助けを求めることもできないまま、こちらをかすめてすぐ床に落ちた。


「その人から、離れてください」

 アスミは、路地の中へ一歩踏み込む。足元の砂利が、じゃり、と鳴いた。


「関係ないだろ。こいつら、こっちで保護して“やってる”んだぜ? 多少の慰労くらい、目をつぶれよ」

 男は肩をすくめるような仕草をしながら、女の子の顎に指を滑らせた。指先に力が入る。女の子の身体がびくりと跳ねる。押し殺した息がまた漏れた。


 アスミの視界の端で、路地の入口側の世界がすっと遠のいたように感じた。笑い声も、音楽も、屋台の呼び込みも、全部、膜の向こうへ行ってしまう。残っているのは、ここだけ。

「関係あります」

 自分でも驚くくらい、淡々とした声が出た。


「NTO統合軍北方基地所属、アスミ・レイナー。あなたの“娯楽”は、私の任務の邪魔です」


 男の目の端が、わずかに吊り上がる。

「女の兵士が、ずいぶん威勢がいいな」

 軽く鼻で笑いながら言う。その笑いの奥に、“なめきった安心”が見えた。

 ここは中立国。この男は“味方側”だ。銃を向ければ、面倒ごとになる。それは多分、彼もよく知っている。

 胸の内側で、瞬間的な計算が走る。

 今ここで撃てば――軍法会議。撃たなければ――この女の子は、壊される。

 二つの線が、冷たく頭の中を横切る。

 喉の奥に、鉄の味がした気がした。

 ゆっくりと右手を動かし、腰のホルスターの留め具を外した。革がかすかに鳴った。

 何度も訓練で繰り返した動き。敵に向けるはずの動き。

 男の顔色が、そこで少しだけ変わった。

「……おいおい。冗談だろ」


 アスミは、答えない。

 銃を抜く。重さはいつもと同じだ。手の中に収まる冷たさも、何ひとつ変わらない。

 ただ今回は、狙う方向が違う。

 銃口を、男の胸ではなく、その足元、靴先の横の地面に向ける。だが、腕の角度と距離は、いつでも上げられる位置だ。

 撃てる距離。撃てる構え。

 狙っていないふりをしながら、“外しようのない場所”に立つ。



「もう一度、言います」

 アスミは、銃を握ったまま一歩前に出た。靴と靴の距離が、ぐっと縮まる。

 引き金にかけた指は、震えていない。

「そこから、離れてください」


 男の喉が、ごくりと動いた。

 さっきまで酒と油で濁っていた目が、じわじわと焦点を取り戻していく。その中に、“計算”の色が浮かんだ。腕につけられたパッチ、階級章、そして、胸元の識別タグを、舐めるように見る。

「……赤い薔薇」

 小さく、吐き捨てるように言った。


 統合軍の中で、噂だけが先に歩き回るコールサイン。前線に送られる報告書の端に、たまに記号のように書き込まれる名。

「Sランク様が、避難民一人のために、引き金引くってのか」

 男の口調は、まだ強がりを装っている。


 アスミは、まばたきもしない。

「あなたが離れなければ」

 言葉が、勝手に出た。自分の声なのに、自分のものじゃないみたいに冷たい。

 男の喉が、もう一度動く。視線が、銃口とアスミの顔とを行き来した。


 沈黙が落ち、路地の外から、誰かの笑い声がかすかに流れ込んでくる。

 その音が、妙に遠い。


「……チッ」

 舌打ちが、路地に小さく響いた。

 男は、女の子の肩から手を離した。乱暴に押し付けていた腕を引き、後ろへ一歩下がる。その動きでも、女の子は壁に張り付いたまま動けない。

「覚えとけよ、NTOの“薔薇”」

 捨て台詞を勢いよく吐いた割に、視線はもう銃口から離れない。踵を返しアスミの横を歩いていく。酒と汗の匂いが、鼻先をかすめた。すれ違いざま、銃口をほんのわずかだけ上げる。彼が気づくか気づかないかの、ぎりぎりの角度。男は振り返らないまま、そのまま屋台通りの喧騒の中へ紛れていった。


 路地に残ったのは、アスミと、壁際の女の子だけ。

 銃を下ろす。安全装置を戻し、ホルスターへ収める。指先が、わずかに遅れて震えた。


「……すみません」

 自分でもおかしな言葉だと思いながら、アスミは口を開いた。

「大丈夫、ですか」

 女の子は、まだ壁から身体を離せていなかった。片側にずり落ちたコートを、震える手で引き寄せる。肩紐を直そうとして、途中で指が止まる。喉が何度か動いたあと、掠れた声がようやく出た。

「……だいじょうぶ、です」


 嘘だ。その声を聞いた瞬間にそう分かる。

 “今はまだ壊れていない”けど、“これ以上は無理”な線の上に立っている声。

 アスミは一歩だけ近づき、しゃがんで女の子と視線の高さを合わせた。暗がりの中で、その瞳が揺れている。昼間、列の中で見た子たちと同じ瞳。制服も、階級章もない目。


(もし、あのとき別の道を選んでいたら)

(ここにいるのは、私だったかもしれない)

 頭のどこかでそんな形のない言葉が浮かび、胸の奥をきゅっと締め付けた。

 でも私は、守られていた。この子たちは、選ぶ前に巻き込まれている。

 胸の奥が、ぎゅっと縮む。

「ここから、表通りに出られますか」

 アスミは、できるだけ穏やかな声を作った。

「同じ避難所の人とか、いますか。……一人じゃなければ、そっちに戻った方がいい」


 女の子はこくりと小さく頷いた。声はもう出ないようだった。

 立ち上がろうとして、足がもつれる。アスミは反射的に手を伸ばしそうになり、途中で止めた。

 自分の手を見下ろす。軍用の手袋。汗と油と、さっきまで銃を握っていた感触の残る手。


「……暗いから。外まで、一緒に歩きます」

 代わりにそう言って、少し前を歩くことにした。

 路地を出るまでの数歩。女の子の小さな靴音が、後ろからついてくる。

 屋台通りの光が見えてきたあたりで、振り返る。

「この先、避難民用のテントが並んでるの、見えますか。そこまで行けば、多分、大丈夫です」

 女の子は、震えながらももう一度頷いた。

「……ありがとうございました」

 その一言を無理やり絞り出すように言って、女の子はコートを掻き合わせ、光の方へ歩いていった。人混みの中に、小さな背中が吸い込まれていく。

 アスミは、その背中が見えなくなるまで立ち尽くした。

 手の中に、まだ銃の重さが残っている気がする。

 敵じゃない相手に、銃を抜いた。守る側のはずの人間に、殺すための道具を向けた。


「……最低ライン、か」

 誰に聞かせるでもなく、呟く。

 撃たなかったから、誰も死んでいない。でも、撃つ気は本気で込めた。

 “次に同じことを見たら”、そのラインがどこに引かれるのか。

 自分でも、少し分からなくなっていた。


 夜風が、路地の奥まで吹き込んでくる。

 冷たい空気を胸いっぱいに吸い込む。肺がきゅっと縮み、頭の中の赤い熱が少しだけ冷めた。

 無線機のランプが、静かに光っている。


 アスミはそれを一度だけ見下ろし、何も押さずに、兵舎への道を歩き出した。

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