Sky21-最低ライン-
補給都市の夜は、昼間よりもうるさかった。
昼は砂ぼこりで白く濁っていた空気が、今はネオンと看板の光で薄く染まっている。
安酒場の扉が開くたびに、酒と煙草と揚げ油の匂いが路地へこぼれ出て、冷たい夜気とぶつかり合っていた。
任務を終えたあすみとセリは、兵舎へ戻る道を並んで歩いていた。
「……今日だけで、何キロ歩いたんだろ」
あすみがぼそっと言う。
「飛べないSランクも、たまにはいいだろ」
セリは肩をすくめる。口調は軽いが、靴の裏がちゃんと疲れている歩き方だ。制服の襟元から覗く首筋には、うっすらと汗の跡が残っている。
二人の横を、中立国のトラックが一台、うなりを上げて通り過ぎていく。荷台から、金属箱同士がぶつかる、鈍い音がした。道の反対側では、屋台の鉄板で肉が焼かれ、香辛料の煙が色のない夜空に細く立ち上る。
「兵舎、この先の角を二つ曲がったとこだっけ?」
「そう。……ほら、昼間俺らが見回りした通り」
セリが顎で示す先には、コンテナを積み上げて作った壁と、その向こうに低いバラックの屋根が見えていた。街灯は少なく、光の輪と輪の間には濃い影が落ちている。
その時、小さな影が二人の間に滑り込むように現れた。
「アンダーソン二等兵?」
中立国語と連合共通語をごちゃ混ぜにしたような訛りで、軍帽をかぶった兵士がセリに声をかけた。胸には中立国軍の階級章。手には書類の束。
「……はい、俺です」
セリが足を止める。
「明日の補給ルートの打ち合わせ、今夜のうちにって。中立側の作戦室で、です」
「今から?」
「“今から”だそうです」
兵士が肩をすくめた。
セリは短く息を吐く。
「……了解。行きます。」
そう言ってから、あすみに向き直った。
「あすみ、一人で戻れるか?」
「戻れる。さっきも通ったし」
昼間の見回りで、だいたいの道筋は頭に入っている。兵舎までは、屋台通りを抜けて角を二つ曲がるだけだ。
「無線はオンにしとけ。変なやつに声かけられたら、まず走れ」
「分かってる」
セリはうなずくと、中立国兵の後をついて、明るい方――司令部のある通りへと歩いていった。街灯の光に肩章が一瞬光り、そのまま人混みの中に紛れる。
残されたあすみは、冷たい夜気をひとつ肺に入れ直してから、兵舎の方へ足を向けた。
*
屋台通りを抜けると、空気の匂いが少し変わる。
揚げ物と酒の匂いが薄くなり、代わりに湿った土と古い水の匂いがくっきりしてくる。コンテナを並べて作った壁が、両側から圧迫するように迫ってきた。頭上に張り出した鉄板のせいで、街灯の光もねじ曲がっている。
足元で、砂利がじゃり、と鳴る。
その音に紛れて、別の音がした。
「……っ、や……め……」
かすれた、千切れた声。
笑い声でも怒鳴り声でもない。
喉の奥で押し潰して、漏れてしまった残りかすだけ、みたいな音。
足が、その場で止まった。
今のは、気のせいかもしれない。
そう言い聞かせる前に、もう一度、音がする。
「んっ――」
今度は、はっきりと塞がれた声だった。
視線が、音の方へ向く。
コンテナの壁の隙間に、細い路地が一本、口を開けていた。占い師のテント一枚がぎりぎり入るかどうかの幅。街灯の光は届かず、代わりに近くの安酒場の裏口から漏れる黄色い光が、路地の奥に細長い四角を描いている。
鼻先に、酒と汗と安物の香水が混じった、濃い匂いがかすかに流れてきた。
あすみの足が、勝手にそちらへ向かう。
一歩。
二歩。
砂利が潰れる感触と、軍靴の音だけが、耳の奥でやけに大きい。
路地の入口から、そっと中を覗き込む。
薄い黄色い光の中に、二つの影が貼り付いていた。
片方は、軍服の背中。
中立国軍の制服。肩章と部隊章。腰のホルスター。片腕は壁に立てかけるようにつき、もう片方の腕は――その下の細い身体の肩あたりに絡んでいる。
もう片方は、壁とその男の間に押し込まれた小さな影。
避難民用に配られたのだろう、サイズの合わないコートが片側だけずり落ち、薄いワンピースの肩紐が片方、だらりと腕にかかっている。両肩が小刻みに震え、顎は引きつったように上がっていた。口元には、男の手。
乱暴に押さえつけているというより、“音が漏れないように”蓋をしている手つき。
「……」
あすみは、息を吸うのを忘れた。
男の手が、コートの前を乱雑に掴む。ボタンがひとつ、ぷつんと切れて地面に跳ねた。光の中で小さく転がり、すぐに影に飲まれる。
押し付けられた女の子の足が、硬い地面を探るように動いた。合っていない靴のかかとが浮き、つま先だけで踏ん張っている。膝が震え、足首が白くなっていた。
昼間、列の中で見たのと同じ震え方だ、と、どこか冷たい場所で理解する。
胸の奥で、何かが静かに折れた。
「――そこまで」
自分の声だった。
耳に届いた声は、思ったより低く、よく通った。
男の肩が、ぴくりと動く。
振り向いた顔は、酒で赤くなっていた。目の焦点は合っていない。けれど、口元だけは嫌な意味でしっかり動く。
「なんだ、連合か」
中立国語に混じる、拙い共通語。
「任務は終わりだろ? こっちの娯楽まで管理するつもりか?」
押さえていた手が、女の子の口から少しだけ離れる。その隙間から、短い息がもれ
る。女の子の瞳が、助けを求めることもできないまま、こちらをかすめてすぐ床に落ちた。
「その人から、離れてください」
あすみは、路地の中へ一歩踏み込む。
足元の砂利が、じゃり、と鳴いた。
「関係ないだろ。こいつら、こっちで保護して“やってる”んだぜ? 多少の慰労くらい、目をつぶれよ」
男は肩をすくめるような仕草をしながら、女の子の顎に指を滑らせた。
指先に力が入る。女の子の身体がびくりと跳ねる。押し殺した息がまた漏れた。
あすみの視界の端で、路地の入口側の世界がすっと遠のいたように感じた。
笑い声も、音楽も、屋台の呼び込みも、全部、膜の向こうへ行ってしまう。
残っているのは、ここだけ。
「関係あります」
自分でも驚くくらい、淡々とした声が出た。
「連合軍北方基地所属、古賀あすみ。
――あなたの“娯楽”は、私の任務の邪魔です」
男の目の端が、わずかに吊り上がる。
「女の兵士が、ずいぶん威勢がいいな」
軽く鼻で笑いながら言う。その笑いの奥に、“なめきった安心”が見えた。
ここは中立国。
この男は“味方側”だ。
銃を向ければ、面倒ごとになる。
それは多分、彼もよく知っている。
胸の内側で、瞬間的な計算が走る。
今ここで撃てば――軍法会議。
撃たなければ――この女の子は、壊される。
二つの線が、冷たく頭の中を横切る。
喉の奥に、鉄の味がした気がした。
ゆっくりと、右手が動く。
腰のホルスターの留め具を外す。
革がかすかに鳴った。
何度も訓練で繰り返した動き。
敵に向けるはずの動き。
男の顔色が、そこで少しだけ変わった。
「……おいおい。冗談だろ」
あすみは、答えない。
銃を抜く。
重さはいつもと同じだ。手の中に収まる冷たさも、何ひとつ変わらない。
ただ今回は、狙う方向が違う。
銃口を、男の胸ではなく、その足元――靴先の横の地面に向ける。だが、腕の角度
と距離は、いつでも上げられる位置だ。
撃てる距離。
撃てる構え。
狙っていないふりをしながら、“外しようのない場所”に立つ。
「もう一度、言います」
あすみは、銃を握ったまま一歩前に出た。
靴と靴の距離が、ぐっと縮まる。
引き金にかけた指は、震えていない。
「そこから、離れてください」
男の喉が、ごくりと動いた。
さっきまで酒と油で濁っていた目が、じわじわと焦点を取り戻していく。
その中に、“計算”の色が浮かんだ。腕につけられたパッチ、階級章、そして、胸元の識別タグを、舐めるように見る。
「……赤い薔薇」
小さく、吐き捨てるように言った。
連合軍の中で、噂だけが先に歩き回るコールサイン。
前線に送られる報告書の端に、たまに記号のように書き込まれる名。
赤い薔薇が咲いたら、その現場は“本物”になる――とか、ならないとか。
「Sランク様が、避難民一人のために、引き金引くってのか」
男の口調は、まだ強がりを装っている。
あすみは、まばたきもしない。
「――あなたが離れなければ」
言葉が、勝手に出た。
自分の声なのに、自分のものじゃないみたいに冷たい。
男の喉が、もう一度動く。
視線が、銃口とあすみの顔とを行き来した。
しばらくの沈黙。
路地の外から、誰かの笑い声がかすかに流れ込んでくる。
その音が、妙に遠い。
「……チッ」
舌打ちが、路地に小さく響いた。
男は、女の子の肩から手を離した。乱暴に押し付けていた腕を引き、後ろへ一歩下がる。その動きでも、女の子は壁に張り付いたまま動けない。
「覚えとけよ、連合の“薔薇”」
捨て台詞。
その割に、視線はもう銃口から離れない。
肩をすくめるようにして踵を返し、男は路地の出口へ向かった。すれ違う瞬間、あすみの肩にわざと軽くぶつかる。酒と汗の匂いが、鼻先をかすめた。
すれ違いざま、銃口をほんのわずかだけ上げる。
彼が気づくか気づかないかの、ぎりぎりの角度。
男は振り返らないまま、そのまま屋台通りの喧騒の中へ紛れていった。
路地に残ったのは、あすみと、壁際の女の子だけ。
銃を下ろす。
安全装置を戻し、ホルスターへ収める。
指先が、わずかに遅れて震えた。
「……すみません」
自分でもおかしな言葉だと思いながら、あすみは口を開いた。
「大丈夫、ですか」
女の子は、まだ壁から身体を離せていなかった。
片側にずり落ちたコートを、震える手で引き寄せる。肩紐を直そうとして、途中で指が止まる。喉が何度か動いたあと、掠れた声がようやく出た。
「……だいじょうぶ、です」
嘘だ。
その声を聞いた瞬間にそう分かる。
“今はまだ壊れていない”けど、“これ以上は無理”な線の上に立っている声。
あすみは一歩だけ近づき、しゃがんで女の子と視線の高さを合わせた。暗がりの中で、その瞳が揺れている。昼間、列の中で見た子たちと同じ瞳。
制服も、階級章もない目。
(もし、あのとき別の道を選んでいたら)
(ここにいるのは、私だったかもしれない)
頭のどこかでそんな形のない言葉が浮かび、胸の奥をきゅっと締め付けた。
でも私は、“選んで”こっち側に来た。
この子たちは、選ぶ前に巻き込まれている。
――それでも、もしあの時、軍に入らなかったら。
――制服も、銃も持っていなかったら。
(私だって、今ここで壁に押し付けられててもおかしくない)
胸の奥が、ぎゅっと縮む。
「ここから、表通りに出られますか」
あすみは、できるだけ穏やかな声を作った。
「同じ避難所の人とか、いますか。……一人じゃなければ、そっちに戻った方がいい」
女の子はこくりと小さく頷いた。
声はもう出ないようだった。
立ち上がろうとして、足がもつれる。
あすみは反射的に手を伸ばしそうになり、途中で止めた。
自分の手を見下ろす。
軍用の手袋。
汗と油と、さっきまで銃を握っていた感触の残る手。
「……暗いから。外まで、一緒に歩きます」
代わりにそう言って、少し前を歩くことにした。
路地を出るまでの数歩。
女の子の小さな靴音が、後ろからついてくる。
屋台通りの光が見えてきたあたりで、振り返る。
「この先、避難民用のテントが並んでるの、見えますか。
そこまで行けば、多分、大丈夫です」
女の子は、震えながらももう一度頷いた。
「……ありがとうございました」
その一言を無理やり絞り出すように言って、女の子はコートを掻き合わせ、光の方へ歩いていった。人混みの中に、小さな背中が吸い込まれていく。
あすみは、その背中が見えなくなるまで立ち尽くした。
手の中に、まだ銃の重さが残っている気がする。
敵じゃない相手に、銃を抜いた。
守る側のはずの人間に、殺すための道具を向けた。
「……最低ライン、か」
誰に聞かせるでもなく、呟く。
撃たなかったから、誰も死んでいない。
でも、撃つ気は本気で込めた。
“次に同じことを見たら”、そのラインがどこに引かれるのか。
自分でも、少し分からなくなっていた。
夜風が、路地の奥まで吹き込んでくる。
冷たい空気を胸いっぱいに吸い込む。
肺がきゅっと縮み、頭の中の赤い熱が少しだけ冷めた。
無線機のランプが、静かに光っている。
あすみはそれを一度だけ見下ろし、何も押さずに、兵舎への道を歩き出した。




