Sky17-赤い折り紙
本作『SKY』は作者本人が小説家になろうにて連載・管理しています。無断転載・無断利用を禁じます。
誰かが、呼んでいる気がした。
深い水の底から、名前だけがぼんやり浮かんでくる。
「……レイナー二等兵」
硬い声。聞き覚えのある響きだった。
「レイナー。起きられるか?」
瞼が重い。ゆっくりと持ち上げると、視界の半分が白で埋まった。
天井。白いカーテン。鼻に抜ける消毒液の匂い。
規則正しく鳴る医療モニターの電子音が、遅れて耳に届く。
(……医務室)
そこまで思い出した時、こめかみの奥がきゅっと痛んだ。
「……っ」
思わず眉をしかめると、視界の端に影が差し込む。
「起きたか、レイナー二等兵」
眼鏡越しにこちらを覗き込んでいたのは、シラトだった。白衣の袖口から覗く端末が、淡い青色の光を返している。
「ここは北方第七基地の医務室。分かるか?」
「……はい。……頭が、ちょっと痛いです」
「だろうな」
シラトは苦笑しながら、手元の端末を操作する。
「オルタイト出力が限界値を超えた。しばらくは頭痛と倦怠感、それから眩暈が出る可能性が高い。驚くほど“普通の症状”だが、油断は禁物だ」
その言い方が少しおかしくて、アスミはかすかに笑いそうになった。
「どのくらい……寝てましたか」
「戦闘終了から、丸一日弱。今は翌日の午前だ」
――翌日。
そこで、記憶がようやく連続する。
山裾。砲座。赤く染まったバー。雪をえぐる閃光。
砲身を引き抜いた瞬間の、世界の輪郭が変わる感覚。そして、帰投ルートの途中で視界が白く滲んだところまで。
「……基地は?」
喉が少し渇いていた。それでも、その問いだけは最初に出てきた。
シラトは、はっきりと頷いた。
「外周壁は抉られたが、シェルターは無事。民間人の死者はゼロ。……君が、砲座を“抜いてくれた”おかげだな」
「……よかった」
本当に、心からそう思った。
胸の奥が、じんわりと温かくなる。同時に、少しだけ怖くもなった。
オルタイト反応値が、あれほどはっきり「赤」に染まるなんて。
分かってはいた。けれど、実戦で起きたことを思い出すだけで、指先がじんと重くなる。
「他に、変な自覚症状は?」
「……ちょっと、世界が……近かった、です」
「近かった?」
シラトが首をかしげる。
「雪とか、音とか……砲座の中とか。全部、線みたいに見えて……どこをどう通れば当たらないか、頭の中に勝手に浮かんで」
言葉にすると、ますます現実味が薄くなる。
「怖かったか?」
「……踏み込む前は。踏み込んだ後は、あんまり」
自分で答えながら、アスミは少しだけ目を伏せる。
「……怖いのは、その先に行かなかった時の方でした」
砲撃で吹き飛ぶ基地。シェルターごと埋まる地下。兄妹の声が途切れる瞬間。
そのイメージの方が、よほど怖かった。
シラトは、しばらく黙って彼女を見つめていた。
やがて、小さく息を吐く。
「正直に言うとな」
カルテを閉じ、椅子の背にもたれかかる。
「君みたいな反応値の持ち主は、医者としては“扱いたくない患者”だ」
「……え?」
「出力を絞れば、誰よりも頼りになる盾になる。踏み込み方を間違えれば、自分も周りも焼きかねない。だからみんな、君に期待しながら、同じくらい怖がってる」
アスミは、一瞬だけ言葉を失った。
(怖がられてる)
「……でも、今回の“赤”は、ギリギリのところで引き戻せている。バイタルログを見る限り、身体の限界を無視して暴走していたわけではない」
端末を軽く叩きながら言う。
「君が“嫌だ”と思ったところで止めたのか、オルタイトがそこで止まってくれたのかは分からない。でも、事実として――基地は生きているし、君もこうして話をしている」
シラトは、端末の表示を落とした。
「褒めはしない。あれを繰り返されたら、医務室がもたないからな」
「……はい」
「ひとまず、今日一日はここでおとなしくして。夕方までは観察入院。その後は、司令の判断だ」
シラトが立ち上がりかけて、ふと思い出したように振り返る。
「あぁ、そうそう」
「?」
「君のあだ名、勝手に決まりそうだから、覚悟しておいた方がいい」
「……あだ名?」
アスミが首をかしげると、シラトは表情を変えずに言った。
「そのうち嫌でも耳に入る。北方は、噂が回るのが早い」
そう言い残して、カーテンの向こうへ消えていった。
カーテンレールが、小さく乾いた音を立てた。
*
医務室のカーテンの外側、壁際のパイプ椅子にはセリが丸くなって寝ていた。
制服の上着を羽織ったまま、腕を組んで椅子に座り、首を傾げた不自然な姿勢。
長くなった前髪が額にかかり、寝息は驚くほど静かだ。
シラトがそっと肩に触れる。
「アンダーソン二等兵」
「……っす」
短く返事をして、セリは反射的に背筋を伸ばした。
次の瞬間、自分がどこにいるか思い出したらしく、慌てて立ち上がる。
「すみません、寝てました」
「そのまま床で寝られるよりはマシだ。首、痛くないか?」
「……まあ、ちょっと。で、アスミは?」
「目を覚ました。頭痛と倦怠感はあるが、命に別状なし。それと――」
シラトは、さっきと同じ説明をもう一度、端的に伝える。
セリの顔が少しだけ強ばった。
「ログを見る限り、“自爆覚悟”みたいな踏み込み方ではなかった。それだけは救いだ」
「……あいつ、自分には甘いくせに、他人のためには平気で無茶するから」
セリは苦々しそうに言った。
「俺が見てれば止められる、なんて、自信はないですけど」
「君が止める役なのか、飛ばせる役なのかは分からないが、今回のログは本部に送られたからな」
シラトが少しだけ意味ありげに言った。
セリはシラトを一瞬見ると、医務室のカーテンへ視線を戻した。
「中を覗いても構わんが、刺激はしないように。……怒って泣かせるなよ」
シラトはそう言うと、廊下を歩いて行った。
「泣くのは俺だっての」
セリは、そう呟くと、小さく舌打ちをするような顔でカーテンに手をかけた。
*
食堂は昼のピークを少し過ぎた時間帯で、騒がしさがまだ残っていた。
金属の食器が重なる音と、湯気の匂い。任務明けの兵士たちの声が、天井の低い照明に混ざっている。
「でよ、その瞬間よ」
マルコ伍長が、テーブルに肘をつきながら身振り手振りを交えて話している。
「雪庇のとこから、スコンって飛び出してさ。砲台の真上まで行くじゃん?」
「うんうん」
「そっからクルッと半回転して、砲身ぶっこ抜きだぞ? あれ見て股関節と腰を心配したの、俺だけか?」
「股関節心配するなよ」
向かいに座る地上兵が、笑いながらスプーンを回す。
「普通、あのタイミングで“生きて帰って来るかどうか”だろ」
「それも心配してたよ! でもさぁ……」
マルコは、テーブルの上に例のスープ皿を置き直し、指でぐるぐると縁をなぞった。
「最後、砲座んとこが薔薇みたいに開いたろ。赤く」
「言い方」
「いやマジで。雪と煙と火花が混じって、あんな色になるか普通?」
隣のラルフが、少しだけ顔をしかめる。
「あんま楽しそうに言わないでくださいよ。あっち側は、たぶん地獄なんですから」
「楽しんでるわけじゃねぇって。ただ……」
マルコは、さっき自分の口から出た言葉を思い出す。
『北方の赤い薔薇だな、ありゃ』
「口から勝手に出ちゃったんだよ。なんか、しっくりきちまってな」
「言い得て妙なのが腹立つんですよね……」
ラルフはため息をつく。
「で、それをまた食堂で広めてるマルコ伍長の悪癖ですよ。本人にバレたら、どう責任取るつもりなんですか」
「やべ。本人には絶対言うなよ」
自覚だけはあるらしい。
「でもさ、結果的に基地守ったのはあいつだぜ? あの兄妹も、避難集落も、司令棟も。誰かがあの砲座止めなきゃ、ここ全部穴あきチーズになってた」
「……それは、そうですけど」
「だからさ」
マルコは、スプーンでスープをひとすくいし、口に運ぶ。
「怖えのも分かるけどよ、俺は“あいつが味方で良かった”って方が先に来るんだわ」
その言葉に、そこにいた何人かが、小さく頷いた。
「北の赤い薔薇、ねぇ……」
「通信室にももう話回ってきてますよ。『あの子』ってだけで通じる時点で、割と終わってます」
「やっぱそうか」
笑い声が、湯気と一緒に天井に昇っていく。
医務室のベッドの上で眠っている本人に、その噂が届くのは、たぶんそう遠くない。
*
司令室の窓越しに見える外周壁には、まだ昨日の傷跡が生々しく残っていた。
黒く抉れた外壁。修理班のクレーンが行き来し、溶接の火花が雪の上に散る。
「……赤いな」
モニターに映る戦闘ログを眺めて、ハイルトンがぼそっと呟いた。
隣の画面には、オルタイト反応値のグラフ。
緑から黄色、オレンジへ。そこから一気に跳ね上がって、深い赤のゾーンに滑り込んでいる。
それは、きれいと言えばきれいで、同時にぞっとする色でもあった。
「踏み込みすぎですね」
キヌア中尉が腕を組んだまま言う。
「普通は、黄色の中で足がすくみます。あそこまで行って、“嫌だ”の一言で踏み切る新人は、あまり見たくありません」
「医務班はなんて?」
「身体的なダメージは“軽度のリバウンド”扱いに収まっています。脳波も異常なし。ただ――」
キヌアは別のレポートを表示させる。
「興味深いことがひとつ。出力ピークの直前、心拍数が一瞬だけ下がっています」
「下がる?」
「ええ。普通は恐怖や興奮で跳ね上がるところが、あの子は一瞬、すとんと落ちています。そのあと、『嫌だ』と呟いたタイミングでまた上がる」
ハイルトンは眉を上げた。
「……怖がって、震えながら踏んだわけじゃない、ってことか」
「たぶん、『それ以外の選択肢を捨てた』時の心拍ですよ。――あの兄妹の顔でも浮かべたんでしょう」
ナイルとハルの避難ログが、隅に小さく映る。
ハイルトンは、無精髭を指で撫でながら、しばらく黙っていた。
「どうします? 中央本部にはすでに戦闘ログが届いていると思いますが」
「簡単な話じゃないな」
ハイルトンは、窓の外に視線を滑らせる。
「上から見れば、“兵器”だ。オルタイトの塊に、自我がくっついてるようなもの。前線に出せって話がすぐにくるだろう」
キヌアは、ハイルトンが見ていた画面へ視線を移した。
「でも、現場から見れば“盾”です。あれだけの火力を一瞬で殺せる子は、そうはいません」
ハイルトンは、机の上に置かれた古い写真立てにちらりと目をやった。
若い頃の自分。ノーザンクロス。そこに並ぶ、懐かしい顔ぶれ。
「……あいつらが残した“願い”を、途中で放り投げる趣味はない」
写真には、小さな女の子を抱き上げるパイロットスーツの男と、微笑んでいる妻。
その隣には、子どもを抱き上げている白衣の女性医師と、髪をかき上げて笑っているパイロットスーツの青年が写っている。
ケイ・レイナー。
ノエル。
ミュラー。
それから――カイトとエリン。
「“純粋なオルディア”を、こっち側で生かして戻す。それがノエルの条件だった」
ハイルトンは写真を眺めながら静かに言った。
「本人には言わないんですか?」
「言えるわけないだろ。あの目で睨まれるのはごめんだ」
ハイルトンは小さく笑った。
「当面は、今まで通りだ。無茶はさせない。けど、引き剥がしもしない。“こっち側”で戦い方を覚えさせる。中央本部からの前線投入の打診は、極力止めておけ」
キヌアがため息を落とす。
「……楽な道ではないですね」
「楽な道なら、北に左遷されてないさ」
ハイルトンの目の奥だけが、わずかに鋭く光る。
「ケイの娘ってだけで、中央の奴らは喉から手が出るくらい欲しがってる。俺ができるのは、ここに長く止めることだけだ」
ハイルトンは、窓の外へ再び視線を移した。
外では、溶接の火花が雪に落ち、すぐに消えていく。
*
夕方になると、医務室の窓から西陽が差し込んだ。
窓の外の雪に夕陽が反射して、細かい光の粒が雪原一面に広がっていた。
アスミがベッドから窓の外を眺めていると、誰かが医務室の前に立った。
人影の背は低い。
アスミがそれに気づき、ベッドから降りてドアに手をかけると、廊下を走り去っていく足音がした。
ドアを開けると、赤い紙で折られた花が一つ置いてあった。
アスミはそれを拾い上げると、周囲を見回したが、廊下にはもう誰もいなかった。
顔の前で赤い紙の花をくるりと動かして、少しだけ微笑む。
「可愛い」
きっとハルかナイルが置いてくれたんだろうと、すぐに分かった。
アスミは、手の中にあるその花を、ベッド脇に吊るした上着の胸ポケットへ入れた。
オルタイトに反応する特別な血。
上限を振り切っても、壊れずに戻ってこられる身体。
そのおかげで基地を守れた。ナイルとハルを、自分の居場所を守れた。
それが、ほんの少しだけ誇らしかった。




