Sky17-赤い折り紙
⸺誰かが、呼んでいる気がした。
深い水の底から、名前だけがぼんやり浮かんでくる。
「……古賀二等兵」
固い声。聞き覚えのある響き。
「古賀。起きられるか?」
瞼が重い。
ゆっくりと持ち上げると、視界の半分が白で埋まった。
白い天井。
白いカーテン。
鼻に抜ける消毒液の匂い。
(……医務室)
そこまで思い出した時、こめかみの奥がきゅっと痛んだ。
「……っ」
思わず眉をしかめると、視界の端に影が差し込む。
「おはようございます、古賀二等兵」
眼鏡越しにこちらを覗き込んでいたのは、基地付きの軍医だった。
年の頃は三十代半ば、柔らかい表情の、どこか落ち着いた男だ。
「ここは北方第七基地医務室。分かりますか?」
「……はい。……頭が、ちょっと痛いです」
「でしょうね」
医師は苦笑しながら、手元の端末を操作する。
「オルタイト出力、初めて限界値を超えました。しばらくは頭痛と倦怠感、それか
ら眩暈が出る可能性が高い。驚くほど“普通の症状”ですが、油断は禁物です」
その言い方が少しおかしくて、あすみはかすかに笑いそうになった。
「どのくらい……寝てましたか」
「戦闘終了から、丸一日弱。今は次の日の午前です」
⸺翌日。
そこで、記憶がようやく連続する。
山裾。
砲座。
赤く染まったバー。
雪をえぐる閃光。
砲身を引き抜いた瞬間の、世界の輪郭が変わる感覚。
そして、帰投ルートの途中で視界が白く滲んだところまで。
「……基地は?」
喉が少し渇いていた。
それでも、その問いだけは最初に出てきた。
医師は、ほんの少しだけ目を細め、それからはっきりと頷いた。
「外周壁は抉られましたが、シェルターは無事。民間人の死者はゼロです。……あ
なたが、砲座を“抜いてくれた”おかげですよ」
「……よかった」
本当に、心からそう思った。
胸の奥が、じんわりと温かくなる。
同時に、少しだけ怖くもなった。
(あの赤いのが⸺)
自分の中に、あんな色があるなんて。
オルタイト反応値のバーが、あれほどはっきり「赤」に染まるなんて。
思い出しただけで、指先がじんと重くなる。
「他に、変な自覚症状は?」
「……ちょっと、世界が……近かった、です」
「近かった?」
医師が首をかしげる。
「雪とか、音とか……砲座の中とか。全部、線みたいに見えて……どこをどう通れ
ば当たらないか、頭の中に勝手に浮かんで」
言葉にすると、ますます現実味が薄くなる。
「怖かった、ですか?」
「……踏み込む前は。踏み込んだ後は、あんまり」
自分で答えながら、あすみは少しだけ目を伏せる。
「……怖いのは、その先に行かなかった時の方でした」
砲撃で吹き飛ぶ基地。
シェルターごと埋まる地下。
兄妹の声が途切れる瞬間。
そのイメージの方が、よほど怖かった。
医師は、しばらく黙って彼女を見つめていた。
やがて、小さく息を吐く。
「⸺正直に言うとね」
カルテを閉じ、椅子の背にもたれかかる。
「君みたいな反応値の持ち主は、医者としては“扱いたくない患者”なんですよ」
「……え?」
「出力を絞れば、誰よりも頼りになる盾になる。踏み込み方を間違えれば、自分も
周りも焼きかねない。だからみんな、君に期待しながら、同じくらい怖がってる」
あすみは、一瞬だけ言葉を失った。
(怖がられてる)
その感覚は、どこか懐かしい。
中学校の頃。
VRコロニーの中。
「保護」という名札の裏に張り付いていた、無言の距離。
「……でも、今回の“赤”は、ギリギリのところで引き戻せている。バイタルログを
見る限り、身体の限界を無視して暴走していたわけではない」
医師は端末を軽く叩きながら言う。
「君が“嫌だ”と思ったところで止めたのか、オルタイトがそこで止まってくれたの
かは分からない。でも、事実として⸺基地は生きているし、君もこうして話をし
ている」
「……迷惑、かけました」
「迷惑なんて言葉で片づけられる規模じゃないでしょう」
軽く笑う。
「褒めもしませんけどね。あれを繰り返されたら、医務室がもちません」
「……はい」
「ひとまず、今日一日はここでおとなしくしていてください。夕方までは観察入
院。その後は、司令の判断になります」
医師が立ち上がりかけて、ふと思い出したように振り返る。
「あぁ、そうそう」
「?」
「君のあだ名、勝手に決まりそうだから、覚悟しておきなさい」
「……あだ名?」
あすみが首をかしげると、医師は肩をすくめて笑った。
「そのうち嫌でも耳に入りますよ。⸺北方は、噂が回るのが早い」
そう言い残して、カーテンの向こうへ消えていった。
*
医務室のカーテンの外側、壁際のパイプ椅子には⸺ひとり、丸くなって寝てい
る男がいた。
セリだった。
制服の上着を羽織ったまま、腕を組んで椅子に座り、首を傾げた不自然な姿勢。
長くなった前髪が額にかかり、寝息は驚くほど静かだ。
医師がそっと肩に触れる。
「アンダーソン二等兵」
「……っす」
短く返事をして、反射的に背筋を伸ばす。
次の瞬間、自分がどこにいるか思い出したらしく、慌てて立ち上がった。
「すみません、寝てました」
「そのまま床で寝られるよりはマシですよ。首、痛くありませんか?」
「……まあ、ちょっと。で、古賀は?」
「ようやく目を覚ましました。頭痛と倦怠感はありますが、命に別状なし。それと
⸺」
医師は、さっきと同じ説明をもう一度、端的に伝える。
「やっぱり、赤まで行ったか」
セリの顔が少しだけ強ばる。
「ログを見る限り、“自爆覚悟”みたいな踏み込み方ではなかった。それだけは救い
ですが……あなたの言っていた通り、あの子のスロットルは“自分で引きちぎる”可
能性がある」
「……あいつ、自分には甘いくせに、他人のためには平気で無茶するから」
セリは苦々しそうに言った。
「俺が見てれば止められる、なんて、自信はないですけど」
「あなたが止める役目なのか、支える役目なのか。⸺それは、また司令が悩むで
しょうね」
医師が少しだけ意味ありげに笑う。
「中を覗いても構いませんが、刺激はしないように。……あまり泣かせないでくだ
さいよ」
「泣かせませんよ」
セリは、小さく舌打ちをするような顔でカーテンに手をかけた。
(泣いてるのは、こっちだっての)
胸の内だけで、誰にともなく呟く。
*
同じ頃⸺
北方第七基地・食堂。
昼のピークを少し過ぎた時間帯で、騒がしさはまだ残っていた。
「でよ、その瞬間よ」
マルコ伍長が、テーブルに肘をつきながら身振り手振りを交えて話している。
「雪庇んとこから、スコンって飛び出してさ。砲台の真上まで行くじゃん?」
「うんうん」
「そっからクルッと半回転して、砲身ぶっこ抜きだぞ? あれ見て股関節と腰を心
配したの、俺だけか?」
「股関節心配するなよ」
向かいに座る地上兵が、笑いながらスプーンを回す。
「普通、あのタイミングで“生きて帰って来るかどうか”だろ」
「それも心配してたよ! でもさぁ……」
マルコは、テーブルの上に例のスープ皿を置き直し、指でぐるぐると縁をなぞっ
た。
「最後、砲座んとこが薔薇みたいに開いたろ。赤く」
「言い方」
「いやマジで。雪と煙と火花が混じって、あんな色になるか普通?」
隣のラルフが、少しだけ顔をしかめる。
「あんま楽しそうに言わないでくださいよ。あっち側は、たぶん地獄なんですか
ら」
「楽しんでるわけじゃねぇって。ただ……」
マルコは、さっき自分の口から出た言葉を思い出す。
『北方の赤い薔薇だな、ありゃ』
「口から勝手に出ちゃったんだよ。なんか、しっくりきちまってな」
「言い得て妙なのが腹立つんですよね……」
ラルフはため息をつく。
「で、それをまた食堂で広めてるマルコ伍長の悪癖ですよ。本人にバレたら、どう
責任取るつもりなんですか」
「やべ、本人には絶対言うなな」
自覚だけはあるらしい。
「でもさ、結果的に基地守ったのはあいつだぜ? あの兄妹も、避難集落も、司令
棟も。誰かがあの砲座止めなきゃ、ここ全部穴あきチーズになってた」
「……それは、そうですけど」
「だからさ」
マルコは、スプーンでスープをひとすくいし、口に運ぶ。
「怖えのも分かるけどよ、俺は“あいつが味方で良かった”って方が先に来るんだ
わ」
その言葉に、そこにいた何人かが、小さく頷いた。
「北の赤い薔薇、ねぇ……」
「通信室にももう話回ってきてますよ。『あの子』ってだけで通じる時点で、割と
終わってます」
「やっぱそうか」
笑い声が、湯気と一緒に天井に昇っていく。
医務室のベッドの上で眠っている本人に、その噂が届くのは、たぶんそう遠くな
い。
*
司令室。
窓越しに見える外周壁には、まだ昨日の傷跡が生々しく残っていた。
黒く抉れた外壁。
修理班のクレーンが行き来し、溶接の火花が雪の上に散る。
「……赤いな」
モニターに映る戦闘ログを眺めて、ハイルトンがぼそっと呟いた。
隣の画面には、オルタイト反応値のグラフ。
緑から黄色、オレンジへ。
そこから一気に跳ね上がって、深い赤のゾーンに滑り込んでいる。
それは、きれいと言えばきれいで、同時にぞっとする色でもあった。
「初回にしちゃ、踏み込みすぎだな」
リーサ軍曹が腕を組んだまま言う。
「普通は、黄色の中で足がすくむ。あそこまで行って、“嫌だ”の一言で踏み切る新
人は、あまり見たくありません」
「医務班はなんて?」
「身体的なダメージは“軽度のリバウンド”扱いに収まってます。脳波も異常なし。
ただ⸺」
リーサは別のレポートを表示させる。
「興味深いことがひとつ。出力ピークの直前、心拍数が一瞬だけ下がってる」
「下がる?」
「ええ。普通は恐怖や興奮で跳ね上がるところが、あの子は一瞬、すとんと落ちて
る。そのあと、『嫌だ』って呟いたタイミングでまた上がる」
ハイルトンは眉を上げた。
「……怖がって、震えながら踏んだわけじゃない、ってことか」
「たぶん、『それ以外の選択肢を捨てた』時の心拍ですよ。⸺あの兄妹の顔でも
浮かべたんでしょう」
ナイルとハルの避難ログが、隅に小さく映る。
ハイルトンは、無精髭を指で撫でながら、しばらく黙っていた。
「たぬき」
リーサが、わざとらしくそう呼ぶ。
「どうします? この子の“赤くなり方”、どっちに転ぶか、現時点では判断しかね
ます」
「簡単な話じゃないな」
ハイルトンは、窓の外に視線を滑らせる。
白い基地。
黒い傷跡。
その下で行き来する人の影。
「上から見れば、“兵器”だ。オルタイトの塊に、自我がくっついてるようなもの。
前線から外せ、って声もきっと上がる」
「でも、現場から見れば“盾”です。あれだけの火力を一瞬で殺せる子は、そうはい
ない」
「それに⸺」
ハイルトンは、机の上に置かれた古い写真立てにちらりと目をやった。
若い頃の自分。
ノーザン・クロス。
そこに並ぶ、懐かしい顔ぶれ。
「……あいつらが残した“願い”を、途中で放り投げる趣味はない」
写真には、小さな女の子を抱き上げるパイロットスーツの男と微笑んでいる妻、それを見つめる子供を抱き上げている白衣を着た女性医師と、髪をかき上げて笑っているパイロットスーツの青年が写っている。
古賀ケイ。
ノエル。
ミュラー。
それから⸺カイトとエリン。
「“純粋なオルディア”を、こっち側で生かして戻す。それがノエルの条件だった」
「本人には言わないんですか?」
「言えるわけないだろ。あの目で睨まれるのはごめんだ」
ハイルトンは小さく笑った。
「当面は、今まで通りだ。無茶はさせない。けど、引き剥がしもしない。“こっち
側”で戦い方を覚えさせる」
「……楽な道ではないですね」
「楽な道なら、北に左遷されてないさ」
ハイルトンの目の奥だけが、わずかに鋭く光る。
「書類の上には、“赤い薔薇”なんて書けねぇからな。正式名称は『アルクトリア出
身オルタイト高反応搭乗員・古賀あすみ』だ」
「食堂と整備区画では、もう『赤い薔薇』が正式名称ですけど」
「知らん。俺の報告書は硬いんだよ」
司令室に、短い笑いが落ちる。
*
夕方。
医務室の窓から見える雪原が、少しだけ薄い桃色に染まり始めていた。
ベッドの上で上体を起こしたあすみは、重たい頭を枕に預けながら、外の色をぼ
んやり眺めていた。
(赤い)
夕焼けの色。
砲座の爆ぜた色。
バーに滲んだ色。
それらが全部、一瞬ごちゃ混ぜになる。
そこへ⸺
「失礼します」
控えめなノックの後、小さな影が二つ、カーテンの隙間から覗いた。
「あ」
あすみは思わず目を丸くする。
「ナイル君、ハル」
「……邪魔、だったか」
ナイルはいつものように、少しだけぶっきらぼうな顔で立っていた。
その隣で、ハルが両手で何かを大事そうに抱えている。
「ううん。入ってきて」
手招きすると、二人は恐る恐るベッドの近くまで来た。
「司令のおじさんが、行っていいって」
「“おじさん”は余計かも」
思わず笑ってしまう。
ハルが、おそるおそるといった様子で、抱えていたものを差し出した。
「これ……」
小さな手の上には、折り紙で作られた花があった。
少し不器用な折り目。
ぎこちない形。
でも、確かに花びらが幾重にも重なっている。
色は、真っ赤だった。
「ゆきのうえで、ひかったのと、おんなじいろだったから……」
ハルは、恥ずかしそうに俯きながら言う。
「おねえちゃん、あそこにいて、すごく、こわかったけど……きれいだったから」
あすみの胸の奥で、何かがふっと揺れた。
自分が見た赤は、もっとざらついた色だった。
爆炎と金属の磨耗と、血の気が引くような恐怖の混じった色。
この子には、それが「きれい」に見えていた。
「……ありがとう。すごく、きれい」
本音だった。
ナイルが、壁にもたれかかったまま、じっとこちらを見ている。
「死ぬかと思った」
ぽつりと零したその言葉は、責めるでも、笑うでもなく、ただの事実だった。
「砲の音、すごかった。床が揺れて、ハルが泣いて、……俺も、泣きそうだった」
「……ごめん」
あすみは、素直に頭を下げる。
「怖い思い、させちゃったね」
「違う」
ナイルが、すぐに首を振る。
「怖かったのは……何もできない自分だ」
その目は、あの日雪原で握りしめていた木の棒と同じ、悔しさを宿していた。
「お前、外に出て、あれ、止めた」
ナイルは窓の外を顎でしゃくる。
「だから、ここは、まだある。……それだけは、分かってる」
言葉を選ぶように、ひとつひとつ置いていく話し方だった。
あすみは、それを正面から受け止める。
「……ありがと」
小さく笑う。
「でも、ナイル君は、何もできなかったわけじゃないよ」
「?」
「ハルを、ちゃんと連れてきたでしょ。手、離さなかったでしょ」
ハルが、兄の袖をぎゅっと掴む。
「それだけで、十分だよ。⸺少なくとも、あの時の私より、ずっとえらい」
ナイルは、少しだけ目を丸くする。
あすみは、遠い日を思い出す。
火の海になった村。
気づいたら、自分だけが生き残っていた場所。
「私、昔ね。何も守れなかったことがあるの」
詳しくは話さない。
でも、それだけは伝えておきたくなった。
「だから、今は……怖くても、手を伸ばすって決めてる」
赤い折り紙の花を、手のひらにそっと乗せる。
「あの砲を止めたのは、私ひとりじゃないよ。ここにいるみんなと、ここで暮らし
てる人たちと⸺」
一度言葉を切って、窓の外の雪空を見る。
「それから、『怖かった』ってちゃんと言える人のおかげ」
ナイルは、何も言わなかった。
でも、その目から棘みたいなものが少しだけ抜けた気がした。
「……早く治せよ」
それが、彼なりの最大限の気遣いなのだと分かる。
「うん。すぐ戻る」
ハルがベッドの端をぽんぽんと叩く。
「はやく、また、ごはんたべよ?」
「うん。一緒にね」
その約束が、妙に現実感を連れてきた。
二人が医務室を出ていくと、再び静けさが戻る。
手のひらの上の赤い花を、あすみはじっと見つめた。
(……赤い、薔薇)
誰かが、外でそう呼んでいる気配が、かすかにする。
それが、褒め言葉なのか、恐れを込めた異名なのか。
今はまだ、分からない。
ただ⸺
「……私は、ここにいる」
小さく呟いて、花を枕元に置いた。
北方基地の空は、ゆっくりと群青に沈んでいく。
赤い薔薇が咲いた翌日も、雪はいつも通りに降り続けていた。




