Sky13-中立という鎖-
北方第七基地・司令部棟。
ブリーフィングルームの空気は、朝の冷気とは別の意味で冷たかった。
天井から下がる白い蛍光灯。
壁一面のスクリーンには、北半球の地図が俯瞰で映し出されている。
青、赤、そして薄い灰色。
連合加盟国は青で塗られ、帝国領は赤、そのどちらでもない細い帯と島々が、灰
色に浮かび上がっている。
その灰色の海の上に⸺小さく「第七基地」のマーカー。
(……灰色の上なんだ)
あすみは、胸の奥でぼんやりとつぶやいた。
SKY部隊、機動歩兵、通信、整備、事務方。
制服も作業着もごちゃ混ぜになった人間たちが、階段状の席にぎっしり座ってい
る。
前列の机には、今日の資料が積まれていた。
タイトルは、味気ない。
『アルクトリア皇国領内における武力行使制限に関する再確認』
紙の上の活字を見ているだけで、頭が固くなるような文言だ。
「⸺静かにしろ」
軽く咳払いをしながら前に出てきたのは、作戦担当のライル少佐だった。
その横から、あくびを噛み殺し損ねた司令官がひょいと顔を出す。
「続けろ~」
ハイルトン・グレイ大佐。
第一ボタンは今日も外されているが、その目だけはスクリーンの地図をじっと見
ている。
「では、大本営およびアルクトリア皇国からの通達を共有する」
少佐が端末を操作すると、地図の上に複数の線と斜線が重なった。
北方海域を挟んで、赤い帝国領と青い連合加盟国。
その真ん中あたりに、灰色で囲われた細長いエリア。
「まず前提として⸺ここアルクトリア皇国は、国際協定上“永世中立国”の扱い
だ」
少佐の声は、よく通るが平板だった。
「我々北方第七基地は、そのアルクトリア領内に置かれた“防衛拠点”に過ぎない。
連合軍であって連合軍でない。……この微妙な立場を、忘れないようにしてほし
い」
ざわっと、小さな息の動きが後ろの方で揺れる。
「先日の小規模交戦、および昨日の基地防衛戦を受けて⸺アルクトリア政府か
ら、“武力行使の条件の再確認を求める”照会が来ている」
スクリーンの片隅に、文書の一部が抜粋表示される。
『中立領域内における武装勢力の活動は、専ら防衛目的に限られるものとし⸺』
「要するに、“守るのは構わないが、戦争を拡大させるな”ということだ」
少佐が噛み砕くように言った。
「具体的には、以下の三点」
一つ、と指を立てる。
「一つ。SKY部隊および機動兵器が武力行使を許されるのは、“アルクトリア領
空・領海・領土内に敵が侵入、または侵入しようとした場合のみ”。こちらから国
境線を越えて攻撃することは禁止されている」
スクリーン上で、極細の白い線が帝国領との境目をなぞる。
その線の向こう側は、薄く赤く塗られたままだ。
「二つ。敵部隊が領外へ退いた場合、追撃は禁止。たとえ敵の背中が見えていて
も、国境線から先は撃てない」
ざわ、と今度は少し大きく空気が揺れた。
どこかで小さく「ふざけんなよ」という呟きが漏れ、隣の奴に肘でつつかれる音
が聞こえる。
「三つ。アルクトリア領外で発生した戦闘に対して、北方第七基地からSKY及び地
上部隊を“出撃させること”は原則禁止。例外は⸺」
と、少佐が資料の一行をなぞる。
「“救難及び人道目的に限る”。要は、難破船の救助や避難民の収容、災害支援など
に限る、ということだ」
(……それって)
あすみは、手元の紙に目を落とした。
ネジ一本でも宇宙に飛ばせる機体とパイロットがいても⸺
帝国と連合がどれだけ撃ち合っていても⸺
ここから飛べるのは、“ここに飛んで来たもの”に対してだけ。
後列のどこかから、ぼそっと声が漏れた。
「……そこまでがんじがらめにしなくてもいいんじゃないっすか」
笑い半分、苛立ち半分、といった響きだ。
ライル少佐は一瞬だけそちらに視線を向け、それから端末の画面を指先で軽く叩いた。
「“地上でオルタイトを本気で撃つな”って決まったのが、その条約だ」
「そんなに危ないんですか」
誰かの小さな疑問が、あすみの喉元にもひっかかる。
「昔、一回だけやらかした馬鹿がいてな」
今度は、前に立っていたハイルトンがぽつりと口を挟んだ。
「国がひとつ、地図から消えた」
ブリーフィングルームの空気が、きゅっと冷たくなる。
「そいつの代わりに、“地上使用禁止”って一行が紙の上に増えた。……現実が動くのなんて、そのくらい鈍い」
「以上が、アルクトリア側の要求だ」
少佐は淡々とまとめる。
「連合本部もこれに同意している。“アルクトリアを戦場にしない代わりに、北の
難民とオルタイト鉱脈への干渉を制限する”という政治取引だ。……詳しい内訳
は、俺も知らん」
最後だけ少しだけ苦笑が混じった。
「では、この前提で⸺今後の基地運用方針を、司令より」
少佐が一歩下がる。
代わって前に出たハイルトンは、相変わらずだらしない立ち姿のまま、両手をポ
ケットに突っ込んだ。
「……要するにだ」
最初の一言は、いつも通り緩い。
「ここは、“前線基地”じゃなくて、“中立国の防波堤”だってことだ」
スクリーン上の第七基地のマーカーを指で軽く叩く。
「帝国がこの灰色の上で暴れたら、中立国への侵略。連合がこの灰色から出張って
帝国を殴ったら、“中立国を盾に戦争してる”って話になる」
視線が、ゆっくり部屋を横断する。
「だから俺たちは、“ここまで”しか撃てない」
白い線。
E-5からG-6のラインが、地図の上で静かに光っている。
「お前らが血を流して守ったラインだ。悪いが、そのラインの向こうは、今は別の
誰かの仕事だ」
昨日の戦いの映像が、モニターの片隅で再生される。
雪煙の中、装甲車両の前に立ちはだかる白銀の機体。
砲撃を正面から受け止めて、膝で踏みとどまる姿。
(……SKY2)
あすみは、無意識に自分の機体番号を頭の中で呼んだ。
あの一歩先に、敵はまだいる。
あの一歩先で、誰かが死んでいるかもしれない。
なのに⸺
(飛べるのに、飛べない)
喉の奥で、言葉にならない言葉が渦を巻いた。
宇宙に出れば、どこまでが自分の届く範囲で、どこから先が届かないのか、HUDが教えてくれる。
ここでは、線を引いているのは地図じゃない。
条約と政治と、中立という単語だ。
「中立だからこそ、ここで守れる命もある」
ハイルトンが、ぽん、と白い線の後ろ側⸺北方基地と避難集落のマーカーが並
ぶエリアを指した。
「帝国にとっても、連合にとっても、“これ以上突っ込んだら面倒なことになる場
所”だ。だからこそ逃げてこれた連中がいる。ここに難民キャンプが作れた」
兄妹の部屋。
薄い毛布。
あどけない寝息。
あすみは、昨日見た小さな寝顔を思い出す。
「でもな」
そこで、ハイルトンの声が少しだけ低くなった。
「“中立だから守れない命”も、確かにある」
スクリーンの地図が、別の領域を映し出す。
西方の海沿い。
地上戦のニュース映像が、音を消されたまま流れた。
黒煙を上げる市街地。
崩れたビル。
爆走する戦車。
「西の前線で燃えてる街に、第七基地からSKYを飛ばすことはできない。アルクト
リア領上空を通過させた瞬間、中立条約違反だ」
淡々とした説明が、逆に重かった。
「だから、“飛べるのに飛べない”。そういう現場は、これからいくらでも出てくる」
(⸺言った)
胸の中のもやもやを、まるごと言葉にされた気がした。
視界の端で、マルコ伍長が拳を握るのが見える。
リーサ軍曹は、真顔で端末を見つめたままだ。
「中立ってのはな」
ハイルトンは、そこで一度だけ息を吐いた。
「どっちの死人も数えるって意味だ」
部屋の空気が、きゅっと締まる。
「帝国側の民間人が死んでも、西側の兵士が死んでも、“ここで手を出さないこ
と”を選んだ結果として、全部こっちの数字にも入る」
その言い方は、責めているようでいて、責めてはいなかった。
「それでも⸺“この灰色を戦場にしない”って決めたのが、アルクトリアであり、
連合であり、世界だ」
中立国の王家。
外交官。
協定にサインをした誰か。
あすみは、その顔を想像できない。
ただ、この基地にいる誰もが、その決定の上で働いている、ということだけが分
かる。
「現場の俺たちにできるのは、一つだ」
ハイルトンは、スクリーンに触れるのをやめて、こちらを見た。
「こっち側に逃げてきたやつは、絶対に守る。線の向こうで死ぬやつは⸺“数え
る”。目を背けない。それだけだ」
それだけだ、と言うには重すぎる仕事。
でも、他に嘘を混ぜようとしない言い方だった。
「……以上。質問があるなら、あとで作戦科か俺のところに来い。ここでは政治の
愚痴は禁止だ。言ってもいいが、誰も給料を上げてくれない」
最後だけ、いつもの調子を取り戻して笑いを取る。
乾いた笑いが、少しだけ部屋の緊張を緩めた。
「SKY部隊および機動歩兵は、このあと詳細ブリーフィング。その他の部署は通常
業務に戻れ」
解散の声とともに、椅子が一斉に軋んだ。
*
ブリーフィングルームを出ると、廊下には冷たい風の匂いが薄く漂っていた。
雪を運んできたような空気。
マルコが前を歩きながら、ぼそっと言った。
「……“どっちの死人も数える”、ね」
「中立って、そういうもんなんだろ」
隣の歩兵が肩をすくめる。
「あっちで死んだやつの分まで、こっちで血圧上げろってことだ」
「やだな、それ」
マルコは笑ったが、その笑いは乾いていた。
少し後ろを歩いていたあすみは、会話に割り込まず、その背中を見ていた。
(どっちの死人も、数える)
数字になる前に。
名前が消える前に。
あの小さな手。
黒い跡。
兄妹の部屋。
全部、混ざって胸の中に沈んでいる。
「お、Sランクさん」
背後から、ラルフの能天気な声が飛んできた。
「難しい話いっぱい聞かされた顔してるなー」
「……まあ、難しい話だった」
「中立とか条約とかは、俺ら整備にはよく分かんねぇけどさ」
ラルフは、肩をすくめて笑う。
「“ここから先に行くな”って線を決めてくれる奴がいないと、お前らはどこまでも
行こうとするからな。……それだけは分かる」
「ラルフ、それ悪口だぞ」
後ろからジンがぼそっと突っ込む。
でも、その声には少しだけ優しさが混じっていた。
「行けと言われれば飛ぶ。行くなと言われれば止まる。……それができなきゃ、パ
イロットも基地も潰れる」
ジンが、ポケットから煙草ケースを出しかけて、リーサの姿を見つけて慌てて引
っ込めた。
「吸うなって言いましたよね」
「まだ吸ってない」
「準備した時点でアウトです」
そんなやりとりを横目で見ながらも、あすみの頭は、さっきの白い線にまだ引っ
かかっていた。
(“ここまで”しか、飛べない)
分かっている。
条約がなければ、この基地ごと戦場に飲まれる。
兄妹の部屋も、雪かきに文句を言うマルコも、整備区画で文句を言うジンも。
何もかも一緒に、赤と青のどっちかに塗りつぶされてしまう。
(でも⸺)
「……飛べるのに、飛べないのはやっぱり嫌だな」
誰に向けたでもない小さな呟きは、廊下のざわめきにかき消された。
*
その日の夕方。
北方第七基地・本棟屋上。
風よけの壁の陰で、ハイルトンはコートの襟を立てて立っていた。
手には、湯気の出ていないマグカップ。
「……またここか」
背後から聞こえた声に振り向くと、そこにはあすみがいた。
昨日より、少しだけ顔つきが大人びて見えた。
「司令こそ、またここなんですね」
「ここはなぁ、サボるのにちょうどいいんだよ」
「サボりって言い切っちゃうんだ」
あすみは、隣に立って同じように空を見上げた。
雲の切れ間に、まだ明るい星が一つ二つ覗いている。
「さっきの、ブリーフィングの話ですけど」
「ん」
「“どっちの死人も数える”って、司令は本当にやってるんですか」
ハイルトンは、少しだけ目を細めた。
「どういう意味だ」
「……怖くないんですか」
言葉を選びながら、あすみは続ける。
「守れた人も、守れなかった人も、全部“自分たちの数字だ”って思ったら……」
自分でも、昨日と同じ質問をしていると気づく。
全部守ろうとしたら足が折れる。
全部抱えたら立てなくなる。
それでも⸺
「怖いに決まってるだろ」
あっさりとした返事だった。
「俺だって、偉そうなこと言ってる割に、寝る前に数字を数え始めると眠れなくな
る」
「……え」
「だから途中でやめて酒飲む」
肩をすくめる。
「ただな」
ハイルトンは、マグカップを空に突き上げるようにしてから、ゆっくり下ろし
た。
「数えないでいると、“誰も死んでない”ことになる。それはそれで、もっと嫌なん
だよ」
風が、少しだけ強く吹いた。
「中立ってのは、どっちの死人も数えるって意味だ。……それをしないなら、“中
立です”なんて格好つける資格はない」
その言い方は、どこか自嘲にも近かった。
「お前は、まだ全部数えようとするな」
視線が、横からあすみを捉える。
「“届いたところ”の顔だけでいい。兄妹の部屋とか、雪かき手伝ってくれた整備班
とか。……それだけで、しばらくは十分だ」
「“しばらくは”って言いましたね」
「いつか勝手に増えるからな、数字は」
苦い笑い。
「それでも飛ぶのが、お前らの仕事だ」
あすみは、空を見上げた。
灰色と群青の境目。
星と雲の境目。
白い線。
地図の上に引かれたそれを、今はまだ、自分の足で越えることはできない。
「……“ここまで”しか飛べないの、嫌です」
正直に言った。
「でも、“ここまで”は、ちゃんと飛びます」
ハイルトンは、少しだけ目を細めた。
「それでいい」
短く、それだけ。
「嫌だと思えるうちは、まだ大丈夫だ」
「“まだ”ですか」
「“もう”かもしれないな」
二人の間に、短い沈黙が落ちる。
雪の匂いを運ぶ風と、遠くで聞こえる整備区画の金属音。
この灰色の上で。
飛べるところと、飛べないところの境界を抱えたまま⸺
北方第七基地は、ゆっくりと夜に沈んでいった




