Sky116-交差する想い-
本作『SKY』は作者本人が小説家になろうにて連載・管理しています。無断転載・無断利用を禁じます。
NTO管轄宙域
NTO統合軍所属コロニー ワグナー3
コロニーの格納庫に停泊しているノーザンクロスの艦内は、いつもより静かだった。外では補給用のアームが艦体に接続され、定期的に金属の擦れる音を立てている。格納庫の天井には何層にも作業灯が並び、白い光が艦の外装を帯のように照らしていた。
補給のために停泊地へ入ると、当番以外の搭乗員たちは艦を降りる。買い出しに出る者、短い休暇を取る者。艦内に残る足音はまばらで、普段なら絶えず響いている整備班の怒鳴り声も、今は遠かった。閉じた隔壁の向こうで、荷下ろし用のリフトが上下する低い音だけが、途切れ途切れに伝わってくる。
外殻越しに伝わるコロニーの低い振動が、床の下でかすかに続いている。人工重力のわずかな揺らぎに合わせて、壁際の案内灯がごく薄く瞬いた。停泊中の艦にだけ流れる、どこか間の抜けた静けさだった。
CICにも、人の気配は少ない。低く唸る空調音と、端末が更新される微かな電子音だけが、薄暗い空間に残っていた。使われていない席のモニタは待機状態で、黒い画面に天井の非常灯だけが淡く映っている。
NTO側で報道が流れてから、艦内の空気は重く沈んでいた。
作戦指示の書き換え。非武装キャンプ。REDROSE。
断片的に流れてくる言葉は、どれもノーザンクロスの乗組員たちには重すぎた。誰も大声では言わない。ただ、整備区画でも、食堂でも、通路の端でも、本部がREDROSEに対して取った作戦指揮への不満は隠しきれなくなっていた。
顔を合わせれば、誰かが言葉を飲み込む。カップを置く音が、普段より硬く響く。端末の画面を見つめる者たちの目は、どこか一様に暗かった。壁に埋め込まれたニュース表示用の小型モニタはすでに消されていたが、黒くなった画面の前を通るたびに、誰かの足が一瞬だけ鈍る。
ラナは、その空気を押しとどめるように艦を預かっていた。乗組員たちの怒りと、NTO本部との間で、彼女はひとり揺れていた。
アンは当直席に座り、一人でホロ画面に向かっていた。
通信ログ、暗号回線、作戦前の更新履歴。複数の画面が半円を描くようにアンの前に浮かび、青白い文字列が静かに流れている。指先で画面を送っていたアンは、ふと動きを止める。視線だけを少し上げた。
「……次の作戦の情報、もう確認したでしょ。あんた、何してるの」
アンの前方、ジョンの席に、セリが勝手に座っていた。
椅子に深くもたれ、片手にコーヒーカップを持っている。制服の襟元はきちんと整っているのに、その姿勢だけが少し投げやりだった。カップの縁に触れた指先は、いつもよりわずかに力が入っている。ジョンの席に置かれた予備端末は、セリの腕の下で待機表示のまま小さく点滅していた。
「コーヒー飲んでる」
セリは悪びれもせずに答えた。
アンは上目遣いで呆れたように睨む。けれど、それ以上は何も言わず、止めていた指先をまた動かした。画面が一枚切り替わり、通信履歴の時刻が縦に並ぶ。
「もうすぐジョンが出勤してくるんだから、退きなさいよ」
セリは返事をしなかった。コーヒーを一口飲み、もう片方の手で携帯端末を見ている。
画面に映る文字を追う目が、いつもの軽さを少しだけ失っていた。ホロ画面の光が頬に落ち、その下で顎の線だけが硬く見える。カップから立つ湯気はすでに薄く、机の上に置かれたとき、小さな音だけがCICに響いた。
「お前、リークしてないよな」
アンの指が、再び止まった。何を見ているのかは、大体想像がつく。いま、外の世界を波立たせている、REDROSEをめぐる報道だ。
アンは口元だけをわずかに緩め、画面から目を離さずに答えた。
「私が? やるならリークじゃなくて、NTOの防衛システムにウイルスでも撒き散らしてやるわよ」
ホロ画面が切り替わる。通信ログから暗号システムへ。青白い光が、アンの瞳の中で細かく揺れた。冗談のように言った声は平坦だったが、その目だけは笑っていない。
「でも、流したやつには感謝してる」
アンは淡々と言った。
「私には、そこまではできなかったから」
セリはホロ画面越しにアンを見た。
その顔はいつも通りに整っている。けれど、声の奥には、拭いきれなかったものが沈んでいた。アンは画面を見ているふりをしながら、喉の奥で小さく息を押し殺している。背後の大型モニタには、艦内各区画の稼働状況だけが無機質に並んでいた。
セリはカップを机に置き、ゆっくりと席を立つ。椅子の脚が床をわずかに擦り、ジョンの席が小さく回った。
「言っておくけど、俺はもう監視役は降りたからな」
アンの指先が、わずかに止まる。
「本部に報告書も出してない」
それだけ言って、セリは背を向けた。
CICの扉が開き、廊下の白い光が一瞬だけ差し込む。すぐに扉は閉まり、セリの足音は遠ざかっていった。
アンはしばらく、その扉を見つめていた。やがて小さく息を吐き、誰に向けるでもなく呟く。
「だからなによ。本当、意味わかんない」
ホロ画面の光が、アンの頬を冷たく照らしていた。更新の終わった通信ログだけが、音もなく画面の中に残っている。
廊下に出ると、通路の向こうからジョンが歩いてくるのが見えた。誰かと電話していたのか、端末を耳から外し、ポケットにしまっていた。通路の壁にはコロニー停泊中を示す青い表示が流れ、床の誘導灯が艦橋方向へ細く伸びている。セリが手を上げると、ジョンはにっこりと笑いながら手を上げ返した。
「何やってんの、今日休みだったんじゃないの?」
ジョンがセリにそう言うと、セリはジョンの肩にポンと軽く手を置いて言った。
「感謝してるってよ」
ジョンが通路を歩いていくセリを振り返る。
「……何が?」
セリは振り返らなかった。そのまま通路を歩いていくセリの背中を、ジョンは立ち止まったまま見ていた。
廊下の照明が、二人の間に白い線を落としている。遠くで隔壁が閉まる音がして、ジョンは首を傾げたまま、しばらくその場を動かなかった。
ノーザンクロスの艦橋に向かう通路には、ブリーフィングルームがいくつか並んでいる。
艦長室に一番近いブリーフィングルームには、艦内に残っていた整備士や幹部が数人集まっていた。閉じられた扉の内側には、紙資料の匂いと、淹れたまま冷めたコーヒーの苦い匂いが残っている。壁際のホワイトボードには、停泊中の補給工程と次回作戦の簡略図が消されないまま残っていた。
「いつまで本部の言うことを聞いているつもりですか、艦長。エースが潰されたんですよ」
誰も大声を張り上げているわけではない。だが、抑え込まれた怒りは、むしろ部屋の空気を重くしていた。
整備士の一人が、握った拳を胸の前で固めている。爪が手袋の革に食い込んでいた。卓上に広げられた作戦資料の端が、空調の風でわずかに浮き、すぐに落ちる。
「REDROSEが撃つように、HUDの表示を書き換えるなんて、あり得ないでしょう」
ラナは胸の前で腕を組み、黙ってそれを聞いていた。隣に立つガナシュが、落ち着け、と低い声で乗組員たちをいなす。けれど、その声にもいつもの余裕はなかった。眉間に刻まれた皺が、部屋の空気をそのまま映している。
ラナは息を吸い込み、静かに話し始めた。
「今回の本部のやり方には、私だって到底同意できない。今後も同じようなことをする可能性があるなら、この艦の戦闘表示システムだけ別系統に切り替えることも検討する。すでに、うちの管轄元である北方基地のグレイ大佐とも話している」
乗組員たちは、黙ってラナを見ていた。誰かが唾を飲み込む音が、小さく聞こえた。
「でも、エースが潰れたことと、今回の件を混同しないように。REDROSEがこの状況にあるのは、本部のせいだけではない」
ラナは一人ずつ、集まった乗組員たちの顔を見た。
「そこは、間違えないで。いいわね」
その声は静かだった。
ブリーフィングルームの扉が開き、通信兵が入ってきた。閉じた空気の中へ、廊下の冷たい光が細く差し込む。
「艦長、北方基地のハイルトン大佐から通信が入ってます。至急とのことですが」
ラナはガナシュに目配せをすると、出入り口から通信室へ向かって歩いて行った。背筋は伸びているのに、その肩にはわずかに重みがあった。
「ほら、解散。解散だ。しっかり休め、せっかく停泊中なんだから」
ガナシュが乗組員を払うように両手を上でひらひらと動かした。何人かはなおも言いたげに口を開きかけたが、結局、誰も言葉にはしなかった。椅子の脚が床を擦り、ひとり、またひとりと部屋を出ていく。最後に残った冷めたコーヒーの表面だけが、照明を鈍く映していた。
同じ頃、医務室の横にある小さな隔離室から、機械の心拍音が一定のリズムで鳴っているのが、廊下まで小さく響いていた。
白い壁に取り付けられた表示灯は、異常なしを示す淡い緑色を保っている。消毒液の匂いが、空調の風に混じって廊下へ薄く流れていた。隔離室の扉には小さな観察窓があり、その奥で白いカーテンが動かずに垂れている。
隔離室の扉の横にある椅子には、シュタイナーが静かに座って端末を操作していた。膝の上に置かれた端末には、報道画像と作戦資料が並んでいる。指先は動いているのに、視線は時折、扉の小窓へ吸い寄せられていた。廊下の照明が、シュタイナーの足元に細い影を落としている。
通路を歩いてくる足音がして、すぐ近くで止んだ。
シュタイナーが音のした方に顔を上げると、ミュラーとサラが立っていた。
「またここにいたのか」
ミュラーはシュタイナーの端末に表示されている報道画像に一瞬だけ目をやると、隔離室の小窓の方へ視線を向けた。表情は変わらない。ただ、顎の奥に力が入っている。
「コロニーに出てやることも特にないので、ここで仕事をしていました」
シュタイナーは端末を椅子に置くと、柔らかく微笑んでミュラーとサラを見た。
「今日も、あまり変わりはありません。とても静かです」
サラが隔離室の小窓から中を覗きながら言った。小窓のガラスには、サラの横顔と廊下の緑の表示灯が重なって映っている。
「静かな方がいいわ。今は外が少し騒がしいから」
隔離室の中までは、報道も戦況も届かない。
ミュラーには、今はそれが、唯一の救いのような気がしていた。小窓の奥に見える白い寝具と、規則正しく上下する機械の表示だけが、外の騒ぎから切り離された別の時間を作っている。
「ミュラー」
後ろからガナシュが通路を歩いてきた。
先ほどまで乗組員たちをいなしていたせいか、その声にはわずかな疲れが混じっている。ガナシュの足音はいつもより少し重く、廊下の床に低く響いた。
「艦長が呼んでる。行けるか」
ミュラーは振り返ると、ガナシュを見てから、サラを見た。
「行ってくる」
サラは微笑んで頷いた。
「私はここでシュタイナーさんと話してから戻る」
ミュラーもその言葉に頷き、ガナシュの後ろを歩いて行った。
軍靴の音が遠ざかっていく。サラは、その音が角を曲がるまで聞いていた。隔離室の表示灯は、変わらず淡い緑のままだった。
シュタイナーが、その後ろ姿をぼんやりと見送りながら呟く。
「エリス中尉は優しいですね」
サラは、シュタイナーのその言葉に、少し笑った。
「そう見える? ヴィーラに乗れなくなった頃は、もっと荒れてたのよ。口ももっと悪かった」
シュタイナーが驚いた顔をしたのに、サラはまた少し口元を緩めた。
「彼が家から出てこなくなった時、私、鍵のかかっている扉を石で壊そうとしたの」
そう言って、シュタイナーの隣に腰掛けると、隔離室の方を見上げた。
扉の小窓の向こうは静かだった。心拍音だけが、二人の間に規則正しく落ちてくる。
「……誰か、この扉を石で壊せればいいのにね」
廊下には、また静かに機械音が一定に鳴り響いていた。
ガナシュとミュラーが艦長室に入ると、ラナはハイルトンと話していた。ちょうど通話を終えるタイミングだったのか、ホロ画面が切れると、ラナは机に両手をついた。通信の残光が消えていく。艦長室の照明が、机の表面に薄く反射していた。壁際の航路図には、ワグナー3と北方基地を結ぶ航路が淡い線で表示されている。
ラナは、ミュラーたちが入ってきていることに気づかずに、ぽつりと言葉をこぼした。
「……冗談でしょ」
後ろに立っているミュラーに気づくと、姿勢を整え直して、ガナシュに言った。
「ガナシュ、扉にロックを。ハイルトンからの連絡事項を説明する」
ガナシュは扉の方へ歩いていく。ミュラーはラナに向かって聞いた。
「本部がまた、いちゃもんでもつけてきたんですか」
ミュラーの言葉に、ラナは鼻で笑って返した。
「いちゃもんではないわね。どちらかというと、本部にとっては計算外なことかもしれないわ」
艦長室の自動扉の表示色が、青から赤へと切り替わった。扉のロック音が短く鳴り、部屋の外の気配が遮られる。
隔離室に続く通路では、サラとシュタイナーがまだ座っていた。回診のため隔離室に来たエリンが二人に声をかける。白い医療用ケースを片手に持ち、もう片方の手にはセキュリティカードを挟んでいた。
「二人とも、外に出ないの? せっかくお休みなのに」
エリンはセキュリティカードを取り出しながら、扉の前で止まった。カードリーダーの小さなランプが、扉の横で緑色に点滅している。
「はい、ここでシュタイナーさんとお話ししてました」
サラがシュタイナーに笑いかける。シュタイナーはエリンに視線を送ると、黙って隔離室へ目をやった。
「中にはまだ入れないの。ごめんなさいね、入れるようになったら知らせるから」
シュタイナーは、黙って頷いた。そして、エリンは扉のロックを開けて中へ入っていった。認証音が鳴り、厚い扉が左右へわずかに開く。閉じる直前、隔離室の冷たい白い光が廊下へ細く漏れた。
中へ入ると、呼吸器の計測機器においてある端末の回診画面を確認して脈を測る。ここ数日、特に大きな変化はなく状態は膠着していた。ベッド脇のモニタには、心拍と呼吸の波形が規則正しく流れている。端末を小さな机の上に置くと、ベッドの脇の椅子に座り、シーツの上に投げ出されたアスミの手を両手で包む。指先は冷たい。けれど、そこにはまだ、確かに熱が残っている。
入隊して、すぐにREDROSEと呼ばれ、責任を全うしようとした、普通の子。添えた両手に力を込める。
「あなたは、泥の中で咲く蓮であればいい」
エリンは、眠るように動かないその手に、静かに言った。
「REDROSEから降りていい。もういいのよ」
静かな隔離室の中には、機械音と時計の音が一定に鳴り続けている。白い壁に落ちたエリンの影だけが、ベッドの横でわずかに揺れていた。
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