Sky114-幸せな箱庭-
本作『SKY』は作者本人が小説家になろうにて連載・管理しています。無断転載・無断利用を禁じます。
オルテア帝国 ルクスグラン郊外
聖イナンナ養護院
森を抜けると、大きな正門が見えた。門の向こうには広い庭があり、季節ごとの花が、道に沿って丁寧に植えられている。建物の脇には小さな畑があった。子供たちが手入れをしているのだろう。低い柵には、花や鳥や、動物の絵が一枚ずつ描かれていた。
石造りの三階建ての建物は、古いが荒れてはいない。窓枠には曇りひとつなく、壁の蔦も、伸びすぎる前に切り揃えられている。隣には小さな聖堂が寄り添うように建っていた。
庭から、子供たちの声が聞こえていた。
誰かが走り、誰かが追いかける。靴底が芝を蹴る音に、小さな笑い声が重なり、やがてそれを別の笑い声が追い越していく。大小さまざまな声は、どれも明るく、聖堂の厚い壁越しにも、ひとつの幸せな音として届いていた。
聖イナンナ養護院は、オルテア帝国が対オルディア政策の一環として掲げた早期育成の過程で、保護対象となった子供たちを受け入れている。皇太子ノア・オルディアの管轄下に置かれ、十八歳になるまで衣食住を保証される場所。帝国の広報資料には、そう記されている。
けれど、ここに来るたび、ノアはその説明の薄さを思う。
汚れのない綺麗な壁。洗い立ての寝具。使い回しではない、高級な食器。善意に見えるものほど、汚れを隠すのがうまい。
聖堂の正面に掲げられた壁画を静かに見上げた。聖イナンナを模った女神は、幼子を抱いている。古い絵具で描かれた顔は穏やかで、祈る者を咎めもしなければ、救うとも言わない。ただ、そこに在るだけだった。
子供たちの声を聞いていると、幼い頃にいなくなった弟を思い出す。
あの頃、弟はまだ赤子に近かった。母親とともに姿を消し、国内では死んだものとして扱われている。
だが、ノアには分かっていた。
死んだのではない。死んだことにされたのだ。弟は、この養護院にいる子供たちと同じだった。
「お待たせして、申し訳ございません」
小さな聖堂の扉が開いた。入ってきたのは、聖職者である証のグレーの服をまとったシスターだった。年齢はノアより少し上だろう。歩く音は控えめで、けれど迷いがない。この場所で長く子供たちを見てきた者の足取りだった。
ノアは壁画から視線を下ろし、ゆっくりと彼女を見る。
「皆、変わりないようだな。物資や食料の配給は足りているか」
シスターはノアの少し後ろで立ち止まり、柔らかく微笑んだ。
「十分に届いております。殿下の手厚い庇護のおかげです」
ノアは微笑み返さなかった。窓の外では、子供の一人が転び、すぐに別の子供が手を差し伸べていた。差し出された手を掴んだ子供は、泣くより先に笑って立ち上がる。
「今月は、何人連れて行かれた」
声を落として問いかけると、シスターの表情がかすかに曇った。
「五人、連れて行かれました」
ノアは黙っていた。
「戻ってきたのは、二人です。また、新しい子供たちが三人入りました」
庭の笑い声が、少し遠くなる。
「……どの子も、OD因子が発現している子ばかりです。オルテア人も、オルディア人も、関係なく」
背中で組んだノアの手に、わずかに力が入った。爪の先が手袋越しに掌へ沈む。痛みはない。ただ、力を抜く理由もなかった。
「いつも、気苦労をかけてすまないな」
シスターは首を横に振った。
「いいえ。私たちの苦労など、殿下と比べれば小さなものです」
ノアの口元が、ほんの少しだけ緩む。
「比べるものでもないだろう」窓の外を見たまま、言葉を続けた。
「これは、あの子たちへの贖罪のようなものだ」
その言葉が、聖堂の床に静かに落ちる。贖罪。口にしたところで、何かが償われるわけではない。連れて行かれた五人は五人のままで、戻ってきた二人は三人分の空白を埋められない。
「……偽善的で、勝手だと分かっている」
庭の木のところに、子供が二人寄り添って座っている。腕には包帯が何重にも巻かれ、一人は眼帯をしていた。
ノアはその子供に目をやると、シスターに聞いた。
「包帯をしている子供たちが、戻ってきた子か」
シスターは窓の外を見て、少し戸惑ったように言った。
「はい。戻ってきてから笑わなくなってしまって。ずっと二人でああやって隅にいるんです」
怯えている少年を守るように、眼帯をしている少年が周囲を見ていた。
「殿下。皇王陛下の許可されている政策の中で、いったい何が行われているのでしょうか」
シスターは子供たちから目を離さずにノアに聞いた。
「連れて行かれた子供たちは、軍で働いていると聞いています。しかし、誰一人ここへ戻ることはありません。
この国は……いえ、皇王陛下は、これほどまでに長い月日をかけて、いったい何を探されているのでしょうか」
窓の向こうで、一人の少年がノアに気づき、こちらへ手を振った。ノアは軽く手を上げて応える。
少年は満面の笑みを浮かべ、また庭へ駆けていった。
シスターは、その横顔を哀しそうに見ていた。しばらくしてから、彼女はためらうように口を開く。
「殿下。ジョシュアは、元気にしておりますか」
その名を聞いた瞬間、ノアはようやく彼女の方を見た。ほんのわずかに、表情が柔らかくなる。
「ジョシュアか。元気だよ。相変わらず、ビルと言い合っている」
シスターは、胸を撫で下ろしたように微笑んだ。
「この養護院を出ていった子の今を聞けるのは、殿下のお側にいるジョシュアだけです」
ノアは何も言わない。
「あの子の話が今も聞けること。それが、殿下のされてきたことの答えではないでしょうか」
ノアは、その言葉を受け取らなかった。受け取ってしまえば、ここで笑っている子供たちが救われたような顔をしなければならない。だが、ここは救済の場所ではない。帝国が奪い損ねた子供たちを、かろうじて置いているだけの場所だった。
その時、聖堂の扉が勢いよく開いた。さきほど窓の外から手を振っていた少年が、息を弾ませながら駆け込んでくる。
「皇太子さま、また来たの!」
少年はそのままノアへ駆け寄り、小さな手で彼の手を握った。
「あそぼう」
見上げる顔は、疑うことを知らない。ノアは膝を折らず、ただ静かに少年の頭へ手を置いた。
柔らかな髪の感触が、手袋越しに伝わる。
「今日は、あまり時間がないんだ」
シスターが少年の肩に手を添える。
「ラーリス。殿下はお忙しい中、来てくださったのですよ」
ラーリスは少しだけ唇を尖らせたが、すぐにノアを見上げた。ノアはその表情に、小さく息を吐く。
「またすぐに遊びに来る。それまで、良い子にしているんだぞ」
ノアがそう言うと、ラーリスはぱっと笑い、力強く頷いた。
「うん!」
少年の声が聖堂に跳ねる。その明るさが、ノアには少し眩しかった。
シスターに促され、ラーリスは名残惜しそうに振り返りながら外へ戻っていく。扉が閉じる直前、庭の光が細く差し込み、また遮られた。
ノアは数秒だけ、その扉を見つめていた。シスターはノアを見つめ、胸に手を置いて言った。
「殿下に聖イナンナのご加護が在らんことを」
ノアはシスターに向かって微笑むと、静かに頷いて踵を返す。
この場所は、オルテアで唯一、自分の手が届く場所だ。それでも、止められないものがある。
耳に残っていたシスターの言葉が小さく落ちる。
REDROSEを捕獲するのは、オルテアのためだ。オルテアのために、この馬鹿げた戦争を終わらせるために。
子供をこれ以上壊さないようにするために。そのために高適合者が必要だ。
では、この国の適合者と判別された子供は、いったいなんのために集められている。
腐ったのは、この国か。
それとも――。
ノアは聖堂の扉を開けた。外の光が、一瞬だけ白く視界を満たす。
庭では、子供たちがまだ笑っていた。その幸せな声の中を、ノアは一人で歩いていった。
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