Sky113-波打つ世界-
本作『SKY』は作者本人が小説家になろうにて連載・管理しています。無断転載・無断利用を禁じます。
NTO中央統合本部、情報通信課。
ロイ・ラブラトリーは、情報通信課の中でもちょっとした有名人だった。
優しく、物腰が柔らかい。足を負傷して前線から退いたにもかかわらず、退役も地方支部への転属もせず、軍の上層部がわざわざ本部中枢へ呼び寄せた人物だった。
情報通信課は、統合本部の別棟に連なる新しい近代的な建物の二階にあった。
壁面は白く、廊下はどこまでも清潔で、作戦棟のような油と金属の匂いはしない。窓からは滑走レーンと倉庫群が一望できた。輸送機の影が遠くを横切り、格納庫の扉が低い音を立てて開いていく。
非常時には地下でも業務を継続できるよう、建物の下には巨大な非常用電源を備えたシェルターまで用意されていた。
この場所は、前線から離れているように見えて、いつでも戦場と繋がっている。
真新しいタイルの上に、靴音が響いた。軍靴ではない。仕立ての良い革靴の、硬いヒールの音だった。
それはゆっくりと近づいてきて、情報通信課の扉の前で止まった。
扉が開くと、中にいた技官たちが一斉に顔を上げた。端末の上を走っていた指が止まり、誰かの椅子が床を小さく擦る。
「ロイ・ラブラトリーはどこにいる」
低く抑えた声が、室内の端末音を裂いた。
近くにいた若い技官が慌てて立ち上がり、背筋を伸ばす。
「チャンティ副司令官」
「ここにいます」
大型モニターの前から、ロイの声がした。
ロイは表示されていた通信経路の一覧から顔を上げ、穏やかな表情のままイルを見た。
イルはそちらへ顔を向けると、軽く息を吐いた。
見かけるたびに眉間に皺を寄せ、難しい顔をしている男だったが、今日はいつも以上に表情が険しい。口元に余裕はなく、目の奥に、何かを抑え込んでいるような硬さがあった。
「一緒に来てくれないか。至急の案件だ」
ロイは端末の表示を一度だけ確認した。開いたままのログ。未処理の通信記録。画面の隅で点滅する警告表示。
それらを目に収めてから、何も聞かずに頷いた。
「分かりました」
椅子を引く音が、静かな室内に小さく響いた。ロイが立ち上がると、周囲の技官たちは目を合わせないまま作業へ戻った。だが、誰もが耳だけはこちらへ向けている。NTO統合軍副司令官が直々に呼びにくるなど、本来はありえない事だ。
ロイはそれを感じながら、机の端に指を添え、右足へ体重を移す時間をほんの少しだけ作った。
イルはそれ以上何も言わず、踵を返した。ロイは右足をわずかに庇いながら、その背を追った。
扉が閉まる直前まで、革靴の音だけが廊下に硬く残っていた。
通信端末と大型のホロ画面が用意された会議室には、作戦本部長をはじめ、中将級の高官たちが机を囲むように座っていた。窓のない部屋で壁面は厚く、外の音は入ってこない。
端末の低い駆動音だけが、広い室内に薄く響いている。天井の照明は明るすぎるほど白く、机の上に投影された文字列を、紙のように冷たく浮かび上がらせていた。
ロイはイルの後ろに続き、案内された席に腰を下ろした。右膝に鈍い痛みが走る。表情には出さず、背筋を伸ばした。机の表面には、すでに複数の資料が投影されている。
作戦番号、通信経路、指揮系統の一覧。そのどれもが、先日のREDROSEの作戦に関わるものだった。
「急に呼び出して申し訳ないね」
作戦参謀長が、穏やかすぎる声で言った。
ロイはそちらへ顔を向け、軽く頭を下げた。
「いえ」
イルは机の上に両手を乗せ、指を組んだ。その仕草だけで、会議室の空気がわずかに沈み、誰かが資料を捲る音を止める。
「早速だが、本題に入る」
イルの声は低かった。ロイは何も言わず、正面を見た。
「REDROSEが戦線離脱した先日の作戦についてだ。作戦指示が書き換えられたことを示す証拠ログが、どこからかマスコミ各社に送られたと聞いている」
イルの目が、まっすぐロイを捉えた。
「ロイ。知っていることは?」
会議室の端で、誰かが小さく息を呑んだ。それは、問いかけというより、あらかじめ置かれた刃のようだった。
これは尋問か。
ロイは背筋を伸ばし、イルの視線を受け止めた。膝の奥に残る痛みが、かえって意識をはっきりさせた。
「何のことか分かりません」
REDROSEが戦線を離脱した。先日の戦闘ログから、アスミちゃんが戦場に出ていないことは把握していた。だが、一体何が起きているのか。あの子が自分の意思で戦場を離れたとは思えない。
ロイは静かに息を吸い、問い返した。
「なぜ、彼女は戦線を離脱しているのでしょうか」
その一言で、会議室の音が途端に消えた。
先ほどまでのざわつきも、紙を捲る音も、誰かが椅子に座り直す音も止まる。耳に入るのは、空調の静かな換気音だけだった。
ロイは卓上を囲む人々の顔を一周し、最後にイルへと視線を戻した。
イルは微動だにしない。ただ静かに、机の上で両手を組んでいる。けれど、その指先にだけ、わずかな力が入っているように見えた。
「答えてはいただけないのですか」
会議室の中を見渡して言っても、誰も口を開こうとはしなかった。幕臣というのは、都合の悪い事には口をつぐむのが通例か。
ロイがため息を吐くと、末席に座っていたホルスト大佐が、口を開いた。
「REDROSEを少々甘やかしたのではないか。あんなことで戦線離脱など。あの“箱庭”に眠らせたから、片方は戦力外、もう片方は行方不明になった」
ロイとイルが、同時にホルストを見た。どちらも笑ってはいない。表情もほとんど動かない。
だが、VR保護システムを創った自分たちに対して、その言葉がどういう意図で向けられているのかは理解できた。
その言葉の中にあるのは、使えなくなった戦力を評価する目だけだった。
ロイは右膝に置いた手を、ゆっくりと握り込んだ。痛みのある場所を押さえるようにして、声が荒れるのを抑える。
「確かに、箱庭を作り、管理していたのは我々です」
低い声だった。会議室の端末音が、その声の下で薄く震えた。
「しかし、彼女を兵器にしたのは貴方方だ。軍の保護下に置いた時点で、いつか兵器として使うつもりだったのではありませんか」
会議室に、ざわつきが戻った。抑えた声で誰かが隣の者に囁き、別の誰かが机の上の資料を動かす。投影された文字列が、指先に乱されて薄く揺れた。
誰かが、ロイに向かって吐き捨てるように言った。
「君だってまだ13歳にもなっていない息子を監視役として差し出した。REDROSEを兵器にしたなどと、馬鹿馬鹿しいことを言うな」
差し出した。それは、自分だけへの言葉か。
アスミとカイトを眠らせた、エリンやノエルたちの事も含まれているのか。
ロイの膝を掴む手に力が入り、手の甲に血管が浮かんだ。目の奥が熱くなる。
「私の息子は人質ではない!」
会議室に響いた声が、再び沈黙を作り出した。
ロイ自身も、自分の声がそれほど強く出たことに一瞬だけ驚いた。だが、引くつもりはなかった。
ゆっくりと顔を上げ、卓上を囲む高官たちを見据えた。
「息子はすべてを理解したうえで、あそこにいます。彼は自らの意思で保護カプセルに眠っていたあの子たちを守りたいと言って軍に入った」
保護カプセルを見つめていた幼いジョンの横顔が、ロイの脳裏に浮かんだ。
小さな手をガラスに添え、何も言わずに眠る子供たちを見つめていた、あの日の横顔。
青白い保護灯の中で、眠っていた子供たち。
あの時、ジョンは言った。彼らが眠っていても友達になれると。その横顔を、ロイは今でも忘れられない。
あの子たちを、眠ったままの子供としてではなく、いつか隣に立つ誰かとして見ていた息子の横顔を。
ロイは唇を引き結び、低く告げた。
「私の息子も、貴方方が見捨てたノエルとケイ・レイナーの娘も、断じて、貴方方の駒ではない」
その言葉は、会議室に重く落ちた。
イルは瞼を閉じ、組んだ手に力を込めた。爪が、手袋越しに甲へ食い込む。
誰もすぐには口を開かなかった。端末の駆動音だけが、やけに大きく聞こえている。
その直後、通信士官が慌てて入ってきた。扉のところで一瞬だけ敬礼すると、すぐに大きな声で告げる。
「複数の報道機関が、先日の作戦指示が書き換えられたことを示す証拠ログを同時に公開し始めました」
壁面の大型ホログラム画面が立ち上がり、ニュースフィードが開いた。
光の帯が走り、無数の見出しが会議室の壁面に並んでいく。画面が切り替わるたびに、青白い光が高官たちの顔を撫でた。
作戦番号。指示書き換え。REDROSE。非武装キャンプ。
その単語だけが、白い文字となって浮かび上がっていた。
高官たちは沈黙していた。ロイは画面を見上げたまま、何も言わなかった。
隣でイルがゆっくりと瞼を上げる。イルは画面を見ると、通信士官に短く言った。
「全記録を凍結しろ。削除命令を出した者も記録に残せ」
通信士官の喉が小さく鳴った。
「了解しました」
敬礼の音が、乾いて響いた。ホログラムの光が、会議室に座る高官たちの顔を青白く照らしていた。
会議室から戻る廊下の途中で、ロイは携帯端末を取り出して電話をかけた。
廊下は先ほどよりも長く感じた。磨き上げられた床に、ロイの足音だけが残っている。右足を庇うたびに、かすかな痛みが膝の奥から上がってくる。
電話口の向こうからジョンの声が聞こえた。ロイは、安心したように笑った。
「元気にしてるか」
ジョンの声は落ち着いていた。いつもよりも少し低い。
『ニュース見て連絡してきたんだろ』
ロイは端末を持つ手に力を込めた。声を聞いた瞬間に気づいた。
流したのは息子だ。
「何かやったのか」
ジョンは一瞬だけ黙った。その沈黙だけで、十分だった。
『ミュラー中尉が残せって言って残したログを、俺の判断でマスコミに流した』
ロイは瞼を閉じて、天井へ向かって顔を上げた。白い照明が、閉じた瞼の裏に淡く滲む。
「お前が持つのは、鍵だと教えたはずだ」
意思を固めた時のジョンの声は、いつもよりもほんの少しだけ低くなる。
CICという情報の鍵を扱う部署で働くことになった時に教えたことを、ここで使った。
開けるもの。閉じるもの。守るもの。その判断を、ジョンは自分で選んだ。
『父さん』
ジョンが電話の向こうで少しだけ息を吸ったのが分かった。
『俺はずっと嘘をついてきた。見ていないふりをして、知らないふりをして。俺が持っていたのは、あいつらに何かあった時、開けるための鍵だ。アスミ一人に背負わせて、終わらせたりしない』
ロイは喉の奥に込み上げるものを押し殺した。端末を持つ指が震えそうになる。
廊下の白い壁に視線を向け、声が崩れないように、ゆっくり息を吐いた。
「最後まで、その“嘘”を突き通せ。覚えてるな」
電話の向こうで、ジョンが小さく笑った。それは、幼い頃から変わらない笑い方だった。
困った時ほど、少しだけ明るく笑う。
『覚えてるよ。約束しただろ』
ロイは何も言えなかった。ただ、端末を耳に当てたまま、廊下の先を見ていた。
遠くで警告音が鳴っている。統合本部のどこかで、また新しい通信が開かれていく。
世界は静かに、しかし確かに波打ち始めていた。
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