Sky111-情報の精度-
本作『SKY』は作者本人が小説家になろうにて連載・管理しています。無断転載・無断利用を禁じます。
ルクスグランのカフェには、朝から通勤客の列ができていた。
店内の照明はまだ夜の名残を引きずっているように淡く、ガラス張りの壁の向こうでは、首都の大通りを行き交う人々が同じ速度で流れていた。朝食を職場で済ませる客も多く、通勤時間帯になると、レジの前は人で溢れかえった。湯気の立つ紙カップ、焼きたてのパンの匂い、端末を片手にしたまま注文を済ませる客の声。そのどれもが、朝のルクスグランでは見慣れた光景だった。
カイトはカフェのテラス席に座り、冷めかけたコーヒーを前に、端末でニュースを見ていた。
画面には、帝国議会の動きや港湾再開発の経済効果、前線から戻った輸送艦隊の到着予定が、短い見出しとなって流れている。カイトはそのひとつひとつを追っているように見えたが、指はほとんど動かなかった。防犯カメラに顔が映らないよう、道路寄りの角にある死角の席を選んでいた。店の壁面に設置された監視レンズからは、植え込みと柱がちょうど顔の位置を隠す。視線を上げれば、通りを渡る人間の顔も、店内へ入ってくる客の靴も見えた。
その席の横に、リーパーが静かに腰を下ろした。
誰かと待ち合わせていた女が、遅れて席に着いたような自然さだった。シルバーの髪は綺麗に巻かれ、朝の光を受けて柔らかく光っている。昨日まで血の匂いをまとっていた女には見えなかった。
淡い色のコートの裾を整え、リーパーはカイトを見ずに話しかけた。
「確認したいことがいくつかあるの」
端末から目を離さないまま、カイトは返答した。
「すべて伝えたはずだ」
「伝わってるわ。行動時間、侵入経路、役割、相手の詳細な情報」
リーパーはほんの少しだけ、カイトに視線を送った。声は低くない。周囲の喧騒に紛れれば、ただの会話にしか聞こえない高さだった。
「それに、私が研究所で拾ったもののこともね」
カイトは、ほんの少しだけ笑った。
その笑顔の横顔を、リーパーは面白くなさそうに見つめていた。笑った、というより、答える必要がないと判断した顔だった。
リーパーはカップにも触れず、背もたれにも深く寄りかからなかった。すぐに立てる姿勢で、けれど周囲にはそう見えないだけの緩さを保っている。
「そこまで調べる能力があるなら、自分でやりなさいよ」
カイトは端末の画面を落とし、目の前を流れていく人の群れに目をやった。
「あんたの拾ったものを調べたのは、今回の作戦のためだ」
行く人も来る人も、表情もなく、真っ直ぐに自分の向かう先へただ歩いている。帝国の朝は、いつも規則正しかった。誰もが同じ時間に動き出し、同じように端末を確認し、同じように信号を待つ。その均一な流れの中で、二人の会話だけが別の温度を持っていた。
「俺が自分でやったら、資金源がなくなるだろ。裏切り者にはなれない」
リーパーは同じようにカイトの視線の先を辿り、それから、もう一度カイトを見た。
「……あなたって、聞いていたよりも、ずうっと貪欲な男なのね」
それから、ほんの少しだけ微笑むと、カイトの腕に手を乗せた。
「嫌いじゃないわ。そういうの」
手袋越しではない、素肌の指先だった。軽く触れただけで、握ったわけではない。カイトはその手を振り払わなかった。けれど、受け入れもしなかった。視線は通りへ向いたままで、呼吸の速度も変わらない。拒まないことと、入らせることは違う。リーパーはそれを確かめるように、少しだけさするように触れたが、すぐに手を離した。
「なんだ、もう売約済みか」
声には笑いが混じっていた。リーパーはそれ以上踏み込まず、両手を軽く上げて席を立つと、カイトを見下ろして言った。
「出来高報酬だけど、私の成功率は九十九パーセントよ。金額は提示した通り。覚えておいて」
カイトは軽く手を上げて、その言葉に答えた。
リーパーは振り返らずに人の流れへ紛れていった。銀の髪は一度だけ朝の光を拾い、そのまま通勤客の群れの中へ消えた。カイトはしばらく冷めたコーヒーを見ていたが、口をつけることはなかった。
数日後の夕刻。
帝国の首都ルクスグランから南下した場所にあるエルネスト自由都市の港に、ケイは来ていた。
港の空は、夕陽と雲の境目が分からなくなるほど赤く濁っていた。海面には細かな光が散り、停泊中の貨物船の影が黒く伸びている。先日あった火事は貿易会社の事務所を焼き、焼け跡には新しいビルを建てるための建築工事が始まっていた。焦げた柱の一部は撤去され、代わりに足場と鉄骨が組まれている。焼け跡を覆う防音シートは潮風に煽られ、何度も大きく膨らんでは、骨組みに叩きつけられた。
ケイは工事現場を見ながら、倉庫街に立っていた。
港の作業員たちは、夕方の交代時間を迎えていた。ヘルメットを脱いだ男たちが低い声で話しながら通り過ぎ、無人搬送車が警告灯を点滅させてゆっくり角を曲がる。潮と油と、まだどこかに残る焦げた匂いが混ざっていた。ケイはその匂いを嫌うように、わずかに顎を引いた。
「ケイ・レイナーさんですか?」
後ろから呼ばれた。
振り向くと、そこには二十代中旬くらいの女が立っていた。髪を一つに結び、シャツにジャケットを羽織った、真面目そうで、印象に残りにくい女だった。派手さはない。声も大きくない。けれど、目の下には眠っていない人間の薄い影があり、バッグを持つ手には力が入っていた。
「ミレーヌ・モンディオールです。お呼び立てして申し訳ありません」
ミレーヌは、ゆっくりとケイに近づいて歩いていく。
「わざわざ帝国を抜け出して、俺に話したいことってなんだ」
ケイはミレーヌを見ると、少しだけ距離を取った。
足の位置を変えただけだったが、女の手元も、背後の通路も、同時に見える間合いだった。
「……ノエル・オルディア」
ケイの動きが止まった。ミレーヌはその反応を見たが、そこに触れないように話を続けた。
「先日、私の同僚が何者かに殺されました。私、その同僚のいた実験室で、あるものを見たんです。私たちは、ただ国立公園内の動植物を研究する部署にいたんですが……」
ミレーヌは、肩に掛けていたバッグを持つ手に力を込めた。指先が白くなる。
「あれは何だったのか、何を見てしまったのか……忘れられなくて調べました」
一度言葉を切る。喉が詰まったように、短く息を吸った。
「そうしたら、ノエルさんの名前が出てきて……」
ケイはミレーヌを見据えていた。
「研究所で何を見た」
ミレーヌは、ゆっくりと視線を上げてケイを見返す。
「ノエルさんの生体実験のデータです」
潮風が、二人の間を抜けていった。
港の喧騒も、工事現場から響く重機の作業音も、ミレーヌのその言葉以外、ケイの耳には入らなかった。ノエルの名前は、ただの記号ではなかった。口に出された瞬間、港の空気から音が抜ける。ケイは表情を変えなかったが、目の奥だけが硬くなった。
「見せられる証拠は」
ケイがミレーヌへ言った。
ミレーヌは、カバンの中から青いファイルを取り出してケイに渡した。
「今、手元にあるのはこれだけです」
ケイはファイルを受け取り、ページを捲る。紙は薄く、端には一度濡れて乾いたようなわずかな波打ちがあった。そこに記されていたのは、断片的な研究記録だった。
日付。採取番号。反応値。医療用語に紛れた軍事区分。黒く塗り潰された項目の隙間に、一つの名前が残っている。
ノエル・オルディア。
ケイの目が、そこだけで止まった。
「……これだけか」
ケイがミレーヌを見て言う。
ミレーヌの腕が少しだけ震えていた。それを隠すように、もう片方の手で腕を押さえる。
「ここには。残りは別の場所に保管してあります。怖くて持ち歩けないし、それに」
ミレーヌは、視線だけを工事現場のほうへ向けた。焼け跡の上では、作業員たちが何事もなかったかのように骨組みを組んでいる。数日前までそこにあった事務所の輪郭は、もう地面の黒ずみにしか残っていなかった。
「帝国の中では、誰にも渡せません」
「どうやって、俺とノエルのことを調べた」
ケイはファイルを閉じてミレーヌに渡した。
ミレーヌは、自然生態研究所のセキュリティカードを取り出す。小さなカードの表面には、研究所の紋章と、ミレーヌ・モンディオールの名前が印字されていた。写真の女は、今より少しだけ血色の良い顔をしている。
「帝国では、私たちのような研究者はある程度、国外のデータバンクにもアクセスできるようになっています」
「そこで、ノエルさんの名前を打ち込みました……そして、過去の研究所爆破のニュースを見ました」
ミレーヌの震えは収まらなかった。
「……配偶者の項目にあなたの名前が」
ケイは一度、息を吐き、話を続けた。
「残りの情報はどこにある」
ファイルをカバンにしまうと、ミレーヌはバッグを持ち直した。
「この港にある民間の保管庫に預けてあります。必要であれば、ご案内します。このデータは、あなたの手元にあるべきだと思ったので連絡をしました」
ケイは、少しだけ考えてから頷いた。
「案内しろ」
ミレーヌは安堵したように目を伏せた。だがケイは、その安堵を見ても距離を詰めなかった。
港の倉庫群を抜けると、街へ続く道の脇に、古いビルがあった。一見、空きビルのようなその建物には、「保管庫」とだけ書かれた古い看板と、民間事業者の連絡先番号が取り付けられていた。
入口の自動扉は半分壊れており、片側だけが重たげに開いた。中には古い消毒液の匂いと、しばらく換気されていない建物特有の湿った空気が溜まっていた。ミレーヌは迷わず階段へ向かった。エレベーターは停止中の赤い表示を出している。階段を上がるたびに、靴音が薄い壁へ跳ね返った。
三階の貸し保管庫の区画に入ると、番号の振られた金属製の扉が廊下の両側に並んでいた。
廊下の照明は数本切れていた。点灯している蛍光灯も、ときおり細かく震えるように瞬き、扉の番号を不均等に照らしている。金属の表面には古い傷がいくつもあり、どれも同じように見えた。その一つの前で立ち止まると、ミレーヌはバッグから小さなカードキーを取り出した。
震える指で差し込み口へ近づける。だが、ケイはその手を止めた。
「触るな」
ミレーヌの指が止まる。
ケイは扉の隙間を見た。錆びた金具。古いセンサー。内側からわずかに漏れてくる空調の音。使われていない保管庫にしては、空気の流れが整いすぎていた。廊下は湿っているのに、その扉の内側だけが乾いているように感じられる。
「中に入る。お前は後ろだ」
ミレーヌは従った。ケイが扉に手をかける。金属の冷たさが掌に移った。ゆっくりと押すと、扉は抵抗なく開いた。
中は暗かった。
古い机と棚が壁際に並び、床には剥がれた書類が散らばっている。何かの事務所として使われていた時期があるのか、壁には色褪せた掲示板が残っていた。奥のほうで空調の羽根が回っていた。低く、規則正しい音だった。窓は塞がれ、外の夕陽はほとんど届かない。扉が開いたことで廊下の光が細く差し込み、床に落ちた書類の端だけを白く照らした。
ケイが一歩、中へ入った。その背後で、ミレーヌも続こうとした。
小さな音がした。鍵が落ちるような、あるいは、細い金属が噛み合うような音だった。
ミレーヌの足が止まった。音は扉からではなかった。部屋の奥でもない。床下からでも、壁の中からでもなかった。
空調の音が、ほんのわずかに変わっている。目の前の棚の陰に、ひとつだけ新しい防護マスクが掛けられていた。
ケイは振り返らなかった。
ミレーヌは、その時初めて、自分が案内してきたはずの場所を見た。
そして、そこにある空気が、自分の知らない誰かによって先に整えられていたことに気づいた。
咄嗟に隠していたナイフを取り出そうとした、その瞬間、口元に防護マスクを当てているケイが振り返った。
ミレーヌは、しまった、と思った。
カイトが組んだ計画通りに、ケイをここへ連れてきたのではない。
初めから組まれていた情報で、自分がここに連れ込まれた。
「……な……んで」
声にならない息が、喉から漏れた。指先が痺れていた。ナイフの柄を握っている感覚はあるのに、力がうまく入らない。視界の端が暗くなり、空調の音だけがやけに近く聞こえる。意識を失う直前まで、ミレーヌはケイに向けてナイフを立てようとしていた。
そして、ケイの足元に静かに倒れ込んだ。
ケイは防護マスクの下からミレーヌを見下ろし、落ちていたバッグの紐を掴んだ。
「お前の拾ったファイルだけはもらっておくよ」
少しして、小部屋の扉が開き、カイトとニコが入ってきた。
廊下の光が広がり、倒れているミレーヌの髪に触れた。ケイは防護マスクを外して、カイトの足元に投げ捨てる。床に落ちたマスクが乾いた音を立てた。
「これが目に入らなかったら、俺も最後までこの女に騙されてたよ」
カイトは防護マスクを見下ろしてから、ケイを見た。
ケイは、口元を歪ませて低い声でカイトに言った。
「お前、殺したいほど憎んでたのか、俺を」
カイトは倒れたリーパーを一瞥し、表情を変えずに答えた。
「ただの作戦だ」
倒れたリーパーの手と足を縛っていたニコが、結び目を確認するたびに少し顔をしかめる。
二人のやり取りを聞きながら、気まずそうに小声で言った。
「……こわ」
今後の活動につきましては、活動報告をご一読頂けますと幸いです。
本作の本文・設定・登場人物・固有名詞・世界観・構成を、作者の許可なく転載、複製、翻案、要約転載、データセット化、AI学習・機械学習・生成AIサービスへの入力、解析、再配布に利用することを禁じます。




