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SKY  作者: RUI
BLACK LILY

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110/120

Sky110-ダモクレスの剣-

本作『SKY』は作者本人が小説家になろうにて連載・管理しています。無断転載・無断利用を禁じます。

 

 オルテア帝国、ディルトレイク国立公園自然生態研究所。


 廊下に、靴音が響いていた。


 一定の速度ではなかった。速くなったかと思えば、何かにつまずきそうに乱れ、またすぐに走り出す。

 古いレンガの壁に囲まれた長い廊下は、普段なら消毒液の匂いと空調の低い唸りだけが満ちている場所だった。

 人の声は吸い込まれ、足音でさえ必要以上には残らない。研究所の清潔な沈黙は、そういうふうに作られていた。


 だが今は、その静けさの中に、ひとり分の呼吸だけが荒く混ざっていた。


 一冊の青いファイルを両腕で抱えたミレーヌ・モンディオールは、後ろを振り返りながら走っていた。白衣の裾が足にまとわりつき、膝のあたりで布が跳ねる。胸に抱えたファイルの角が肋骨に食い込み、走るたびに鈍い痛みが脇腹へ広がった。それでも、彼女は手を緩めなかった。落としてはいけない。誰にも渡してはいけない。そう思えば思うほど、腕の力は強くなっていった。


 あれは何だったのか。何を見てしまったのか。


 理解しようとするたびに、胃の奥が冷たく縮んだ。唇の内側が乾き、喉の奥に鉄のような味が残っている。心臓の音がいつもよりずっと速く聞こえた。耳の内側で鳴っているはずなのに、まるで廊下全体に響いているようだった。

 曲がり角をひとつ越えた先に、警備室の表示が見えた。


 ミレーヌは、ほとんど縋るように扉へ手を伸ばした。指先は汗で湿り、ノブの金属を一度滑った。爪が硬い音を立てる。彼女は息を呑み、もう一度ノブを掴み直した。扉を開けた瞬間、冷えた空気が頬に触れた。

 靴の裏に、ぬるりとした感触が走り、床が傾いたように感じた。踏ん張る間もなく足が滑り、ミレーヌの身体は前へ投げ出された。

 抱えていた青いファイルだけは庇おうとして、片方の肩から床に落ちる。硬い床が骨にぶつかり、視界の端で白衣の袖が赤黒く汚れた。


「痛……」

 声が漏れた。


 痛みより先に、胸の中で何かが潰れるような音がした。ミレーヌは床に手をつき、立ち上がろうとした。

 手のひらに、温かさの残る液体が触れた。

 一瞬、それが何なのか分からなかった。薬品か、油か、水か。研究所には、名前をつけられない液体がいくつもあった。だが、鼻をついた鉄の匂いが、その答えを先に教えた。


 ミレーヌは、ゆっくりと自分の手を見た。指の間に、赤黒い液体が広がっていた。

 それが血だと気づくのに、時間はかからなかった。


 息を吸おうとして、吸えなかった。喉が狭くなり、胸の奥で空気が止まる。ミレーヌは視線を上げた。

 警備室の床に、三人の警備員が横たわっていた。


 ひとりは机に寄りかかるように倒れ、もうひとりは椅子ごと床へ崩れ、最後のひとりは扉へ向かう途中で力尽きたように、腕を伸ばしたまま動かなくなっていた。三人とも、首を切られていた。制服の襟は赤黒く染まり、床に広がった血が、室内の薄い照明を鈍く反射している。

 ミレーヌの手から、青いファイルだけは落ちなかった。


 ディルトレイク国立公園自然生態研究所の前に、複数の黒いホバー車が停車した。

 車体の下で空気が低く震え、湿った土の匂いが押し退けられる。研究所の白い外壁には、夕方の光が斜めに当たっていた。窓のいくつかは内側から遮光され、静かな建物は、たった今人が殺された場所とは思えないほど整って見えた。

 黒いスーツの男たちが車から降りてきた。

 彼らは救急隊員よりも遅れて到着したはずなのに、現場へ入る動きに迷いがなかった。互いに短く視線を交わし、誰が入口を押さえ、誰が周囲へ回り、誰が証言を取るのかを、ほとんど言葉にしないまま分けていく。


 救急車両の後ろで、ミレーヌは毛布にくるまって震えていた。

 白衣の肩と袖には血がつき、頬にも乾きかけた赤い線が残っている。両手は毛布の中に隠されていたが、指先だけが布の端を強く掴んでいた。視線はどこにも定まらず、何かを見ようとするたびにすぐ逸れていく。

 黒髪の男が、その前で足を止めた。


 三十代前半ほどの男だった。整った黒いスーツに、磨かれた靴。低く柔らかい声を出すには慣れているようで、目の前の女を怯えさせない距離で身を屈めた。

「ミレーヌ・モンディオールさんですか」

 男は身分証を提示した。


 帝国保安局/皇王府保安監察官、ヴィンセント・グレイモン。


 ミレーヌは身分証を見て、それから男の顔へ視線を移した。黒い瞳は涙で濡れていて、瞬きをするたびに睫毛が細かく震えた。

「はい」

 声はかすれていた。

 ヴィンセントは、柔らかい笑顔をミレーヌへ向けた。

「もう大丈夫です。施設内の安全は確保されました。何があったのか、話してもらえますか」

 その言葉を聞いて安心したのか、ミレーヌの目から涙がこぼれた。堪えていたものが切れたように、頬を伝って落ちていく。

「あ……私、地下の研究所にファイルを持って行ったんです。あの、この青いファイル」

 ミレーヌは横に置いていた青いファイルに手を伸ばした。手首には細かな擦り傷があり、爪の間にも赤黒いものが入り込んでいる。彼女は震える指でファイルを掴み、ヴィンセントへ差し出した。

「研究所の扉を開けたら、中が荒らされていて……急いで警備室へ走って行ったんです」

 そこから先は言葉にならなかった。

 喉が引きつり、唇だけが何かを続けようとして動いた。ミレーヌは毛布を掴む手に力を込め、俯いた。肩が小さく上下する。


 ヴィンセントは青いファイルを受け取り、ページをいくつか捲った。目を走らせる速度は早かったが、表情は変わらなかった。紙の擦れる音だけが、二人の間に短く落ちる。

 やがて彼はファイルを閉じた。

「ありがとうございます。モンディオールさん」

 ヴィンセントは、毛布を掴んでいるミレーヌの手をそっと握った。

「あとはこちらで捜査します。ひとまず病院で手当を受けてください」

 ミレーヌは小さく頷いた。

 ヴィンセントはファイルを彼女へ戻し、立ち上がった。歩き出すと、さっきまでの柔らかい表情は、車体の影に入るころには消えていた。

 彼は待機していた監察官たちの方へ向かった。

「目撃者は、あの女だけだ。警備室を確認しろ。あとはいつも通りだ」

 声の温度は変わらなかった。


 指示を受けた監察官たちは、軽く頷くと建物へ入っていった。誰も余計な質問をしなかった。救急隊員の声、担架の金属音、遠くで鳴く鳥の声。そのすべてが、黒いスーツの男たちの動きだけを避けるように、薄く遠のいていく。

 救急車のドアが閉まった。

 車両はゆっくりと浮き上がり、研究所前の舗装路を滑るように走り出す。赤い警告灯が木々の幹を断続的に照らした。ミレーヌを乗せた救急車が森の道へ消えていくのを見送りながら、ヴィンセントは軽くため息をついた。


 木々が生い茂り、陽の光が届きにくい森の中を、白衣姿の男が歩いていた。

 走り疲れたのか、息は切れ、足取りは重い。肩で息をするたびに、白衣の胸元がわずかに上下した。靴には泥が絡み、枯葉が裾に貼りついている。木の根に足を取られるたび、男は舌打ちを飲み込み、また前へ進んだ。


 この森を抜ければ、アルクトリ国境だ。


 そう考えた瞬間だけ、男の歩幅が少し広くなった。

 研究所の裏手から続く古い管理道は、地図から消されたような道だった。保全区域の奥へ入れば、監視装置の死角もある。かつて生態調査に使われていた簡易ルート。男はその存在を、何度も資料の中で見ていた。

 だが、資料で見る森と、実際に逃げ込む森はまるで違った。

 湿った枝が頬を撫で、見えない虫が耳元をかすめる。風が吹くたび、葉が一斉に擦れ合い、後ろから誰かが近づいてくるように聞こえた。振り返っても、そこには緑の暗がりしかない。

 男は胸元のポケットを片方の手で握った。

 布の奥に、小さな硬い感触がある。それを確かめるたびに、まだ間に合う、という言葉だけが頭の中で繰り返された。誰かに渡さなければならない。誰かに知らせなければならない。あの地下で何をしていたのか、何を隠していたのか。


 その時、前方の木の影から人影が出てきた。男は足を止めた。

 咄嗟に木の影へ隠れようとしたが、遅かった。影の主は、まるでそこで彼が来るのを待っていたように、道の真ん中へ出ていた。

 男は相手の顔を見た。そして、固まった。

「お前……なんでーー」

 森の中に銃声が響いた。

 鳥が一斉に木から羽ばたき、鳴き声が空へと散った。葉が揺れ、枝が震え、その音が森の奥へ吸い込まれていく。

 男は後ろへのけぞり、そのまま仰向けに倒れた。

 眉間から、赤い血が流れていた。見開かれた目は、木々の隙間から覗く薄い空を映したまま動かない。

 人影は男のそばへ歩み寄った。

 膝をつき、男の胸元のポケットへ手を入れる。布の奥から、小さなチップが取り出された。血のついた指がそれをつまみ上げると、森の湿った光の中で、チップの縁がかすかに光った。


 黒いホバー車が、森の中にある古小屋の前で停まる。

 そこは管理道からさらに外れた場所にあった。研究所の敷地図にも、観光案内図にも載っていない。古い資材置き場だったのか、誰かの休憩所だったのか、もう判然としない。屋根は苔で黒ずみ、壁板の隙間からは湿った土と木材の匂いが漏れていた。


 ヴィンセントは車を降りた。周囲を一度だけ見回してから、古小屋へ向かう。足元で落ち葉が潰れたが、彼は急がなかった。誰かを探しに来た者の歩き方ではなかった。そこにいると分かっている相手へ会いに行く歩き方だった。


 小屋の扉は、外から見るよりも軽く開いた。

 中は薄暗く、割れた窓から入る光は、埃の粒を浮かび上がらせるだけで、部屋の隅までは届かない。壊れた棚、古い工具箱、使われなくなった木箱。そこには長い間、人の生活が途切れていた。


 ヴィンセントは扉の内側で足を止めた。

「リーパー、いるのはわかっている」

 返事はなかった。

 だが、戸棚の影がわずかに動いた。


 そこから、ゆっくりと女が姿を現した。出てきたのは、救急車で運ばれたはずの女だった。肩に落ちた髪だけが、少し乱れている。

「……まだ仕事中だったのに。私のこと、救急車で運ぼうとするなんて酷いわ」

 女は唇の端だけで笑った。

「救急車から逃げ出すの、大変だったんだから」

 ヴィンセントは口元を少しだけ緩めた。

「お前が警備室に忘れ物なんかするからだろ」

 リーパーはくすりと笑った。

 そして、一つに結んでいたシルバーの髪をほどいた。銀色の髪が肩へ落ちる。

 ミレーヌ・モンディオールの顔をしていた女は、その仕草ひとつで、まるで別の人間になったように見えた。

「あーあ、転んで血まみれになっちゃった」

 そう言うと、リーパーは血のついたシャツのまま、ヴィンセントの首に腕を回した。白衣の袖についた血が、彼の黒いスーツに触れる。ヴィンセントはそれを避けなかった。

「……回収したのか?」

 リーパーは、ヴィンセントの首元に小さなチップを出した。

「お望みのものはこちらでしょ」

 ヴィンセントはチップを受け取った。

 携帯端末を取り出し、チップを差し込む。画面に映る文字列を確認するあいだ、リーパーは彼の肩に腕をかけたまま、退屈そうに端末を覗き込んでいた。外では風が吹き、古小屋の壁が小さく鳴った。


「そんなに大切な情報を、あんな末端の地下室の住人に渡しちゃだめじゃない」

 ヴィンセントは画面を見たまま言った。

「“だから”地下室にいたんだろ」

 リーパーは、軽く吹き出すように笑った。

「あら、依頼主様は慈悲深いのね。私ならすぐ黙らせちゃう」

 ヴィンセントが口元を緩ませた。

「そうかもな」

 彼はチップを端末から抜き、胸元へしまった。動きは丁寧だったが、そこに迷いはなかった。


 その時、リーパーの携帯端末が鳴った。小屋の中に、短い電子音が響く。

 リーパーは画面を見て、眉をわずかに動かした。それからヴィンセントを見た。ヴィンセントは何も言わなかった。リーパーは彼の首から腕をほどき、小屋の扉を開けて外へ出た。

「なに? 緊急回線にかけてこないで」

 電話の向こうから、バニーの声がした。

『緊急の依頼なんだよ』

 リーパーは眉間に軽く皺を寄せた。

「次は誰? 私がオルテアにいるってわかってるでしょ、すぐには戻れない……」

 言葉は途中で止まった。

 森の音が、一瞬だけ遠くなったようだった。

 リーパーの表情が固まる。ほんの短い間だった。驚きとも、警戒ともつかないものが、目の奥を通り過ぎる。次の瞬間、それは消えた。

 彼女は、新しいおもちゃを手に入れた子供のように微笑んだ。

「……へぇ。いいの? 殺しちゃって」

 通話はそこで終わった。

 リーパーは端末を下ろし、しばらく森の奥を見ていた。木々の間から差し込む光は細く、彼女の白衣についた血を黒く見せた。風が髪を揺らす。銀色の髪が頬にかかり、彼女はそれを指先で払った。


 小屋の扉を開けると、ヴィンセントもちょうど通話を終えたのか、携帯端末を下ろしていた。

 リーパーはその動作を一瞥し、何も聞かなかった。

「まだしばらく、オルテアにいられそうよ」

 そう言って微笑むと、またヴィンセントの首元に腕を回した。

「新しい依頼か?」

 リーパーは楽しそうに笑った。

「そうよ。だから、今日はゆっくり寝かせてね」

 ヴィンセントは答えなかった。


 扉はゆっくりと、閉まっていく。


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