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SKY  作者: RUI
BLACK LILY

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109/120

Sky109-うさぎの巣穴-

本作『SKY』は作者本人が小説家になろうにて連載・管理しています。無断転載・無断利用を禁じます。

 

 リュミエール自由共和国の現代的な街を抜けると、石畳の裏路地には昔ながらの街並みがまだ残っていた。高層ビルの硝子は昼の光を反射し、整えられた街路樹の下では観光客が笑い、カフェの白いパラソルが風に揺れている。

 その表通りだけを見れば、ここが戦争から遠い国に見えるのも無理はなかった。ジャーナリストや情報屋が多く住むこの国は、NTOの中でも比較的、戦争と一定の距離を置いている国だった。戦場から流れてくる噂も、各国政府の思惑も、兵器市場の値動きも、ここでは新聞の見出しやカフェの雑談に姿を変える。


 銃声は聞こえない。だが、銃声の先で何が起きたのかを知っている人間は、どの街角にもいた。表は美しく近代的だが、一歩裏へ入れば、貧困街はすぐ隣にあった。壁の塗装は剥げ、古い集合住宅の窓には洗濯物が重なり、路地の奥からは油と煙草と腐った果物の匂いが漂ってくる。同じ国の中で、光と影が壁一枚を隔てて同居している。


 バニーは、その隙間をうさぎのように飛び回る情報屋の一人だった。

「で? REDROSEは何で消えたんですか?」

 表通りにある高級なカフェテラスで、バニーは向かいに座る男へ身を乗り出した。白いクロスのかかった小さな丸テーブルには、飲みかけのコーヒーと、半分だけ崩された焼き菓子が置かれている。周囲では、昼休みの会社員や旅行者が穏やかに談笑していた。そんな中で、バニーの声だけが少し低く、楽しげに潜っていた。

 男はNTOのバッジを胸につけたスーツ姿だった。身だしなみは整っている。髪には乱れがなく、袖口から覗く時計も高価なものだった。だが、バニーの言葉を聞いた瞬間、彼の口元に浮かんでいた余裕は、ほんのわずかに乾いた。

「バニー、内部情報を簡単に口外するわけないだろ」

 男は呆れたように言い、手元の端末に表示されているニュースを指でスライドさせた。画面にはREDROSEの名こそ出ていないものの、戦場から消えた機体と前線の混乱を匂わせる見出しが並んでいた。

「へへへ、じゃあ、情報交換でどうですか」

 バニーは椅子の背に肩を預け、わざとらしく笑った。陽気な声の奥に、針のようなものが隠れている。

「交換?」

 男が目だけを上げる。

 バニーは口元を歪ませ、周囲に聞こえないよう声を落とした。

「あんたの奥さんの休日の過ごし方について」

 男の指が止まった。端末の上に置かれた指先は、画面に触れたまま動かない。ほんの一拍、カップの触れ合う音や、遠くを走る車の音だけが二人の間に残った。

 男は視線だけをバニーへ向けた。

「物的証拠はあるのか」

 声は低かった。怒りよりも先に、計算がある声だった。

 バニーは鞄の中に手を入れ、薄い封筒を取り出した。封筒の角は折れておらず、きれいに閉じられている。

「もちろん。ばっちり写ってますよ」

 男は封筒を受け取ると、中身を確認した。紙の端をめくる音が、妙にはっきり聞こえた。彼の眉がわずかに動く。次の瞬間、男は封筒を閉じ、テーブルの上で指を組んだ。

 バニーは何も言わずに待った。こういう時、先に口を開いた方が負ける。カフェの甘い香りが鼻先を掠め、バニーは舌の上に残るコーヒーの苦みを味わった。

 やがて男は上体を寄せ、バニーの耳元へ口を近づけた。

 声はほとんど吐息に近かった。

 その情報を聞き終えた時、バニーの口元には、先ほどよりもずっと深い笑みが浮かんでいた。


 *


 古びたレストランの二階に上がる階段には、時折ネズミが徘徊している。昼間でも薄暗い裏階段だった。壁の隅には油の染みがこびりつき、手すりは何人もの手に触れられて黒く光っていた。厨房から漏れる古い油と香辛料の匂いに、湿った木材の匂いが混ざっている。

 素早い影が足元を走り抜けるたびに、バニーは大げさなほど肩を跳ねさせた。

「おい! ったく、驚かせるなよ!」

 文句を言っても、ネズミは答えない。尾だけを揺らして、壁の穴の中へ消えていった。

 バニーはドスドスと音を立てて階段を上がった。柄シャツの裾が動くたびに、ポケットの中の鍵束が小さく鳴る。二階の左側の部屋の前で立ち止まり、ドアノブに鍵を差し込んだ。

 すぐには開けない。癖になった動作で、まず扉の隙間へ目を落とす。外出時に細く挟んでおいた透明なテープは、出て行った時と同じ位置に残っていた。侵入者はいない。少なくとも、扉を開けて入った者はいない。

 バニーは小さく息を吐いた。肩から力が抜ける。

 鍵を回し、部屋へ入った。

 部屋はお世辞にも綺麗とは言えなかった。シンクには洗い残しの食器が積み重なり、乾いたソースの跡が皿の縁にこびりついている。テーブルの上には古い新聞、メモ、空の缶、開けっぱなしの菓子袋が散らばっていた。脱いだ服は一人掛け用のソファに幾重にも重ねられ、そこだけが妙に柔らかな山になっている。

 窓は閉め切られていた。古いカーテンの隙間から細い光が入り、宙に舞う埃を白く浮かび上がらせている。外の喧噪は遠く、分厚い壁の向こうでくぐもっていた。

 短い廊下を歩いた先には、寝室のある部屋がつながっている。

 バニーは靴の踵を引きずるようにして進んだ。高級カフェの整った空気から、自分の部屋の汚れた空気へ戻るたび、妙に現実へ引き戻される。今日得た情報をどこへ流すか、誰に売るか、いくらで売れるか。頭の中では、すでにいくつもの名前と金額が並び始めていた。

 寝室まで入ったところで、足が止まった。背中に、冷たく固いものが当たっていた。

 身体が先に理解し、頭が遅れて追いつく。心臓が一拍だけ強く跳ねた。その音が、自分の耳の内側でやけに大きく響く。息を吸おうとして、喉がわずかに詰まった。

 バニーは唾をゆっくり飲み込んだ。口の中が急に乾く。指先が冷えていくのを感じながら、ゆっくりと両手を上げた。

「遅かったな、バニー」

 低い声が背後から聞こえた。

 声に覚えがあった。だが、その声がこんな近さで、こんな温度で自分の背中に向けられることに、バニーの意識は一瞬、追いつかなかった。

 振り向こうとした瞬間、背中に当てられたものの正体を悟った。銃口だ。布越しでも分かる。冷たさと硬さが、背骨の一点を正確に押していた。

「あんた。なんで、あんたがここに」

 言葉は掠れた。軽口にしたかったのに、喉がそれを許さなかった。

 後ろにいたのは、ARCLINEでVectorと呼ばれる男だった。

「ケイじゃなくて悪いな」

 カイトは静かに言った。怒鳴るでも、脅すでもない。その静けさが、かえって部屋の空気を締め上げた。

 バニーはほんの少し口元を緩ませた。いつもの癖だった。恐怖を笑いで薄め、相手の出方を探る。だが、横目でカイトを見ようとした瞬間、その笑みは途中で止まった。

「お前、仲介屋なんだって?」

 カイトの言葉に、バニーの呼吸が止まる。

 情報屋として動くだけでは生活は成り立たない。噂を拾い、証拠を売り、弱みを握り、時には国家の端にぶら下がった機密に触れる。それでも金は足りない。だからバニーは、依頼主と殺し屋をつなぐ仲介屋としての仕事もしていた。

 だが、その顔は表に出していない。情報屋としてのバニーを知る者は多い。軽く、狡く、口が回り、金次第でどこへでも飛ぶ男。だが、殺し屋との間をつなぐバニーを知る者は限られている。

 なぜカイト・ボリーがそれを知っているのか、バニーには見当もつかなかった。

「なんでそれを」

 銃口が、さらに強く背中へ押し込まれた。服の下の皮膚が、その一点だけ冷たく沈む。

「リーパーはどこにいる」

 バニーは再び言葉に詰まった。

 リーパーはプロの殺し屋だ。名前を出すだけでも、相手によっては命取りになる。下手に他人へ売れば、次に消えるのは自分だ。バニーは喉の奥で息を押し殺し、手の震えを隠そうとした。上げた両手の指先が、わずかに揺れている。

「リュミエールにはいない。今どこにいるかは、連絡しないとわからないんだよ」

 声を平静に保とうとした。だが語尾が少しだけ浮いた。自分でもそれが分かった。

 カイトは表情を変えなかった。

「殺したいやつがいる。連絡を取れ」

 その言い方には、迷いがなかった。冗談でも、脅しでも、演技でもない。必要な手順をひとつ告げるような声だった。

 バニーの目が、初めて後ろのカイトを捉えた。

 ほんの数回しか会ったことはない。いつも誰かの後ろで静かに周りを見ていた青年だった。ARCLINEの中でも、彼は目立つようで目立たなかった。声を張ることもなく、誰かを押し退けることもなく、ただ必要な時に必要な場所へ視線を置く。そんな印象しかなかった。

 いや、違う。

 俺の後ろから銃口を突きつけているこいつは誰だ。

 こんな、獲物を狙う目をするような奴だったか。

 カイトの目は冷えていた。怒りに濁っているのではない。興奮しているのでもない。標的までの距離と、そこへ至るまでの手順だけを見ている目だった。そこに自分が含まれているのだと理解した瞬間、バニーの背筋を冷たいものが落ちていった。

 頬に一筋、汗が流れる。顎の端で止まったそれが、ゆっくりと落ちた。

 バニーは震えた声で言った。

「……殺したいやつって、誰だ」


 カイトはバニーの横顔に視線を落とし、ゆっくりと口を開く。


「ケイ・レイナー」


キッチンの古い蛇口から水の落ちる音が大きく響いた。


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