Sky107-招かれざる客-
本作『SKY』は作者本人が小説家になろうにて連載・管理しています。無断転載・無断利用を禁じます。
ベルナイン商業連邦の首都コージスは、商業大国の名にふさわしい街だった。
金融街にはガラス張りの高層ビルが立ち並び、陽を受けた外壁が街路へ冷たい光を返している。広く整備された歩道では、街路樹の枝葉まで几帳面に刈り揃えられ、隣接する商業区画には各国の衣料品メーカーが競うように店舗を構えていた。ショッピングモール《ビルハント》の通路は、平日の午前中だというのに観光客で賑わい、磨き上げられた床には、行き交う人々の靴音が絶え間なく重なっていた。
その隣に建つホテルでは、医学会が開かれていた。
大ホールの天井から吊り下げられたシャンデリアは、眩しすぎない柔らかな光を会場全体へ落としていた。各国から集まった医師や研究者たちは、手にしたグラスを傾けながら思い思いに言葉を交わし、その話し声は、時折響くガラスの触れ合う音と混じり合って、広い空間に途切れないざわめきをつくっている。
モリスは会場の端に置かれた椅子へ腰掛け、足を組んだまま抄録集を読んでいた。
「モリス、来ていたのか」
聞き覚えのある声に顔を上げると、目の前に、大学時代の恩師であるグレバー教授が立っていた。
モリスは驚いて抄録集を閉じ、すぐに立ち上がった。
「教授。お久しぶりです。医学会へいらっしゃるとは思いませんでした。お元気でしたか?」
グレバーは杖をついていたが、七十五歳を過ぎた今も、大学で教鞭を執っている。以前よりも少しだけ細くなった身体を杖で支えてはいたものの、目元には、モリスが学生だった頃と変わらない鋭さが残っていた。
モリスが隣の席を勧めると、グレバーはゆっくりと腰を下ろし、杖を脚の間に立てて、その持ち手へ両手を重ねた。
「教え子が論文を発表するのでね。聞きに来たんだよ。君は、元気にやっているか?」
「相変わらずですよ。町医者というのは、半分くらい慈善事業みたいなものですから」
モリスは少しだけ眉を下げ、苦笑した。
大学時代、モリスはグレバーの研究室に所属していた。医療の未来を信じ、脳科学の研究へ人生を賭けていたグレバーを、モリスは今でも尊敬している。
「研究は、続けられているんですか?」
問いかけた瞬間、杖の持ち手へ重ねられたグレバーの指に、ほんの少しだけ力が入ったように見えた。節の浮いた指先が、磨かれた木の持ち手を静かに握り込む。そのわずかな変化に気づいたものの、モリスは続けて問いを重ねることができなかった。
*
学会の帰り、モリスが車までグレバーを送ると、見知らぬホバータイプの黒い乗り物が通路の奥に停車していた。
ホテルの車寄せには、来場者を迎える車が次々と滑り込み、ドアの開閉音や運転手たちの低い声が、広い屋根の下で絶えず反響していた。その中で、余計な装飾のない黒い車体だけが、周囲の華やかな空気から切り離されたように静かに停まっている。
モリスは初めて見るその車体を、物珍しそうな顔で見た。
「バートルだ。見るんじゃない」
グレバーが、小さく厳しい声で言った。
モリスはすぐに視線を外し、グレバーへ向き直った。先ほどまで穏やかだった教授の表情は、わずかに強張っていた。
「バートル?」
「……オルディア狩りだよ」
オルディア狩り。
歴史の教科書やニュースでは聞いていたが、まさか遠く離れたベルナインに、帝国の特殊部隊がいるはずがない。モリスは口元を緩めた。
「まさか、ここはベルナインですよ」
グレバーは答えず、モリスを自分の車の後部座席へ乗せた。自分も隣へ乗り込み、運転手へ指示を出すと、車は静かに車寄せを離れた。
「バートルはどこにでもいる。あいつらに国境という概念はない」
グレバーは前を見たまま、低い声で言葉を落とした。
窓の外では、ホテル前の華やかな通りが少しずつ遠ざかり、ガラス張りのビル群が車窓の向こうへ流れていく。
モリスは一度息を呑み、グレバーに言った。
「国境がない? どこの国にもいるってことですか?」
グレバーはしばらく黙っていたが、やがて重い口を開いた。
「あれは部隊として動いているわけじゃない。協力者が情報を流し、捕食者がターゲットを捕獲する」
「どこの国の、誰であっても、協力者になれるんだよ」
モリスは、半信半疑だった。帝国に協力する人間がいる。一体何のために、そんなことをするのか、すぐには理解できなかった。
車内には、走行音だけが低く響いている。モリスは膝の上で両手を組み、隣に座るグレバーの横顔を見ながら、声を落として尋ねた。
「教授は、見たことがあるんですか? その……捕獲するところを」
グレバーの視線が、一瞬だけ揺らいだ。
「実際にはない。モリス、何があってもお前は協力するんじゃないぞ」
その声は、冗談ではなかった。まるで教授自身が、目の前で何かに関わったことがあるかのように感じられた。
モリスは膝の上で組んでいた指へ力を込めた。胸の奥に、息子の顔が浮かぶ。
「私の息子は、ヴィーラのパイロットでしたが、先日西方での帝国との撃ち合いで死にました」
その言葉に、グレバーは目を開いた。モリスは真っ直ぐにグレバーを見据える。
「息子に……トムに恥じるような事は、私はしない」
グレバーは黙ってモリスを見た。しばらくして、意を決したかのように口を開く。
「バートルが欲しいのは、特別なオルディア人の血だ」
「……特別?」
車は閑静な住宅街をゆっくりと走っていた。モスグリーンの屋根を持つ家々の玄関先には小さな花が咲き、どの庭も丁寧に手入れされている。金融街の賑わいから離れた通りには、穏やかな生活の気配だけが残っていた。
やがて、車は一軒の家の前で停車した。
「あいつらは探してる。OD因子以上の何かを」
グレバーの言葉を、モリスはただ黙って呑み込んだ。
OD因子以上の何か。
オルディア帝国は、これまでずっと、オルディア人の血液研究について固く口を閉ざしてきた。国外の一般人にまで協力させて、オルディア人を捕獲するだけの価値があるということだ。
モリスの真面目な顔を見て、グレバーがふと笑った。
「老人の戯言に付き合わせたな。帰りなさい、ララと……娘さんに宜しくな」
モリスは黙って頷き、車を降りた。
ドアが閉まり、車がゆっくりと走り出す。家の前に立ったまま、モリスは遠ざかっていく車をただ見つめていた。
車窓の外の住宅街が後ろへ流れ、やがて車はハイウェイへ差し掛かった。
「このまま、国境まで行く」
運転手がそう言うと、グレバーは車窓から見えるコージスを眺めた。遠ざかっていく高層ビルの輪郭が、窓ガラスの向こうで少しずつ小さくなっていく。
「……寂しくなるな」
車はスピードを上げ、ハイウェイに乗った。
*
モリスの家の電話が鳴ったのは、学会の日から数週間してからの事だった。
食卓には、まだ湯気の立つ料理が並んでいた。皿とカトラリーが触れ合う小さな音に混じって、呼び出し音だけが不自然に響く。
食事をしていたモリスは、妻のララから呼ばれて電話口に立った。画面の向こうには、大学時代の友人ルークが映っていた。
「食事の時間は避けろって約束しなかったか?」
モリスが口元を緩ませながら言う。
「モリス、そんな冗談言ってる場合じゃない」
普段の軽口はなく、深刻な顔でルークは言った。
「グレバー教授が消えた」
モリスの周りから、一瞬、音がなくなった気がした。
背後では、食卓から聞こえる生活音が続いている。それなのに、耳の奥には、ルークの声だけが残っていた。
ルークは立て続けに言った。
「……家族ごと。まるで、最初からいなかったかのように綺麗にだ」
モリスは震える声で、ルークに聞いた。
「どういうことだ。殺されたのか?」
「分からない。血痕は何も見つかっていない。家に蝋封が押された白いカードしか残っていなかったらしい。そのうちお前のところにも警察が来るはずだ」
ルークは不思議そうに言っていたが、モリスには分かっていた。
あの時、グレバー教授がした話は戯言ではない。
「まだ警察発表前で新聞各社にも知られてない。お前、学会で会ったんだろ――」
その後のルークの話は、ほとんど耳に入ってこなかった。幾つか言葉を返したが、覚えていない。
通話を切ったあとも、モリスはしばらく電話の前から動けなかった。指先が冷たくなっている。背後からララの声が聞こえた気がしたが、すぐには振り返れなかった。
しばらくして、玄関のチャイムが鳴った。その短い音に、モリスの肩がわずかに跳ねた。
廊下の向こうには、食事の途中だった家族がいる。モリスは一度だけ息を整えると、足音を立てないように玄関へ向かった。
扉を開けると、黒いスーツを着た男が一人立っていた。
「……なにか?」
モリスがそう言うと、男はモリスを見て言った。
「国立医大にいらした、モリス先生ですね。仕事の依頼をしたくて伺いました」
丁寧で柔らかい話し口調の男は、被っていたハットを取りながら言った。
「仕事?」
モリスがそう言うと、男は微笑んで告げた。
「難しい仕事ではありません。軽い血液検査です」
モリスは、平静を崩さないように努めた。
喉の奥が乾いていた。それでも、男から目を逸らさずに玄関の外へ出る。
そして、男を決して家の中へ迎え入れず、ゆっくりと扉を閉めた。
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