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SKY  作者: RUI
BLACK LILY

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104/120

Sky104-真実の扉-

本作『SKY』は作者本人が小説家になろうにて連載・管理しています。無断転載・無断利用を禁じます。

 

 ブライトン大統領がLAA学園コロニーで命を落としてから数日が過ぎた。


 ARCLINEの本部は、リュミエール領の南西部に浮かぶミリス島の入り江の奥にあった。

 地図の上では小さな漁業島にすぎない。内海へ向かって入り組んだ海岸線が続き、島の西側には、波と風に長い年月をかけて削られた岩壁がそびえている。

 岩礁の脇を慎重に進み、船体が擦れそうな狭い水路を抜けると、奥には小さな入り江が広がっている。


 両側を高い崖に囲まれ、上空から見下ろしても、張り出した岩棚と濃い樹木の影に遮られて海面の一部しか見えない。

 海側には小型艇と補給船が接岸できる桟橋があり、陸側には山道へ抜ける搬入口が一つだけ設けられていた。

 本部へ入る方法は、この海と陸の二つしかない。

 警備のためだけではなかった。発見された場合、逃げ道も二つしかないということでもある。


 入り江には、潮が岩壁へぶつかる音が低く響いていた。

 桟橋の脇には小型艇が数隻並び、濡れた甲板の上を整備員たちが行き交っている。

 工具箱を運ぶ者、燃料管の接続を確かめる者、岩壁の内側へ続く搬入口で荷物の記録を取る者。誰も声を張り上げず、必要な連絡だけを短く交わしていた。


 本部の地下研究室は、休憩室よりもさらに岩盤の奥にあった。

 細い階段を降り、気密扉を二枚抜けた先に、白い照明で照らされた部屋がある。


 天井はコンクリートが剥き出しになっていた。灰色の表面には細かな亀裂が走り、配線を通すために増設された金属管が、不規則な角度で壁面へ固定されている。

 研究用の機材だけは、地下室の粗末な造りに似つかわしくないほど揃っていた。


 血液を保存する低温機器。

 オルタイト出力を測定する装置。

 生体情報を解析する端末。

 壁際の棚には、採取日時と識別番号が書かれた試験管が、透明なケースの中に整然と並べられている。


 ケイは診察用の簡易ベッドへ腰を下ろし、袖を肘の上まで捲っていた。

 針が血管へ刺さり、透明な管を通って暗い赤色の血液が採取容器へ流れていく。ケイは腕を動かさず、剥き出しの天井を見上げた。


「埃っぽい場所だな、ここは」


 白衣を着た研究員のフィーは、採血量を確認してから針を抜いた。

 三十代半ばほどの男で、細身の身体に白衣を引っかけるように着ている。

 鼻梁に乗った眼鏡は少しずれており、片手でケイの血管部分を押さえながら、もう片方の手で脱脂綿を固定した。


「文句言うなら、早くリノベーションしてくださいよ。これでも綺麗にしてるんですから」

 採取した血液を保存用の機器へ収めると、フィーは指先で眼鏡を押し上げ、ケイを睨んだ。


 ケイは脱脂綿の上から自分の腕を押さえ、簡易ベッドから身体を起こした。

「研究は進んでるのか?」


 フィーは端末を手元へ引き寄せ、採取した血液に識別番号を入力する。視線だけをケイへ向けた。

「進んでいると言えば、進んでます」


 曖昧な返答に、ケイは鼻を鳴らして笑った。

「なんだその答え。オルシアの国立研究所ほど立派じゃないが、それなりに機材は揃えてあるだろ」


 フィーは部屋の中へ目を向けた。

 低温保存機器の表示灯が点滅し、解析装置の内部で冷却ファンが一定の音を立てている。

 高価な機材の多くは正規の経路から購入できるものではない。複数の協力企業と中立圏の輸送業者を経由し、部品ごとに運び込まれたものだった。


 オルシアの国立科学研究所で血液の研究をしていたフィーは、オルディア系難民だった。

 帝国のオルディア狩りに遭ったところをウィリスに助けられ、その経歴を知ったケイが研究費用を出資するという口説き文句でARCLINEにスカウトした。


「ええ。機材は十分ですよ。よくここまで揃えたものだと思います。」

 端末に表示された解析結果へ指を滑らせる。

「でも、血とエネルギーがどこまで相互作用するのかという研究テーマは奥が深いんですよ」


 ケイは保存機器の中へ収められた試験管を見た。


 透明な容器の中に、自分の血液が入っている。帝国が長年追い続けてきたもの。

 連合もまた、保護という名目で手放そうとしなかったもの。

 オルタイトの出力と、人間の血統が、どのような条件で結びつくのか。どこまでが生まれ持った性質で、どこからが後天的に変化するものなのか。


 外側から拾える資料には限界があった。ケイは低く息を吐いた。

「……これ以上は、帝国に直接踏み込むしかないか」


 その時、研究室の扉が開いた。

 金属製の扉が壁の内側へ滑り、廊下の冷たい空気が入り込んでくる。


 ウィリスが室内へ足を踏み入れた。

 表情はいつもと変わらない。しかし、手に持った端末を握る指には力が入っていた。フィーが顔を上げ、ケイも簡易ベッドから立ち上がる。


 扉が閉まるのを待ってから、ウィリスが端末をケイへ差し出した。

「連合の非公式暗号通信だ。タミルが拾った。」


 ケイは端末を受け取り、画面へ視線を落とした。最初の数行を読んだところで、その目がわずかに開く。

 表示されていたのは、大規模作戦に関する命令文だった。


 作戦時刻。

 投入部隊。

 攻撃対象となる座標。

 そして、攻撃直前にREDROSEへ送る座標を変更し、非武装キャンプへ爆撃を誘導する指示。


 ケイは最後まで読み終えると、すぐに顔を上げた。

「……いつだ?」


 ウィリスは、ケイの目を真っ直ぐに見返した。

「……二日後、まだタミルと俺しか知らん。止めるか?」


 研究室の冷却装置が、低い音を立てていた。ケイは端末へもう一度目を落とした。

 画面に並んだ命令文を、上から下まで読み返す。指先は動かない。表情にも、ほとんど変化はなかった。

 やがて、端末をウィリスへ返した。

「……いや、いい。連合には構うな。情報はここで止める。」


 ウィリスの眉が、わずかに寄った。

「……ロナルド2世を殺すために、娘まで使う気か」


 ケイは袖を下ろし、採血した箇所を覆った。

「……あすみが自分で選んだ道だ。」


「カイトにも伝えないのか。」

 ウィリスの声は低かった。問い詰めるというより、最後の確認に近い響きだった。


 ケイは、机上に置かれた解析端末へ視線を向けた。画面には、自分の血液とオルタイト出力の測定値が並んでいる。

「そうだな。あいつにもそろそろ起きてもらわないとな」


 フィーは、保存機器の前から二人を見ていた。

 白衣のポケットへ片手を入れ、もう片方の手でまた眼鏡の位置を直す。ケイの横顔をしばらく見つめたあと、慎重に言葉を選ぶように口を開いた。

「……娘さんは帝国側にとって“鍵”になる可能性のある存在だ。これ以上前線に出たら拉致される確率が上がる。

 ケイ。あなた、わざと娘さんを後ろに下がらせるつもりじゃないですか?」


 ケイは答えるまでに、わずかな間を置いた。視線は、フィーではなく、保存機器の中に並んだ試験管へ向いている。

「……下がるんだったら、あいつもそれまでって事だな。」


 ウィリスの目が細くなった。

「……ケイ。お前と娘は違う。やり方を考え直した方がいい。」


 ケイは、ゆっくりと顔を上げた。

 剥き出しの照明が、目の下へ薄い影を落としている。

「もうそんな悠長な事は言ってられない。とっくに局面は変わってんだよ」


 誰もすぐには返さなかった。

 何かが明確に変わったわけではない。

 しかし、ブライトン大統領の死で膠着していた戦争が急速に動き始めたことを感覚で理解していた。

 研究室の壁面では、解析装置の表示灯が一定の間隔で点滅している。

 フィーは机上の端末へ目を落としたが、入力作業を再開せず、ウィリスも動かなかった。

 ケイだけが袖口を整えると、研究室の扉へ向かって歩き出した。



 *


 ――二週間後


 撮影された映像と航行記録は、事件の翌日には一部のメディアへ流れていた。

 学園コロニーの近傍で、民間船を装った輸送艇と所属不明の人型機動兵器が交戦している映像。


 崩れていく校舎。

 逃げ惑う生徒たち。

 そして、事件発生直前から外周宙域に展開していた三機のARCLINEの機体。


 内部へ持ち込まれていた使い捨て兵器には、所属を示す識別コードが残されていなかった。

 外部で撃墜された護衛機も、回収できた残骸はわずかだった。

 その一方で、ARCLINEの機体は鮮明に記録されていた。


 襲撃を阻止するために動いた者たちが、襲撃を成立させた者たちとして疑われている。


 連合政府は、ARCLINEとの関係を公式には認めていない。

 事件の責任を追及する声明を出し、各地の航路へ監視網を広げていた。

 報道機関も独自に追跡を始め、ARCLINEと接点を持った企業や輸送業者の周辺を嗅ぎ回っている。


 母艦を昼間に動かせば、人工衛星か民間船のカメラに捉えられる危険がある。

 補給船を一隻受け入れるだけでも、航路を何度も変えなければならない。


 ARCLINEの活動範囲は、この二週間で目に見えて狭くなっていた。


 本部の休憩室は、岩壁の内側に設けられていた。

 窓はない。天井は低く、壁面には古い配管が剥き出しのまま残されている。空調機の音に混じって、遠くから海水を汲み上げるポンプの振動が伝わってきた。

 部屋の片隅では、カイトとサジが小さなテーブルを挟んで向かい合っていた。


 使い込まれた安物のチェス盤が二人の間に置かれている。

 白と黒の升目はところどころ塗装が剥げ、境界線がかろうじて判別できる程度にすり減っている。

 駒もすべて同じ製品ではなく、失くしたものを別の盤から補ったらしく、微妙に形や色合いが違っていた。


 サジは盤上の駒を一つつまみ、親指と人差し指の間で小さく揺らしていた。

 椅子に深く腰を沈めた姿勢は普段と変わらない。しかし、盤面を眺める目には、いつもの軽薄さがなかった。

「やられた。って感じだな」


 カイトは目の前の駒へ視線を落としたまま、黒いナイトを一つ動かした。木製の駒が盤面へ触れ、乾いた音を立てる。

「何が」


 サジは盤面から顔を上げた。呆れたように片眉を持ち上げ、椅子の背へ片腕を乗せる。

「何がってお前、この間の襲撃事件だよ。俺ら完全に犯人扱いじゃねえか」


 そのまま大きく後ろへ身体を揺らすと、古い椅子が軋んだ。

「あいつら、わざと俺らを外周に誘導しやがってよ」


 カイトは返事をしなかった。

 盤面から取った白い駒を、掌の中で持ち直す。指先へ力が入り、駒の角が皮膚へ食い込んだ。


 LAA外周へ向かっていた輸送艇は、最初から見つかるように動いていた。

 護衛機の数は少なく、撤退経路も用意されていなかった。ARCLINEに撃墜させ、周辺の監視網へ戦闘記録を残すための囮だった。


 冷静に戦況を見ていれば、もっと早く気づけたかもしれない。

 外側に垂らされた線が、敵の本命ではないことに。


(あの時、よく考えれば罠だと、もっと早くわかったはずだ)

 カイトは、盤面の中央を見つめた。


 白と黒の駒が入り組み、互いの進路を塞いでいる。目の前の駒だけを追えば、次に動かすべき場所は分かる。

 けれど、盤面の外から手を伸ばす者がいるなら、いくら正確に線を読んでも意味はない。


(……境界線を引き間違えた……俺が?)

 駒を持つ指が、わずかに動いた。


 サジはその様子を見ていたが、何も言わなかった。


 自動販売機の冷却装置が低く唸り、遠くの桟橋から運搬機の駆動音が響いてくる。

 日常の音だけが、二人の間へ残った。


 *


 本部の食堂には、昼食の時間を少し過ぎたあとの気怠い空気が残っていた。

 金属製のテーブルには、片付けられていないトレーがいくつか置かれ、厨房の奥では食器を洗う水音が響き、自動販売機の冷却装置が壁際で低く唸っていた。


 カイトとサジが食堂へ入ると、壁面の大型画面の前に、ニコとリサとミナが立っていた。

 三人とも食事を取っている様子はない。


 ミナは端末を両手で持ち、画面に流れている映像と手元の記録を見比べていた。眉間には深い皺が寄り、端末を支える指先が画面を切り替えるたびに硬くなる。

 リサは腕を組み、壁面の大型画面を睨んでいた。普段は冷静な表情を崩さないが、今は嫌悪を隠そうともしていない。

 ニコは二人の少し後ろに立ち、片手を腰に当てたまま映像を見つめていた。いつもなら口元に浮かんでいる気の抜けた笑みはなく、頬の筋肉がわずかに強張っている。


 画面には、乾いた大地に設けられた仮設キャンプが映っていた。

 薄い布地で作られた居住用テントが密集し、その間を細い通路が走っている。貯水タンクの近くでは、衣服を抱えた女性が足早に歩き、診療所らしい白い天幕の前には数人が並んでいた。粗い遠距離映像では顔までは判別できないが、武装した兵士の姿は見当たらない。


 画面の片隅には、中立圏の報道局を示すロゴが表示されていた。


 ミナは記録を遡りながら、小さく息を吐いた。

「……連合側の発表では、敵側指揮官が潜伏する拠点への報復攻撃になっています」


 画面の中では、仮設の天幕の間を、衣服を抱えた女性が足早に歩いている。


「これ……非武装キャンプですよね。酷いことさせますね。広告用?」


 リサは画面から目を離さなかった。

「ブライトン大統領が暗殺されて、世論を味方につけたいんでしょ。REDROSEが一番適任って判断された。胸糞悪いわね」


 食堂の入口で、扉を開けて入ってきたカイトの足が止まった。

 サジも数歩先で立ち止まり、振り返る。カイトの顔から血の気が引いていくのが分かった。


 REDROSE。

 連合軍が与えた呼称。戦況報道の中で繰り返し使われ、前線の兵士にも民間人にも知られるようになった象徴。

 その機体に誰が乗っているのか、今では疑う余地もない。


 画面の中に、あすみがいる。


 カイトは一歩踏み出した。

 その気配に気づいたニコが振り返り、素早く前へ出る。画面へ向かおうとするカイトの進路を塞ぎ、肩口に手をかけた。

「見るな。」


 カイトはその手を振り払った。勢いに押されてニコの手が外れる。

 そのまま画面の前まで進んだ。靴底が床を打つ音が、食堂に残っていた食器の触れ合う音をかき消していく。


 映像の下部に、赤い帯が流れた。


 REDROSE 非武装キャンプ爆撃。


 画面の上空に、一機の機体が現れた。

 灰白色の装甲。オルタイト反応によって装甲の継ぎ目だけが赤く発光している。

 高度を保ったまま速度を落とし、照準を合わせるように機体の姿勢を変える。次の瞬間、腹部から切り離された弾体が、キャンプの中央へ向かって落下していった。


 白い光が画面を塗り潰した。


 遅れて爆炎が広がり、仮設の天幕が衝撃波に押し流される。地面から巻き上がった土煙が視界を覆い、その奥で貯水タンクが横倒しになった。炎に包まれた資材が散乱し、逃げ惑う人々の姿が煙の切れ間に断続的に映り込む。


 映像が切り替わった。


 子どもを抱き抱えた母親が、崩れた住居の前で叫んでいた。

 音声は不鮮明で、言葉までは聞き取れない。けれど、腕の中の子どもを必死に抱き締めながら、煙の向こうへ向かって声を張り上げる表情だけは、画面越しにも痛いほど伝わってきた。


 カイトの喉が、小さく動いた。

「……なんだよこれ。」


 サジは画面を見たまま眉を寄せた。いつもの軽口を挟む余裕はなく、低い声が漏れる。

「非武装キャンプって……これじゃ味方につけるどころかーー」


 言いかけて、カイトを見る。


 カイトの目は大きく見開かれたままだった。

 画面の中では、灰白色の機体が燃え広がるキャンプの上空を通過していく。炎の明かりを受け、赤く発光する継ぎ目だけが遠距離映像の中で不気味に浮かび上がった。


 なんのために、こんな映像を流した。

 帝国を攻撃するためか。

 ブライトン大統領を失った怒りを利用し、世論を味方につけて、さらに多くの軍事予算を引き出すためか。

 非武装キャンプを爆撃した機体を映し出し、敵への報復を求める感情を煽るためか。


 カイトは、画面から目を離せなかった。


 爆撃地点の周辺では、救助に向かった人々が瓦礫を持ち上げようとしている。濃い土煙が風に流され、その向こうで火の粉が舞っていた。

 西方であいつの目はすでに変わっていた。だけど、非武装キャンプへの爆撃を平気でやるやつじゃない。


 (……受け入れたのか、あすみ)


 ミナが端末へ視線を落とし、作戦記録を遡った。指先が画面を滑り、一覧の途中で止まる。

「REDROSE、この作戦の後からどの作戦にも名前がない。おかしい。これ、1週間以上も前ですよね?」

 リサは腕を解き、ミナの端末を覗き込んだ。画面に並んだ作戦記録を目で追ううちに、険しかった表情が変わる。

「REDROSEが戦場から消えた?」


 カイトは踵を返した。迷う様子もなく、食堂の扉へ向かって歩き出す。

 サジがすぐに追い、カイトの腕を掴む。

「落ち着けって、カイト」


 カイトは足を止めた。ゆっくりと振り返る。

「落ち着け?」

 カイトはサジを真っ直ぐ見た。

「非武装キャンプの次はどこだ。街か? 基地か? それとも国か?」

 声が荒くなる。食堂の外まで聞こえるくらいの大きな声が響いた。

「どこか一つ、あいつに消滅させるまで象徴でいさせるつもりか!」


「カイト!」

 鋭い声が飛んだ。


 厨房の奥から聞こえていた水音も、食器の触れ合う音も止まっていた。食堂に残っていた数人が、画面の前に集まる者たちへ視線を向けている。


 ニコはカイトを見据えたまま言った。

「……ここで暴れたって、何にもならないだろ」

 声はさらに低くなる。

「暴れるなら、一番痛いところを効率よく叩け」


 カイトは何も言わなかった。

 次の瞬間、サジの手を振り払い、扉を勢いよく開けて出ていく。

 金属製の扉が壁へぶつかり、硬い音を立てた。カイトの足音は速度を落とさないまま、通路の奥へ遠ざかっていく。


 残された空気だけが、しばらく震えていた。


 サジは閉まった扉を見つめ、小さく息を吐いた。

「……あんな大声、出せるんだな」


 ニコは険しい顔で振り返った。

「笑い事じゃないだろ」


「笑ってねぇよ」

 サジの肩が少しだけ落ちる。

「嬉しいだけ。あいつも、年相応だったんだなって」


 *


 ケイは、本部の作戦室にいた。

 岩盤の内側へ掘り込まれた室内には、複数の通信端末と解析機器が並んでいる。

 壁面には、帝国領と連合領、中立圏を結ぶ航路図が投影され、大小の光点が細い線の上を移動していた。


 机上には、LAA襲撃事件に関する報道記録と、連合軍の動向を整理した資料が開かれている。

 ケイは椅子に腰を下ろし、端末の画面を見ていた。


 作戦室の扉が勢いよく開き強い足音が室内へ入ってくる。

 ケイは画面から顔を上げた。


 見上げた先の入り口に、カイトが立っていた。

 いつもなら感情を表へ出さない目に、押し殺せない怒りが浮かんでいる。呼吸は乱れていないが、肩には力が入り、両手は身体の脇で固く握られていた。


 ケイは椅子の背へ身体を預け、口元をわずかに歪めた。

「なんだよ怖い顔して」


 カイトは机の前まで歩いた。

「……あすみが連合の任務から消えました」


「そうみたいだな」

 返答は、淡々としていた。


 カイトの眉が動く。

「知ってたんですか?」


「知らん。だが、予想はしてた。」


 カイトは、ケイの顔を見つめた。食堂で見た映像が、目の奥に焼き付いている。


 灰白色の機体。

 非武装キャンプへ落下した弾体。

 炎の中で子どもを抱き締めていた母親。

 作戦記録から消えたREDROSEの名前。


「帝国の腹を叩いて、あすみを守るんじゃなかったんですか」


 ケイの表情は変わらなかった。

「誰が、入隊したあすみを守るって言った?」


 カイトの目が止まった。ケイが何を言っているのか、一瞬だけわからなくなった。

「……あんたが俺を攫ったから、あいつは軍に入ったんじゃないですか」


 ケイは答えなかった。机の向こう側から、黙ったままカイトを見ている。


「あんたは俺に、あいつの普通の生活を望んでるって言ってましたよね。……あんたが、あいつの普通を奪ったんだ」


 その言葉に、ケイの目がわずかに細くなる。

 ケイは椅子から立ち上がった。

 机の脇を回り込み、ゆっくりとカイトへ近づく。


「お前が側にいれば、あいつは入隊しなかったと思ってるのか? SKYにも乗らなかったと?」

 ケイはさらに距離を詰める。

「一度でもあすみがお前に言ったことあるか? 自分が“オルディア”で“適性テストでRANK S”だったって」

「どこまで脳みそお坊ちゃんなんだ。成長してねぇなぁ」


 そしてカイトの顔のすぐそばまで身を寄せた。

「あすみはわかってた。“オルディア”で、“俺の娘”で、軍に入るのがどういうことか」

「連合にいたら、お前たち二人とも、どのみち戦争の中心に引きずり込まれてたんだよ」


 カイトの喉が、わずかに動いた。


「お前らを守るために作ったVR保護プログラムも、連合の監視下にあった」

 ケイは、カイトから目を逸らさなかった。

「“保護されてる”っていうのは、そういうことだ」


 保護。


 その言葉の温度が、カイトの中で変わる。


 守られていたのではない。

 置かれていた。

 いつでも、取り出せる場所に。


 あすみも。

 自分も。


 連合と帝国の間で、価値を測られ続ける場所に。


「で?」

 ケイの声が、さらに低くなる。


「どうしたいんだ、帝国の坊ちゃんは。

 俺の後ろに隠れたまま、境界線を引き続けるか?」


 次の瞬間、乾いた音が響いた。

 カイトの拳が、ケイの頬を打っていた。


 ケイは避けなかった。

 衝撃で顔がわずかに横へ逸れ、口の端が切れる。鉄の匂いが広がったのか、ケイは舌先で唇を軽くなぞった。


「……これは、あすみの分だ」


 あすみがどこにいるのかは分からない。

 炎に包まれたキャンプも、LAAで失われた命も戻らない。

 感情に任せて飛び出すだけでは、何も変わらない。


 ニコの声が、耳の奥に残っていた。


 暴れるなら、一番痛いところを効率よく叩け。


 これまで通り、ケイの指示を待って飛び続けるだけでは届かない。

 補給線を断ち、帝国の腹を少しずつ削っても、その間にあすみは戦場から消えた。


 ケイの後ろに隠れたまま、境界線を引き続けるのか。


 その問いへの答えは、もう決まっていた。カイトは赤くなった拳をゆっくりと開いた。


 自分にしか開けられない扉がある。

 ずっと、触れずにいた扉だった。

 けれど、いまは躊躇している場合ではない。カイトは顔を上げた。


「アルクトリ皇室に、俺を繋げ」


 ケイは、切れた唇へ指先で触れた。親指に付いた血を見たあと、カイトへ視線を戻す。

 何も言わずに、ただ、口元をわずかに歪めた。


 *


 端末の操作音と低い機械音が途切れなく重なっていた。


 ミナは通信席に座り、複数の回線を順番に切り替えながら、暗号化された記録を整理していた。

 LAA襲撃事件以降、ARCLINEが使用できる通信経路は大きく制限されている。

 発信元を追跡されないよう、中立圏の小規模な通信設備や協力企業の回線をいくつも経由させなければならない。短い連絡を一つ送るだけでも、以前よりはるかに多くの確認作業が必要になっていた。


 少し離れた席では、ニコが航路情報を確認していた。画面に並ぶ座標を追う指先は止まらずに動いている。

 その隣では、サジが椅子へ浅く腰を下ろし、黙ったまま航路図を眺めていた。

 食堂から戻ってから、二人ともカイトが向かった先について口にしていない。


 岩壁の内部に設けられた艦橋には窓がなく、外の海の音も届かない。空調設備の低い唸りと、端末から送られてくる電子音だけが、室内へ一定の間隔で響いていた。


 不意に、背後の扉が開きケイが艦橋へ入ってきた。


 金属製の隔壁が横へ滑る音に、ニコが顔を上げる。


 歩き方は普段と変わらない。肩の力も抜けたままで、急いでいる様子もなかった。

 しかし、口の端には細い傷が残っていた。切れた箇所から滲んだ血が乾きかけ、唇の脇へ赤黒い線を作っている。


 ケイは誰とも目を合わせず、切れた唇へ軽く指を触れながら、ミナの席へ向かった。

「ミナ、アステリアの担当者に繋げ」


 名前を呼ばれたミナは、端末から顔を上げた。

「はい。……え、どうしたんですか? 口の端、切れてますよ」


 ケイは親指で口元を拭った。指先についた血を見て、わずかに眉を寄せる。

「チッ、本気で殴りやがって。育て方、間違えたな」

 低く吐き捨てるような声だった。けれど、唇の端には、ごくわずかに笑みが残っていた。


 ニコはその表情を見たあと、何も言わずに端末へ視線を戻した。

(叩けとは言ったけど、そこをまず叩くのかよ)


 航路図の上では、細い光の線がいくつも交差していた。


 そのうちの一本が、これまでとは違う方向へ動き始めようとしていた。


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