Case 014: NullPointerException
翌日の夕方。
俺は目の前の光景に、思わず呆れてしまった。
「……お前、本当に引っ越してきたのか」
「はい!」
ラムダは満面の笑みで答えた。
その手には、荷物が詰まった大きな鞄。
彼女はそれを、俺の隣の部屋に運び込んでいた。
「昨日の今日で、よくそんな決断ができたな……」
「善は急げと申しますから!」
彼女の行動力には、正直脱帽するしかない。
◆◆◆◆◆
俺がパートナーとして雇うことを了承したのは、つい昨日のことだ。
なのにもう、同じ宿の隣の部屋に引っ越してきている。
ラムダの紫色の瞳が、嬉しそうに輝いていた。
昨日まで見えなかった目が、今はしっかりと俺を見つめている。
その瞳は、本当に綺麗な藤色だった。
「これで、いつでもアドミン様のお役に立てます」
「……まあ、好きにしろ」
俺はため息をついた。
止めても無駄だろう。
こいつは、一度決めたら梃子でも動かないタイプだ。
その時、階段を上がってくる足音が聞こえた。
「おう」
ヴォイドだ。
強面の店主は、俺とラムダを交互に見た。
「ラムダ、お前の心中はある程度察するが」
ヴォイドが低い声で言った。
「ここは宿屋だ。 二人とも、あまり羽目は外しすぎるなよ?」
「……は?」
俺は首を傾げた。
羽目を外すって、何のことだ?
だがラムダの方を見ると、彼女は顔を真っ赤にしていた。
「て、店主さん……! そのようなことは……!」
「分かってるなら良い。 宿屋の信用に関わるからな」
ヴォイドはそう言って、階段を降りていった。
「……何の話だ?」
「な、何でもございません!」
ラムダは顔を赤らめたまま、慌てて自分の部屋に入っていった。
俺は首を傾げながら、自分の部屋に戻った。
◆◆◆◆◆
だが、すぐにその意味を知ることになった。
その日の夜。
俺は自分の部屋で、ベッドに横になっていた。
今日は色々あって疲れた。
早めに寝てしまおう。
そう思って目を閉じた時だった。
「シュルルッ」
隣の部屋から、微かな音が聞こえてきた。
衣擦れの音。
服を脱ぐ時の、布が擦れる音だ。
「……」
俺は目を開けた。
ここは辺境の休息亭。
街外れの安宿だ。
壁が薄いのは、当然と言えば当然だった。
扉も窓も全部閉めたところで、音は筒抜けなのだ。
隣の部屋で、ラムダが着替えている音が聞こえてくる。
「勘弁してくれ……」
俺は枕で耳を塞いだ。
だが、それでも音は聞こえてくる。
俺の心の平穏が、掻き乱されていく。
これは、まずい。
店主が言っていたのは、こういうことだったのか。
俺は深く息を吐いた。
今夜は、眠れるだろうか。
◆◆◆◆◆
そして、極めつけは深夜のことだった。
ギシッ。
ギシギシッ。
軋む音が、隣から聞こえてくる。
その音をよく耳を澄ませていると、ベッドが軋む音のようだった。
「……おいおい」
俺は天井を見上げた。
時計を確認する。
深夜二時だぞ。
少しは隣への迷惑を考えてくれ。
ギシッ、ギシッ、ギシギシッ。
音は止まらない。
規則的に、断続的に、延々と続いている。
「俺の平穏が……」
俺は小さく呻きながら再び枕で耳を塞いだ。
だが嘆いたとて、軋む音は一向に止まらなかった。
ギシッ、ギシギシッ。
「これからこれが、毎日続くのか……?」
あいつを雇ったことを、少し後悔し始めていた。
◆◆◆◆◆
翌朝。
俺は完全に寝不足だった。
それもそのはず。
昨夜のあの軋む音は、なんと六時間も続いたのだ。
深夜二時から朝の八時まで。
延々と、ギシギシ、ギシギシ。
多めに睡眠時間を確保したつもりだったのに、正直二時間も眠れていない。
完全に寝不足だ。
前職ではこんな中でも必死に働いていたが。
正直金も量産できてしまうこの世界で、こんな状態で働きたくはない。
俺は重い足取りで一階に降りた。
食堂には、既にラムダが座っていた。
「おはようございます、アドミン様!」
彼女は爽やかな笑顔で挨拶してきた。
お前、あれだけ騒いでおいて、よくそんなに元気でいられるな。
「……おう」
俺は素っ気なく返事をして、向かいの席に座った。
ヴォイドが朝食を運んできてくれる。
パンとスープ、そして干し肉。
質素だが、悪くない。
俺は黙々と食べ始めた。
「アドミン様、お顔の色が優れないようですが……」
ラムダが心配そうに言った。
「大丈夫ですか?」
お前がそれを言うのか?
もしかして、俺が試されているのか?
「……」
いや、多分本人は気付いてもいないのだろう。
そのとんがった耳の様子から耳はいい方だと思っていたが、自分が騒音を立てているときには気づかないタイプか?
なんて厄介な。
「……あのなぁ」
俺は箸を止めた。
言うべきか、言わざるべきか。
いや、言わないとこの状況は改善されないのだろう。
「……俺も、そういう欲がないとは言わんから、多少は許してやるが」
「え……?」
ラムダが首を傾げた。
「お前、夜煩いのはなんとかしろ」
「う、うるさい……?」
「睡眠を妨げるなら、店主に頼んで離れた部屋に移動してもらうか、元の宿に戻ってもらうからな」
俺は気まずくならないように、至って淡々に告げた。
ラムダの顔が、みるみるうちに真っ赤になっていく。
「え……? あ……その……っ!」
彼女は口をパクパクさせていた。
何か言おうとしているが、言葉が出てこないようだ。
「……とにかく、そういうことだ」
俺は気まずくなって、残りの朝食を掻き込んだ。
「先に部屋に戻る」
俺は席を立ち、階段を上がっていった。
背後から、ラムダの視線を感じる。
だが、振り返ることはしなかった。
二階に上がり、自分の部屋に入ろうとした時だった。
「いやああぁぁっ!」
一階から、甲高い悲鳴が聞こえてきた。
ラムダの声だ。
どうやら恥ずかしさのあまり、叫んでしまったらしい。
「……はぁ」
俺は溜息をついた。
既に先行き不安だった。
◆◆◆◆◆
その日の午後。
俺たちは冒険者ギルドに向かった。
こいつとパーティ登録をするためだ。
「パーティ登録、ですか」
ラムダが首を傾げた。
今朝のことは、もう忘れたらしい。
いや、忘れたフリをしているだけかもしれないが。
「ああ、冒険者にはパーティを組んで活動している奴らもいるらしいからな」
「確かに、大規模な依頼をこなすには、複数人で動いた方が効率が良いですね」
「それにお前と俺の関係を公式に登録しておけば、色々と都合がいい」
俺たちはギルドの受付に向かった。
いつもの受付嬢が、笑顔で迎えてくれる。
「いらっしゃいませ、チェックサム様。 本日はどのようなご用件でしょうか?」
「こいつとパーティ登録をしたい」
「かしこまりました。 パーティ名と、メンバーのお名前をお願いします」
俺は少し考えた。
パーティ名か。
何がいいだろう。
「……検証者で」
「デバッガー、ですか?」
「ああ」
検証者。
不具合を見つけて修正する者。
この世界での俺の役割そのものだ。
「メンバーは、俺とこいつ……ラムダだ」
「はい、承知しました。チェックサム様とラムダ様で、パーティ『検証者』ですね」
受付嬢が書類に記入していく。
「これで登録完了です。今後は二人で依頼を受けることもできますし、パーティとしての実績も記録されます」
「助かる」
「それでは、何かお探しの依頼はございますか?」
「いや、今日は登録だけでいい」
俺たちが帰ろうとした時だった。
受付嬢が、思い出したように言った。
「あ、そういえば最近、ちょっとした噂があるのですが……」
「噂?」
「はい。 ジャバ共和国の女勇者が、ルビー王国にやってきているそうです」
「ジャバ共和国?」
俺は眉をひそめた。
「その女勇者は、指名手配犯を探しているとか……」
「女勇者の名前は?」
「確か……ヌル=ポインタ様、だったかと」
「……」
俺は固まった。
ジャバ共和国の、ヌル=ポインタ。
それを聞いた途端、俺は無意識のうちに口から言葉が漏れ出た。
「ガッ」
「……え?」
受付嬢が怪訝な顔をした。
「チェックサム様……?」
「急に、どうかされたのですか?」
ラムダも心配そうに俺を見ている。
「いや……何でもない」
俺は首を振る。
これは一種の通過儀礼のようなものだ。
だが、この世界では通じない。
美人が常に隣にいるのはやや得かもしれんが、前世のネタが分からないというのは、やはり少し寂しく感じる。
「それで、その女勇者が探している指名手配犯というのは?」
「それが……チェックサム様、お名前が出ておりました」
「……は?」
俺は眉を顰めた。
「どういうことだ」
「シープラ帝国で暴れ散らかしたことを理由に、ジャバ共和国で罪に問われているという噂が……」
「待て。 シープラ帝国で俺がやったことが、なぜジャバ共和国で罪になる?」
「それは私にも分かりません……あくまで噂ですので」
胡散臭い話だ。
シープラ帝国でクロージャの悪行を暴いたことが、なぜ隣国で罪に問われるのか。
どう考えても、おかしい。
「……まあいい。 気をつけておく」
「お気をつけください。 勇者というのは、普通の冒険者とは桁違いの力を持っていますから」
俺たちはギルドを出た。
◆◆◆◆◆
その日の夕刻。
俺たちが宿に戻ろうとしていた時だった。
空から、影が降ってきた。
「……っ!」
俺は咄嗟に身構えた。
巨大な影が、街の広場に降り立つ。
竜だ。
翼を広げた、青黒い鱗の竜。
そしてその背中に、一人の女が跨がっていた。
「見つけたぞ、犯罪者チェックサム!」
女の声が、広場に響き渡った。
「観念しろ!」
竜から飛び降りた女は、大剣を構えていた。
短い紅髪に、鋭い眼光。
筋肉質な体を鎧で包み、いかにも戦士然とした佇まいだった。
「……お前が、件のヌル=ポインタか」
「そうだ! ジャバ共和国の勇者、ヌル=ポインタ! 悪を許さぬ正義の剣!」
熱血そうな女だ。
目が爛々と輝いている。
「お待ちください」
ラムダが前に出た。
「話を聞きなさい。チェックサム様は犯罪者ではありません」
「黙れ!」
ヌルが大剣を振りかぶった。
「勇者は悪を許さない! 犯罪者をかばう者も、同罪だ!」
「話を聞けと言っているでしょう!」
ラムダがレイピアを抜いた。
だが、ヌルは聞く耳を持たない。
「邪魔をするな!」
ヌルが突っ込んできた。
その速度は、桁外れだった。
「っ!!」
これが勇者チートか。
普通の人間では考えられないほどの身体能力。
距離を一瞬で詰め、大剣を振り下ろす。
だが――
カァンッ!
金属音が響いた。
ラムダのレイピアが、大剣を受け止めていた。
「……ほう」
ヌルが目を細めた。
「勇者の一撃を受け止めるとは、なかなかやるなッ!」
「私を、甘く見ないでいただけますかっ!」
ラムダが静かに言った。
その目が、真っ直ぐにヌルを見据えている。
紫色の瞳が、夕日を受けて輝いていた。
ラムダは目が見えるようになった。
つまりこれまで魔力感知に注いでいた魔力を、別の用途で使えるようになった。
そう、魔法を攻撃に使えるようになったのだ。
「燃えよ」
ラムダが短く詠唱した。
次の瞬間、彼女のレイピアが炎に包まれた。
「炎魔法だと……!?」
ヌルが目を見開いた。
炎を纏ったレイピアが、大剣に向かって薙ぎ払われる。
ジュウッ!
金属が焼ける音がした。
「これが――」
ラムダが言った。
「生まれ変わった、私の力です!」
炎が大剣を舐めていく。
ヌルの大剣が、見る見るうちに溶けていく。
勇者相手に、一歩も譲らない姿勢。
ラムダは、俺から見ても本当に強くなっていた。
「くっ……!」
ヌルが後ろに跳んだ。
だが、大剣は既に半分以上溶けていた。
もはや武器としては使い物にならない。
「観念しなさい」
ラムダが炎のレイピアをヌルに向けた。
「これ以上の戦闘は無意味です」
「……ふん」
ヌルが鼻を鳴らした。
「面倒だな」
次の瞬間――
ヌルが、素手でラムダのレイピアに触れた。
「な……!?」
ラムダが驚愕した。
炎を纏ったレイピアに、素手で触れる。
普通なら、大火傷どころでは済まない。
だが――
炎が、消えた。
ヌルの手に触れた瞬間、レイピアを包んでいた炎が、煙のように消え去ったのだ。
「気でも触れましたか……?」
ラムダが呆然と呟いた。
「いや、むしろ――」
ヌルがニヤリと笑った。
そして、レイピアの刃に手を当てた。
次の瞬間――
レイピアが、消えた。
ラムダの手から、武器そのものが消失したのだ。
「私の、レイピアが……!?」
「私は勇者だから、特別なんだ」
ヌルが高慢に言った。
「この能力『ヌル参照』は、人以外なら触れたらなんでも消せるのさ」
NullPointerException。
参照先が何でもない状態――「ヌル」になっているときに発生する例外。
それが、この世界では『触れたものを消す』能力として具現化しているのか。
「厄介な女だな……」
意図的に触れたものを無に変換してしまうなんて、相当ヤバいヤツだ。
「さあ、犯罪者チェックサム。 次はお前の番だ」
ヌルは勝ち誇ったように笑みを浮かべていた。




