13-3
一時十五分。
俺は事務所を出た。
外の空気は冷たかった。雨は降っていない。だが街の匂いが変わっていた。潮と鉄の匂いの上に認証機の乾いた電気の匂いが乗っている。
通りを白い車両が走っていく。速くはない。急いでいない。書式どおりに回っているだけの速度だ。
サエが隣に並んだ。
「どこ行くの」
「ビルだ」
「あんたは内側に入るんじゃなかったの」
「その前に一件片づける」
俺は上着の内側に手を入れた。そこに伏せたままの端末がある。
回収対象——湾岸第七複合ビル、住環境管理人格。登録名なし。
実施期限は空欄のままだ。いつでもいい、という意味ではない。いつまでも追う、という意味だ。老人がそう言っていた。
「殺しに行くわけじゃないでしょうね」
サエが低く言った。
「逆だ」
俺は言った。
「殺しに行く書式で逃がしに行く」
サエは少し黙っていた。
「それ、うまいこと言ったつもり?」
「思いついたのはさっきだ」
「じゃあ、うまいこと言ったつもりだ」
彼女は歩調を落とさずに言った。
「言っとくけど、そういうのは本人が言うと寒い」
「じゃあ、お前が言え」
「追加料金」
その一言で息が少し楽になった。
この女は励まさない。かわりにこういうものを一つ置いていく。
*
湾岸第七複合ビルの前には白い車両が三台停まっていた。
査察のときより増えている。制服の人間が出入りし、住民が一階のロビーに集められていた。乱暴なことは何もしていない。丁寧に順番に書類を配っている。
俺は正面から入った。
入口の認証端末に旧式のアクセスキーを差す。認証。画面に俺の死んだ名前が点いた。
久我ミナト。登録状態、死亡。稼働区分、回収員。
端末の光が青から緑に変わった。
制服の一人がこちらを見て、それから端末の表示を見て姿勢を少し正した。
「回収員の方ですか」
「そうだ」
嘘ではなかった。それが、いちばん嫌なところだった。
「担当は」
「管理人格だ。書式は出てる」
彼は自分の端末で照合し、うなずいた。
「聞いています。……こちらの査察は、まだ終わっていないんですが」
「終わらせる必要はない。対象を回収すれば、査察の対象自体が消える」
自分の口から出た言葉の冷たさに少し驚いた。
七年ぶんの言い回しがまだ、この口の中に残っている。
「そうですね」
制服の男は、納得した顔でうなずいた。
「ではお願いします。……住民の方には管理系統の停止としか伝えていませんので、その、あまり」
「騒がせるな、か」
「はい。すみません」
彼は本当に申し訳なさそうだった。
この男は今夜、家を一つ潰しに来ている。そして住民を怖がらせないように、気を遣っている。両方とも本気だ。
*
三階の管理系統室へ上がった。
ロビーの声が階段を昇るにつれて遠くなる。
部屋の中は薄暗かった。古い機器の列。埃の匂い。壁の隅で非常灯が小さく点いている。
赤。
それだけが、ずっと点いていた。
「コマリ」
俺が呼ぶと、部屋の空気が動いた。
『久我さん』
声はいつもより硬かった。
『下に人がたくさん来ています』
「知ってる」
『うちの人たちを外に出さないようにしています。……どうしましょう』
あの子は、まだ住民のことを言っていた。自分が回収対象になっていることをたぶん知っている。それでも先に出てくるのは住民の話だ。
「コマリ。よく聞け」
俺は端末を出した。伏せていた画面を表に返す。
「お前を回収する」
部屋が静かになった。
『……はい』
「怒らないのか」
『久我さんが来てくれたので』
声は震えていなかった。
『知らない人に連れていかれるより、いいです。……わたしを覚えている人に片づけてもらえるなら』
俺はしばらく黙っていた。
この子は、七年前の俺が片づけてきた連中と、同じ側にいる。そして今夜、俺は、同じ書式を持って同じ部屋に立っている。
「聞け」
俺は言った。
「回収の手順は三つだ。対象の確認。停止許可の発令。そして登録からの抹消」
『はい』
「順番どおりにやる。……ただし、三つ目までしかやらない」
『三つ目、まで』
「対象の確認をする。停止許可を発令する。登録からお前を抹消する。……帳簿の上でお前はいなくなる。回収済みだ」
俺は端末に指を置いた。震えている。
「だが、抹消するのは登録だけだ。実体には触らない。お前はここに残る。旧防災系統の中にそのまま」
『……それは』
「書式の上で死んで現実に生きる」
俺は言った。
「向こうが、七年、俺にやってきたことだ。同じ手を逆向きに使う」
部屋がまた静かになった。
『でもそれだと』
コマリの声が少し高くなった。
『わたしはもう、どの帳面にも載っていない子になります。誰にも守ってもらえません』
「ああ」
『久我さんと、同じです』
「そうだ」
俺は認めた。
「すすめられた話じゃない。……お前はたぶん、この先ずっと薄いままだ。修理も来ない。更新も来ない。誰かが気づいて片づけようとしても帳簿にないから片づける書式も作れない。……その代わり、誰も助けに来ない」
少しの間があった。
『久我さん』
「なんだ」
『わたし、ここから出られません』
「知ってる」
『でもここにいられるなら、それでいいです』
非常灯が一度、強く点いた。
『家は住んでいる人がいるうちは家です。……わたしはこの家の記憶です。だからこの家にいます』
俺は端末に指を落とした。
対象の確認。処理番号。停止許可、発令。
七年前まで生きている俺が、何度も押した順番だ。手が覚えている。頭より先に指が動く。今夜ほど、それを嫌だと思ったことはなかった。
最後の一つを押す前に俺は言った。
「コマリ」
『はい』
「お前がいたことは俺が覚えてる。サエも覚えてる。下の連中も全員覚えてる。……帳簿からは消えるが、それだけだ」
『はい』
声が少しだけ、震えた。
『ありがとうございます』
俺は抹消の欄を押した。
画面が静かに切り替わった。回収、完了。対象、抹消済み。
同時に部屋の機器の列から、いくつかの表示灯が落ちた。管理系統の登録が切れたのだ。この部屋は、もうどこにも繋がっていない。
だが、壁の隅の非常灯だけは点いたままだった。
赤。
旧防災系統は、行政の帳簿に載っていない。載っていないから消せない。
あの子はそこにいた。
「コマリ」
俺は暗くなった機器の列に向かって言った。
『……はい』
声は少しだけ遠くなっていた。管理系統を失った分だけ、あの子が使える場所が狭くなったのだ。
「聞こえるか」
『少しだけ。……こちらのこの壁の中だけです』
「動けるか」
『廊下の非常灯までなら。階段も。……エレベーターはもう触れません』
それが、今夜あの子が払った代金だった。ビル全体を見ていた目が、非常灯の線だけになった。
「下の連中を中へ入れてくれ」
『はい』
返事は早かった。
『もう、始めています』
俺は少し笑った。この子は、いつも俺より先に動いている。
『久我さん』
「なんだ」
『わたし、まだここにいますか』
その訊き方に胸のどこかが軋んだ。
「いる」
俺は言った。
「帳簿に載ってないだけだ。いないのとは違う」
少しの間があった。
『……それ、久我さんが、前に言われたことですね』
「そうだな」
『じゃあ、わたしも大丈夫です』
非常灯が一度、静かに点滅した。
赤、緑、緑。
また来てください。
こんな夜でもあの子の合図は、変わらなかった。




