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帳の外 ―まだ、ここにいる―  作者: 佐和井 泥
第一三話 帳の外で生きている

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13-4

 一階へ降りると、ロビーの空気が変わっていた。


 住民が動き始めている。制服の人間が止めようとしているが、強くは止めない。彼らの仕事は、査察であって住民の拘束(こうそく)ではないからだ。


 そして階段の踊り場の非常灯が、点滅していた。


 赤、赤、赤。長い間。赤、赤、赤。


 避難誘導。人を建物の中へ導く合図。


 外へ逃がすのではない。中へ入れるのだ。


 この建物は、もう帳簿に載っていない管理人格の中にある。そして今夜、帳簿から抜けようとしている連中にとって帳簿に載っていない場所は、この街でいちばん安全な場所だった。


 住民の一人が非常口の扉を開けていた。若いオークだ。


 その向こうの路地に人が集まり始めている。ここの住民ではない。近所の登録の怪しい連中だ。


 オークが俺を見て、少しだけ顎を上げた。


「管理人が開けろって」


「そうか」


「あんた、あれの知り合いだろ」


「まあな」


「礼を言っといてくれ」


 彼はそう言って、また扉を押さえた。


 俺は言わなかった。言えば、ここに管理人格が残っていることを口に出すことになる。


 この建物の住民は、査察のとき全員で「異常は、ありません」と答えた連中だ。今夜もたぶん同じ顔で同じことを言う。


 覚えている側が、覚えられている側を守り返していた。今夜もそうだった。


     *


 ビルを出たところでサエが足を止めた。


 路地の入口だ。人が入っていく流れのすぐ横。


 彼女は動かなかった。片手がコートの襟を握っている。もう片方の手が右の手首を掴んでいた。


「サエ」


「……来た」


 掠(かす)れた声だった。


「照合じゃない。今度は命令」


 俺は周りを見た。誰もいない。スピーカーもない。だが彼女の身体には届いている。名称照合の権限で旧名が発せられた。


 彼女の膝が折れかけた。


 右手が意志と無関係に上がりかける。指が一本ずつ開いていく。武器を構える手の開き方だ。足が半歩引かれた。突撃の前傾。


 頭は嫌がっている。全力で。だが首から下が別の生き物のように、次の命令を待っていた。


「サエ」


 俺は彼女の名前を呼んだ。今の名前を。


 一度では足りなかった。


「サエ。伊吹(いぶき)サエだ」


 彼女の指が震えながら閉じていく。途中で止まり、また開きかけ、もう一度閉じた。


「……うるさい」


 声が戻ってきた。


「あんたに名前を言われると、寒気がするって前にも言った」


「知ってる」


「追加料金」


 その一言で俺は、彼女が戻ったのを知った。


 だがサエは、まだ立ち上がらなかった。膝に手をついたまま、荒い息をしている。額に汗が浮いていた。


「前より、強い」


 彼女は言った。


「前は呼ばれただけだった。今度は命令が乗ってる。……戻ってこい、じゃない。動け、って言われてる」


「切れるか」


「線なら切れる。……でもまた引かれる。あの女は何本でも引ける」


 サエは顔を上げた。灰色の目に硬いものが沈んでいた。


「だから切りに行く」


「どこへ」


「向こうが引いてる先。……追撃部隊が来てる。私と同じ号令で動く連中が」


 彼女は袖の下の赤い駆動線を一度だけ強く灯した。


 自分の意志で。命令ではなく、選んで。企業に刻まれた、いちばん嫌いな赤を。


「ミナト。あんたは内側へ行って」


「サエ」


「私は外側を切る。あんたは内側から開ける。……そういう分担でしょ」


 彼女はそこで少しだけ振り返った。


「それと、一人、来てる」


「誰だ」


「呼んでない。勝手に来た」


 路地の奥の暗がりで何かが動いた。


 黒いショートコート。色の薄い灰色の目。サエと同じ形をした細さ。袖の下で赤い駆動線が、不安定に明滅している。


 ナギだった。


 どこにも登録のない個体。名前は宙に浮いたまま、どの帳簿にも載っていない。


『同じ声が聞こえた』


 ナギが言った。声はサエに似ていたが、もっと若く、もっと掠(かす)れていた。


『あの女の声。戻ってこい、って。……頭の中で鳴ってる』


「従うの」


 サエが訊いた。


『従いたくない』


「じゃあ、それでいい」


 サエはあっさり言った。


「従いたくない、が言えるなら、まだこっち側」


 ナギは自分の手を見た。指が勝手に開きかけている。彼女はそれをもう片方の手で押さえた。


 サエと同じ癖だった。誰にも教わっていないのに、同じ場所を押さえる。


『どうすればいい』


「走って」


 サエは言った。


「追ってくる連中を引っ張って。殺さなくていい。切らなくてもいい。……ただ、あんたが走ると、向こうは追う。同じ形式の反応が出るから勝手に追う。それでほかの連中の前から人が減る」


『それ、囮(おとり)って言わない?』


「言う」


 サエは認めた。


「嫌なら断って」


 ナギはしばらく黙っていた。


 それから袖の赤を一度、強く灯した。


『速いのは得意』


 そう言って、暗がりのほうへ消えた。


 俺はその背中が見えなくなるまで見ていた。


 いつだったか、俺は、あの個体の名称照合の線を切った。命令からは外したが、記録の線は残した。だからナギの名前は、まだ宙に浮いている。


 どこにも守られていない。誰にも数えられていない。


 それでも今夜、自分の足で走ることを選んだ。


 彼女は歩き出した。二歩進んで振り返った。


「言っとくけど」


「なんだ」


「私、今夜は旧名を消さない」


 サエは言った。


「消せば楽になる。呼ばれなくなる。……でも消したら、あの名前で作られた奴らがまとめていなかったことになる。ナギも。ナギの前の奴も後の奴も」


 彼女は少しだけ口の端を動かした。


「憎い名前を憎いまま抱えて立つ。……それが、私の仕事」

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