13-5
二時二十分。
俺は地下鉄の旧保守階段を降りていた。狐の裏帳簿が示した線の一つだ。駅としてはとうに廃止されていて、地図には載っていない。
段は狭く、手すりは途中から無い。壁に触れると指に錆がついた。
降りながら灰桜を噛んだ。震えが少し収まる。いつもどおりだ。この夜、この煙草はまだ効いていた。
効いているうちは考えごとができる。
俺はこれからやることを、もう一度頭の中で並べた。
自分の死亡記録を処理の列へ差し込む。書式としては通る。処理としては通らない。列が止まる。止まっている間に、街のどこかで誰かが通り抜ける。
代償は書いていない。どこにも書いていないから、見積もれない。
以前、老人が言った。内側のものを内側から動かすと、動かした側にも何かが起きる。何が起きるかは、その都度違う。
――じゃから儂は、内側には入らん。
あの言い方を思い出しながら、俺は段を降りた。
降りながら、報告が入り続けた。
――港、止めた。ゲートは開いたまま。クレーンは荷の上。動かせない。
ガントだった。
――何人通した。
――数えてない。数えると、通す速度が落ちる。
その返事は、あの男なりの冗談だったのかもしれない。
――地下、通ってる。
御堂からだった。
――輪入道が南北の二本を開けた。三本目は塞がったままだ。
――通れる本数は。
――二本で足りる。足りなければ、何度も往復する。
それから少し遅れてもう一行。
――今夜走った道はたぶん、明日には埋まる。
俺は階段の途中で足を止めた。
――なぜだ。
――使えば、位置がわかる。わかったら、閉じられる。当たり前の話だ。
――それでも走るのか。
――道路屋は、道が閉じたらまた別の道を覚える。
返事はそれだけだった。
この男は七年前、この道を企業側で閉じた張本人だ。閉じ方を知っている人間は、開け方も知っている。そして今夜、開けたせいでまた閉じられる。
嘆きも恨みもなかった。ただ、覚えておく、という意味のことだけを書いてきた。
降りきる前に、もう二本の報告が来た。
――水、通ってる。通信も。
ガンテツからだった。文字が乱れている。片手で打っているのだろう。もう片方の手はバルブにかかっている。
――何時まで持つ。
――持つ、じゃない。回す。
訂正の仕方が荒瀬ガントと同じだった。この街の年寄りは、みんな同じ直し方をする。
――腕は。
――四本ある。
それきり途切れた。
もう一本はルカだった。
――照合、渋滞しています。
――どれくらい。
――区内の街頭認証、八割が待機。……わたしの顔で詰まっています。
――もつか。
――もちません。朝には気づかれます。
文字はそこで一度止まった。
――でも、今は全部わたしです。
それが自慢なのか悲鳴なのか、俺には判じられなかった。たぶん本人にも判じられていない。
*
三時。
旧保守階段の底で俺は足を止めた。
悲鳴が聞こえたからだ。
正確には悲鳴になりきらない音だった。息を吸う音と、何かが崩れる音が混ざったような。
角を曲がった。
狭い連絡通路だった。天井が低く、配管が剥き出しになっている。その床に小柄な影が倒れていた。
若い猫又だ。ナズナ。旧市街の運び屋のいちばん若い走り手。
背中に大きな荷を背負ったまま、横向きに倒れている。片方の耳が裂けて、血が床に落ちていた。荷は無事だった。抱え込むようにして庇っている。
その上に追撃部隊の実行個体が立っていた。
人の形をしている。だが目の位置に光が二つあるだけで顔はない。企業の処理個体だ。腕が一本、細長く伸びて刃の形になっている。それを持ち上げていた。
ナズナが顔を上げた。俺を見た。
琥珀色の目だった。
その目が何か言おうとした。荷をと言おうとしたのだと思う。この稼業の連中は、そういうふうにできている。
刃が下りた。
*
足首のあたりが冷たくなった。
ありもしない水だ。この通路は乾いている。それでも膝まで冷たかった。
その感触を俺は知っていた。
いつだったか、倉の空箱の底で一度だけ触れた。呼んでもいないのに応えられた、あの読めない深さ。先日、施設の死者データの底でもう一度、足元まで昇ってきた。
あのとき俺は使わなかった。終わらせ方が間違っていると思ったからだ。
今夜は考える時間がなかった。
見ていた。
刃が子どもの首のあたりへ下りていくのを目で見ていた。
それだけだった。
*
通路の空気が一点へ吸い込まれた。
音が消えた。配管の唸りも、遠くの足音も全部、その一点へ落ちていった。霊素が流れを変えて渦を巻いて、処理個体のいる場所へ吸い寄せられていく。水の匂いがした。埋め立てられた古い水の匂いだ。
個体の輪郭が二重にぶれた。
それから三重に。
そこから先は、見ていられなかった。
人の形をしたものが人とは思えない声を上げた。喉から出た声ではない。いくつもの声が重なっていた。溺れている大勢が、一斉に何か言おうとしているような音だった。
腕が腕の形をやめた。胴が像を結ばなくなった。溺れてもいないのに、溺れる動きをしてそれが数秒続いた。
そして何も残らなかった。
床に破片も落ちていない。焦げ跡もない。ただ、そこに何かがあったという感じだけが、空気に残っていた。
俺は膝をついた。
吐いた。




