13-6
「ミナト!」
サエの声がした。いつ来たのかわからない。
彼女は俺のところへは来なかった。先にナズナのほうへ走って脈を確かめ、耳の血を押さえた。それからこちらを見た。
灰色の目がはっきりと動揺していた。
この女が動揺するのを俺は、数えるほどしか見ていない。
「今の」
「……わからん」
それは本当だった。
「あんた、今、何をした」
「見ただけだ」
俺は言った。口の中が酸っぱかった。
「目で見た。それだけだ。……それ以上は何もしてない」
サエは何も言わなかった。
彼女は立ち上がって、個体のいた場所へ歩いた。
床に手をついて匂いを嗅ぐ。鎌鼬は空気の残りを読む。切ったあとに何が残るかを知っている。
「なにも残ってない」
サエが言った。
「焦げてない。壊れてもいない。……普通、あれだけの出力なら壁が持っていかれる」
「そうか」
「壁は無事なの。個体だけない」
彼女は自分の手を見た。それから俺を見た。
「切ったんじゃない。消えたの」
ナズナが咳をした。生きている。荷も無事だった。彼女は起き上がろうとして失敗して、それでも荷の紐を掴んだまま離さなかった。
「……荷が」
「無事だ」
俺が言うと、彼女は安心したような顔をした。
「届け先の顔は忘れねえ、って」
掠れた声でそう言って、また気を失った。
俺は床に手をついたまま、動けなかった。
救えた。一人だけ。
だが街の外では囲みが閉じ続けている。橋ではヨナが支えていて、港ではガントが止めていて、地下では御堂が往復していて、そのどれも今のことで何も変わっていない。
俺が今使ったものはこの夜の何も変えなかった。
変わったのは俺の中の何かだけだ。何が引かれたのかはわからない。後から来るのかもしれないし、永遠に来ないのかもしれない。黒い水に手を入れるのと同じだ、と老人は言っていた。掬えることもある。掴まれることもある。底は一生見えない。
「……二度と使うな」
サエが言った。
「使いたくない」
「そういう言い方をする奴がいちばん使うの」
彼女はナズナを背負い上げた。軽々と、ではなかった。肩で息をしていた。二体分の号令に逆らいながら、ここまで走ってきたのだ。
「行って」
サエは言った。
「あんたの持ち場はこっちじゃない」
俺は立ち上がろうとして一度、失敗した。
「サエ」
「なに」
「今の見たか」
「見た」
彼女はこちらを見なかった。ナズナを背負ったまま、前を向いている。
「あれ、なに」
「わからん」
「わからないものをあんた、使ったの」
責める声ではなかった。もっと平坦な、核心を突かれたときのこの女の声だ。
「使ったんじゃない」
俺は言った。
「見ただけだ。……応えられた」
「呼んでないのに」
「呼んでない」
サエはそこで初めて、振り返った。
「……前にも同じこと言ってた」
言っていた。倉の空箱の底で一度。処理施設の底でもう一度。
そのたびに俺は呼んでいない、と言ってきた。呼んでいないのに応えられる。それがいちばん質が悪い、と老人も言った。
今夜、三度目は、こちらから目を向けた。
呼んではいない。だが、見た。見て望んだ。それは呼んだことになるのだろうか。
わからなかった。わからないまま、一人助かって一つ、何かが引かれた。
*
三時四十分。
旧保守階段の最下層にその部屋はあった。
狐の裏帳簿が示した場所だ。廃止された地下鉄の機械室。今は何にも使われていない。だが、壁の一面だけが新しかった。
行政の基幹回線がここを通っている。
地図には載っていない。廃止された駅の下だからだ。誰も点検に来ない。来る必要がない。動いているのだから。
俺は壁の保守パネルを開けた。外装の三箇所を指で押す。順番も、力の入れ方も頭より先に手が知っていた。
旧式のアクセスキーを差す。認証。
久我ミナト。登録状態、死亡。稼働区分、回収員。
内側が開いた。
*
画面に今夜の処理が流れていた。
一件ずつ、順番に。対象、書式、承認欄。上から下へ途切れずに。数える街の数える手つきそのものだった。
俺はその流れをしばらく見ていた。
名前が読めた。知っている名前もあった。知らない名前のほうが、ずっと多かった。
この一行ずつが、誰かの部屋であり、誰かの勤め先であり、誰かが今夜どこへ帰れるかだった。
目が慣れてくると、一行ぶんの意味が追えるようになった。
六十二歳、亜人。登録不整合三件。再登録期間中の窓口来訪なし。処理、完了。
零時十七分の一行だ。あの男はまだ自分の部屋にいる。部屋にいるまま、この画面の上ではもう終わっている。
住宅ログ権限、更新失敗。契約者情報、参照不可。居住年数、十四年。処理、完了。
北の区で鍵の開かなかった女だ。
保険照会、否認。施術実施記録、対応なし。処理、完了。
点滴の途中で弾かれた誰かだ。医者は処置を続けた。続けた分だけがどこにも残らない。
決済認証、対象外。飲食、少額。処理、完了。
東口の食堂で明日でいいよと言われた男だ。店主はまだ知らない。明日あの男が来なくても、少し不思議に思うだけだろう。
俺はそこで、この画面が何なのかをようやく理解した。
今夜この街で起きたことの全部が、ここを通っていた。
俺が事務所で紙を広げていた間も、合図を送っていた間も、ビルの三階で子どもみたいな声と話していた間も、この列は同じ速さで流れ続けていた。
一度も止まっていない。
俺が一人を逃がすあいだに、この画面では何十行も落ちた。
橋を渡れなかった三人の行も、たぶんこの中にある。まだ来ていないだけだ。夜明けまでには来る。
喉の奥が熱くなった。
怒りではなかった。怒れる相手がいない。この列には憎むべき顔が一つもない。
あるのは順番だけだ。
誰かが悪意で押しているのなら、その手を止めればいい。だが押している手はない。上から下へ落ちているだけだ。水が低いほうへ流れるのと同じ理屈で、人が帳簿から落ちていく。
そういうものを止めるには、水路のほうに何かを置くしかない。
止め方は三つ考えてあった。
一つは名簿から名前を抜くこと。消されるはずの何人かを未処理の欄へ落とす。だがそれは抜く名前を俺が選ぶということだ。誰を守って誰を捨てるかを俺が決める。あの女の卓と、同じ形になる。
二つ目は、順番を入れ替えること。時間は稼げる。だが処理は止まらない。夜が明ければ、また上から流れ出す。
三つ目は止めることだった。
処理系の噛み合わせに動かないものを挟む。歯車のあいだに石を噛ませるのと同じだ。
ただし、その石は、帳簿の内側にあるものでなければならない。外から差したものは外のものとして弾かれる。内側にあってなおかつ処理できないもの。
この街にそんなものは一つしかなかった。
死亡登録のまま、消されずに残っている記録。
俺だ。
俺は流れていく行をもう一度見た。
処理が一件終わるたびに承認欄に判が落ちる。人の手ではない。書式が書式を承認している。誰も見ていない。誰も止めない。止める欄がないからだ。
この列に割り込めるのは二種類の記録だけだった。
処理を実行する側の記録。それと、処理される側の記録。
俺はその両方だった。
死亡登録のまま稼働している。回収員であり、回収対象でもある。実行者の欄にも対象の欄にも入れる。そしてどちらの欄にも収まりきらない。
七年、この宙ぶらりんを俺は呪ってきた。
まともな医者にかかれず、金も借りられず、名前があるのに存在していない。都合よく使われて、戻す手続きは誰も押さない。
今夜、それが、この街でただ一つの石になった。




