↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
帳の外 ―まだ、ここにいる―  作者: 佐和井 泥
第一三話 帳の外で生きている

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

102/107

13-6

「ミナト!」


 サエの声がした。いつ来たのかわからない。


 彼女は俺のところへは来なかった。先にナズナのほうへ走って脈を確かめ、耳の血を押さえた。それからこちらを見た。


 灰色の目がはっきりと動揺していた。


 この女が動揺するのを俺は、数えるほどしか見ていない。


「今の」


「……わからん」


 それは本当だった。


「あんた、今、何をした」


「見ただけだ」


 俺は言った。口の中が酸っぱかった。


「目で見た。それだけだ。……それ以上は何もしてない」


 サエは何も言わなかった。


 彼女は立ち上がって、個体のいた場所へ歩いた。


 床に手をついて匂いを嗅ぐ。鎌鼬(かまいたち)は空気の残りを読む。切ったあとに何が残るかを知っている。


「なにも残ってない」


 サエが言った。


「焦げてない。壊れてもいない。……普通、あれだけの出力なら壁が持っていかれる」


「そうか」


「壁は無事なの。個体だけない」


 彼女は自分の手を見た。それから俺を見た。


「切ったんじゃない。消えたの」


 ナズナが咳をした。生きている。荷も無事だった。彼女は起き上がろうとして失敗して、それでも荷の紐を掴んだまま離さなかった。


「……荷が」


「無事だ」


 俺が言うと、彼女は安心したような顔をした。


「届け先の顔は忘れねえ、って」


 掠(かす)れた声でそう言って、また気を失った。


 俺は床に手をついたまま、動けなかった。


 救えた。一人だけ。


 だが街の外では囲みが閉じ続けている。橋ではヨナが支えていて、港ではガントが止めていて、地下では御堂(みどう)が往復していて、そのどれも今のことで何も変わっていない。


 俺が今使ったものはこの夜の何も変えなかった。


 変わったのは俺の中の何かだけだ。何が引かれたのかはわからない。後から来るのかもしれないし、永遠に来ないのかもしれない。黒い水に手を入れるのと同じだ、と老人は言っていた。掬えることもある。掴まれることもある。底は一生見えない。


「……二度と使うな」


 サエが言った。


「使いたくない」


「そういう言い方をする奴がいちばん使うの」


 彼女はナズナを背負い上げた。軽々と、ではなかった。肩で息をしていた。二体分の号令に逆らいながら、ここまで走ってきたのだ。


「行って」


 サエは言った。


「あんたの持ち場はこっちじゃない」


 俺は立ち上がろうとして一度、失敗した。


「サエ」


「なに」


「今の見たか」


「見た」


 彼女はこちらを見なかった。ナズナを背負ったまま、前を向いている。


「あれ、なに」


「わからん」


「わからないものをあんた、使ったの」


 責める声ではなかった。もっと平坦な、核心を突かれたときのこの女の声だ。


「使ったんじゃない」


 俺は言った。


「見ただけだ。……応えられた」


「呼んでないのに」


「呼んでない」


 サエはそこで初めて、振り返った。


「……前にも同じこと言ってた」


 言っていた。倉(くら)の空箱の底で一度。処理施設の底でもう一度。


 そのたびに俺は呼んでいない、と言ってきた。呼んでいないのに応えられる。それがいちばん質が悪い、と老人も言った。


 今夜、三度目は、こちらから目を向けた。


 呼んではいない。だが、見た。見て望んだ。それは呼んだことになるのだろうか。


 わからなかった。わからないまま、一人助かって一つ、何かが引かれた。


     *


 三時四十分。


 旧保守階段の最下層にその部屋はあった。


 狐の裏帳簿が示した場所だ。廃止された地下鉄の機械室。今は何にも使われていない。だが、壁の一面だけが新しかった。


 行政の基幹回線がここを通っている。


 地図には載っていない。廃止された駅の下だからだ。誰も点検に来ない。来る必要がない。動いているのだから。


 俺は壁の保守パネルを開けた。外装の三箇所を指で押す。順番も、力の入れ方も頭より先に手が知っていた。


 旧式のアクセスキーを差す。認証。


 久我(くが)ミナト。登録状態、死亡。稼働区分、回収員。


 内側が開いた。


     *


 画面に今夜の処理が流れていた。


 一件ずつ、順番に。対象、書式、承認欄(しょうにんらん)。上から下へ途切れずに。数える街の数える手つきそのものだった。


 俺はその流れをしばらく見ていた。


 名前が読めた。知っている名前もあった。知らない名前のほうが、ずっと多かった。


 この一行ずつが、誰かの部屋であり、誰かの勤め先であり、誰かが今夜どこへ帰れるかだった。


 目が慣れてくると、一行ぶんの意味が追えるようになった。


 六十二歳、亜人(あじん)。登録不整合三件。再登録期間中の窓口来訪なし。処理、完了。


 零時十七分の一行だ。あの男はまだ自分の部屋にいる。部屋にいるまま、この画面の上ではもう終わっている。


 住宅ログ権限、更新失敗。契約者情報、参照不可。居住年数、十四年。処理、完了。


 北の区で鍵の開かなかった女だ。


 保険照会、否認。施術(せじゅつ)実施記録、対応なし。処理、完了。


 点滴の途中で弾かれた誰かだ。医者は処置を続けた。続けた分だけがどこにも残らない。


 決済認証、対象外。飲食、少額。処理、完了。


 東口の食堂で明日でいいよと言われた男だ。店主はまだ知らない。明日あの男が来なくても、少し不思議に思うだけだろう。


 俺はそこで、この画面が何なのかをようやく理解した。


 今夜この街で起きたことの全部が、ここを通っていた。


 俺が事務所で紙を広げていた間も、合図を送っていた間も、ビルの三階で子どもみたいな声と話していた間も、この列は同じ速さで流れ続けていた。


 一度も止まっていない。


 俺が一人を逃がすあいだに、この画面では何十行も落ちた。


 橋を渡れなかった三人の行も、たぶんこの中にある。まだ来ていないだけだ。夜明けまでには来る。


 喉の奥が熱くなった。


 怒りではなかった。怒れる相手がいない。この列には憎むべき顔が一つもない。


 あるのは順番だけだ。


 誰かが悪意で押しているのなら、その手を止めればいい。だが押している手はない。上から下へ落ちているだけだ。水が低いほうへ流れるのと同じ理屈で、人が帳簿から落ちていく。


 そういうものを止めるには、水路のほうに何かを置くしかない。


 止め方は三つ考えてあった。


 一つは名簿から名前を抜くこと。消されるはずの何人かを未処理の欄へ落とす。だがそれは抜く名前を俺が選ぶということだ。誰を守って誰を捨てるかを俺が決める。あの女の卓と、同じ形になる。


 二つ目は、順番を入れ替えること。時間は稼げる。だが処理は止まらない。夜が明ければ、また上から流れ出す。


 三つ目は止めることだった。


 処理系の噛み合わせに動かないものを挟む。歯車のあいだに石を噛ませるのと同じだ。


 ただし、その石は、帳簿の内側にあるものでなければならない。外から差したものは外のものとして弾かれる。内側にあってなおかつ処理できないもの。


 この街にそんなものは一つしかなかった。


 死亡登録のまま、消されずに残っている記録。


 俺だ。


 俺は流れていく行をもう一度見た。


 処理が一件終わるたびに承認欄(しょうにんらん)に判が落ちる。人の手ではない。書式が書式を承認している。誰も見ていない。誰も止めない。止める欄がないからだ。


 この列に割り込めるのは二種類の記録だけだった。


 処理を実行する側の記録。それと、処理される側の記録。


 俺はその両方だった。


 死亡登録のまま稼働している。回収員であり、回収対象でもある。実行者の欄にも対象の欄にも入れる。そしてどちらの欄にも収まりきらない。


 七年、この宙ぶらりんを俺は呪ってきた。


 まともな医者にかかれず、金も借りられず、名前があるのに存在していない。都合よく使われて、戻す手続きは誰も押さない。


 今夜、それが、この街でただ一つの石になった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。