13-1
その夜、街は、住んでいる者の数を数え直した。
深夜零時。東京湾岸区全域で記録の更新が始まった。
合図はなかった。サイレンも鳴らない。どこかで誰かが承認の欄に判を押し、それが書式に沿って静かに下りてきただけだ。
最初に動いたのは街頭の認証機だった。歩いている人間の顔を順に読み、帳簿と照らし、返ってこない者に印をつける。印は赤くない。何色でもない。ただ、照合結果の欄が空白のまま残る。
次に交通ゲートが閉じた。医療アクセスの一部が切れた。住宅ログの権限が書き換わり、勤務履歴の参照先が変わった。広告の人格モデルに回収の待機がかかった。港の空コンテナ群に処分の順番が振られた。
どの処理にも実行者の名前は残らない。書式の番号だけが残る。
午前零時十七分。湾岸区の南側で最初の一人が消えた。
六十二歳、亜人。登録の不整合が三件。再登録の期間中、窓口に来なかった。誰も殴っていない。誰も撃っていない。彼の部屋の権限が切れ、勤務の記録が参照できなくなり、行政の帳面から名前が抜けた。それだけだ。
彼はまだ、その部屋にいる。だが帳簿の上ではもういない。
その夜、そういうことが街のあちこちで同時に起きていた。
東口の食堂では勘定を払おうとした男の決済が、通らなかった。
店主は首を傾げて、端末を何度か叩いた。通らない。男は財布を探したが、この街で現金を持ち歩く人間はもういない。
「明日でいいよ」
店主はそう言った。
男は礼を言って出ていった。二人ともそれが何を意味するのかをまだわかっていなかった。決済が通らないというのは、この街ではその人が存在しなくなったということだ。
同じ頃、区の北で夜勤明けの女が自分の部屋の前に立っていた。
鍵が開かない。住宅ログの権限が切れている。彼女は管理会社に電話をかけた。自動音声が丁寧に応対し、該当する契約者情報が見つかりませんと告げた。
彼女は十四年、そこに住んでいた。
病院では点滴の途中で保険照会が弾かれた。医師は処置を続けた。続けたが、帳簿の上ではその処置は、誰にも行われていないことになった。
誰も殴られていない。誰も撃たれていない。
書式が順番どおりに走っただけだ。
*
零時三分。俺は事務所の机に紙を広げていた。
昨日書いた名簿だ。端末には入れていない。書けば記録が残る。今夜使うものは記録に残していいものではなかった。
名前の横に短い言葉が並んでいる。家を開ける。記録を散らす。道を開ける。港を止める。広告を塞ぐ。地下を手で回す。ゲートを支える。空箱に隠す。走る。切る。
全部は救えない。それは最初からわかっていた。
だが、全部を救うのでなければ、話は少し変わる。
俺は灰桜をくわえた。火はつけない。フィルターを噛むと、先端の認証チップが青く点いた。
「始まった」
サエが窓辺から言った。
彼女は外を見ていた。振り返らない。濡れてもいないコートの襟を片手で握っている。
「どこから」
「南。それから東。……街の端から内側へ向かって閉じてる」
「囲みの畳み方だ」
俺は言った。企業の犬だった頃、同じ手順書を読んだことがある。外周から順に閉じて、中心へ寄せる。慌てて走り出す人間が、勝手に囲みの内側へ集まるからだ。
机の上にもう一つ端末が置いてある。狐が置いていった裏帳簿だ。
この街で誰がどこの道を使っているか。誰が誰を匿っているか。本来ならいちばん高く売れる情報をあの男は、値をつけずに置いていった。
俺はそれを開いた。
画面にこの街の別の地図が浮かんだ。行政の地図には載っていない線だ。屋根伝いの道。地下の搬送路。使われていない保守回線。誰かの部屋のいつも開いている窓。
囲みが閉じていく方向と、その線を重ねる。
まだ、開いている穴がいくつかあった。
「合図を出す」
俺は言った。
「順番は」
「逃げ足の遅い順だ。速い奴は後で間に合う」
*
最初の合図は、湾岸第七複合ビルへ送った。
文面はいらなかった。旧防災系統の保守回線に古い設備コードを一つ流すだけでいい。
赤、赤、赤。長い間。赤、赤、赤。
避難誘導。人を建物の中へ導くときの合図だ。俺が教えたのではない。あの子が自分で調べて、査察の最中に試していたものだった。
返事はすぐに来た。
赤、赤、赤。
同じ符号が返ってきた。準備はできている、という意味に受け取ることにした。
次に旧都庁第二庁舎の地下へ。
――そっちはどうだ。
――もう半分、散らした。
古椿の返事は短かった。
――残りは今夜のうちに撒く。儂の棚は、今夜で空になるじゃろうな。
――消えるのか。
――さあな。棚が空なら、廃棄しても何も減らん。……向こうはそれを喜ぶかもしれん。
道路屋には文字を一行だけ送った。
――今夜、走れるか。
――走る。
――封鎖されてるだろう。
――閉じた道の閉じ方は俺が知ってる。
それきりだった。あの男は、余計なことを書かない。
港には荒瀬ガントの番号で入れた。
――夜勤班、何人いる。
――十一人。全員、降りてない。
降りてない、という言い方があの男らしかった。
――ゲートとクレーンを押さえられるか。
――押さえるんじゃない。止めるんだ。
訂正が入った。
――ゲートは開けたまま止める。クレーンは荷の上で止める。動かないものはどかせない。……安全確認の手順にもそう書いてある。
俺は少し笑った。あの男は、最後まで手順の中で戦う。
地下保守区画には番号がない。あそこの連中は端末を信用しない。
かわりに御堂へ回した。地下の道は繋がっている。
返事は人づてで来た。
――ガンテツ、手でやると言っている。
――手で。
――バルブを手で回す。水も通信も電源の迂回も全部だ。制御系に触らなければ、記録は残らん。
――何人でやる。
――四人。
俺は画面の前で一度、目を閉じた。
地下保守区画の水と通信は、区の四分の一を支えている。それを四人で一晩、腕で回す。
――途中で止まったら。
――止まらん、と言っている。
御堂はそれ以上書かなかった。
ドワーフの職人は、そういう言い方をする。できるかどうかではなく、止まらん、と言う。手が覚えているものを頭で疑わない。
最後に広告制御へ入れた。
湾岸の看板を回している系統に、こちらの番号を知っている相手が一人だけいる。
早霧ルカ。エルフ。街じゅうで笑っている顔の、生身のほうだ。
――今夜、頼みがある。
――もう受けてます。
返事は速かった。
――久我さんの番号が点いた時点で、だいたい。
――お前の人格モデルに回収の待機がかかってるだろう。
――かかってます。明日には外されます。
文面に感情はなかった。広告用の人格は、そういうふうに書くように作られている。
――だから今夜のうちに使い切ります。
――何をする。
――全部の看板を、わたしにします。
少し間があった。
――街の認証機が今夜見る顔を、全部わたしの顔にする。そうすると照合が渋滞します。区内の認証は一晩、ほとんど意味がなくなります。
――模型は消えるぞ。
――消えます。
あっさりしていた。
――どのみち明日には外される。使われずに片づけられるのと、使い切って消えるのとなら、後のほうがいい。
俺は返事を打つのに、少し時間がかかった。
いつだったか、この女は自分の名前を自分で拾い直した。街じゅうの偽物と同じ音の名前を、それでも自分のものとして名乗った。
――名前は残す。
――どこに。
――古椿の棚だ。今夜で空になるが、空だからこそ一行は入る。
――それは。
そこで一度、文字が止まった。
――それは、少しうれしいかもしれません。
かもしれません、という書き方をして通信は切れた。




