12-9
彼女は来たときと同じように丁寧に帰っていった。
扉のところで一度だけ振り返った。
「久我さん。一つだけ、本当のことを申し上げます」
「どうぞ」
「私はあなたを嫌ってはいません」
白い手袋の指が扉の枠に軽く触れた。
「あなたのやっていることは私にはできません。数えられないものを数えないまま抱えるのは私には無理です。……だからあなたのような方がいてもいいと、個人的には思っています」
「なら」
「ですが、個人的な感想は欄に書けません」
彼女は少しだけ、笑ったように見えた。笑ったのかもしれないし、そう見えただけかもしれない。
「それだけです。失礼します」
扉が閉まった。
残ったのは雨の音と、消毒液のかすかな匂いだけだった。
それと、伏せたままの端末が一つ。
俺はそれを表に返した。表示は消えていなかった。
同じ一行がさっきと同じ場所で光っている。湾岸第七複合ビル、住環境管理人格、登録名なし。
実施期限の欄を探した。空欄だった。古椿の言ったとおりだ。期限を書かないのは、いつでもいいという意味ではない。いつまでも追うという意味だ。
「あの子に、言う?」
サエが訊いた。
「言えば、逃げ場を探す」
「探させないの」
「あの子は、ビルから出られない」
俺は言った。
それが、いちばん厄介なところだった。コマリは家から出ない。出られないのではなく、出ない。あの子にとって、逃げるというのは、守るものを置いていくことと同じだ。
いつだったか、俺はあの子を端末へ移さなかった。移せば助かったかもしれない。だが、それは企業がやろうとした怪異のデータ化と、同じことだった。だから旧防災系統へ逃がした。家の中に。
今度は、その家ごと、欄に載っている。
「じゃあ、どうするの」
「家ごと、帳の外へ出す」
自分で言って、無茶だと思った。ビル一棟を、都市の帳簿から外す。そんな手は、聞いたこともない。
だが、あの子は、もう避難誘導の合図を試していた。家を開ける準備を、誰にも頼まれずに始めていた。
あの子は、逃げるつもりがないのではない。自分が逃げるつもりがないだけだ。
*
その夜、俺は机の上に紙を広げた。
電子ではなく、紙だ。端末に書けば、記録が残る。今夜書くものは記録に残していいものではない。
俺は名前を書き出した。
コマリ。古椿。御堂。荒瀬ガント。ルカ。樫森ガンテツ。守屋ヨナ。倉の付喪神。ナギ。ミサキ。沼田ゲン。……書いているうちに紙が足りなくなった。
全部は救えない。それは最初からわかっている。
だが、全部を救うのでなければ、話は少し変わる。
一人ずつ、逃がす。逃がせるところから逃がす。明日の朝まで消されずに済む人間を一人でも増やす。
そのために誰がどこで何をできるか。
コマリは家を開ける。あの子はもう準備を始めていた。
その名前の横に、俺は小さく印をつけた。
いちばん最初に来る。俺の名前で、俺のところに指示が来ている以上、順番は決まっている。
守る側の名簿と、片づける側の指示に、同じ名前が載っていた。
古椿は記録を散らす。古い棚の中身を拾い直せる形で撒く。
御堂は閉じた道の開け方を知っている。
ガントは、港湾のゲートとクレーンの動かし方を身体で覚えている。
ルカの偽物は、街じゅうの広告の中にいる。
ガンテツたちは地下を手で回せる。
ヨナは通れなくなった橋を身体で支えたことがある。
倉は空箱に隠すのが性分だ。
ナギは逃げ足が速い。
サエは旧名で呼ばれても自分の名前で立てる。
そして俺は。
俺は死んだままだ。帳簿の内側にいる。内側から開く扉をいくつか持っている。
向こうが、その鍵を回し始めた。だが、鍵は両側から回せる。
*
「何を書いてるの」
サエが後ろから覗き込んだ。
「名簿だ」
「……あんたが名簿を作るの」
サエは少し意外そうだった。
「作る側になったことは一度もないと思ってた」
俺は紙の端を指で押さえた。
「向こうは俺たちを帳簿に載せて順番に片づける。……なら、こっちも作る。載る順番じゃなくて逃げる順番の名簿だ」
サエはしばらく紙を見ていた。それから自分の名前の横に指で線を引いた。
「私、いちばん後ろでいい」
「なぜだ」
「私、切れるから。切れる奴は、後ろにいたほうが役に立つ」
そう言って彼女はソファに戻った。
俺はその言葉を書き加えなかった。書かなくても忘れない種類の言葉だった。
紙の上には名前と、その横に短い言葉が並んだ。
コマリ——家を開ける。
古椿——記録を散らす。
御堂——閉じた道を開ける。
ガント——港を止める。
ルカ——街の広告を塞ぐ。
ガンテツ——地下を手で回す。
ヨナ——ゲートを支える。
倉——空箱に隠す。
ナギ——走る。
サエ——切る。
誰にも頼んでいない。まだ、一人にも声をかけていない。
だが、書き出してみて気づいたことがあった。
どれも俺が頼んで始まったことではない。コマリは、自分で避難誘導の合図を試していた。古椿は勝手に引っ越しを始めていた。御堂は訊きもしないのに閉じ方を覚えておくと言ってきた。
この連中はもう、動き始めている。
狐は言っていた。値がつけられない夜だ、と。買い手も売り手も自分の値段がわからない夜だ、と。
その夜に値のつかないことをそれぞれの持ち場で勝手にやっている連中がいる。
俺は紙のいちばん下に自分の名前を書いた。
久我ミナト——内側から開ける。
書いてから少しのあいだ、その一行を見ていた。
七年、俺の死んだ半分は向こうの道具だった。先日、それを手放さないと決めた。そして今、向こうがその鍵を回し始めた。
だが、鍵は両側から回る。
向こうが俺を回収員として使うなら、俺は、回収員の権限で内側へ入る。入って扉を開けられるだけ開ける。
そのあとで何が起きるかは知らない。たぶん、ろくなことにはならない。
それでもこの紙に書いた名前の数だけは増やせる。
*
夜が更けて雨が止んだ。
俺は窓を開けた。湿った空気が入ってくる。潮と、鉄と、排気の匂い。生きている街の匂いだ。
窓の外のずっと先。湾岸の埋め立ての外れにひとつだけ、街の光と色の違う灯りがある。
常夜灯だ。水面の照り返しと混じって褪せた金色に見える。
いつだったか、俺はそこにいた。行こうとしたわけではない。呼んだわけでもない。ただ、死んだ半分の底が抜けて気がついたら、暗い水の中に立っていた。
あれからあの感触は、俺のどこかに残ったままだ。振り払えない。使おうと思えば、たぶん、使える。
使いたくない。何が引かれるか、わからないからだ。
だが、今夜、一つだけ、わかったことがある。
あの女がこの街のどんな帳簿よりも畏れているものがあそこにある。
窓の桟に指を置いた。震えはまだ止まらない。
ひとつだけ、あの紙に書かなかったものがある。
島だ。
場所の名も、そこにあるとされているものの名も、書かなかった。書けば、紙が別の意味を持つ。あれは逃がすための名簿であって、賭けるための名簿ではない。
だが、頭の隅からは消えなかった。
使えば、何かが引かれる。何が引かれたかは後から、あるいは永遠にわからない。
……それでも、と考えている自分がいる。
それが、いちばんまずかった。
明日の朝まで何人、逃がせるか。
俺はそれを数え始めた。数える街のいちばん外側で。数えられない者たちの数を。




