12-8
俺は一つだけ、賭けてみることにした。
「あんたに一つ訊きたいことがある」
「どうぞ」
「湾岸の埋め立てのいちばん外れ。小さい島がある。古い鳥居と、参道だけ、妙に古い場所だ」
白い手袋の指が端末の上で止まった。
ほんの一瞬だった。まばたきほどの間だ。だが、止まった。
「……観光地ですね。文化財の保存対象です」
「保存してるのはどこだ」
「帳務院です。文化財保護の枠組みで恒温恒湿の管理を行っています」
「ずいぶん丁寧に保存してるらしいな。開帳はしないのに」
「絶対秘仏です。開帳しない取り決めのものはこの国にいくつもあります」
その答えはよどみなかった。用意された答えだった。だが、声の温度がわずかに落ちていた。
「あそこへ行ったことは」
「ありません」
即答だった。
この女はさっき、自分の失敗を何百件も数えたと言った。良いことではないが必要だと認めた。冷たいと言われても否定しなかった。何を訊いても揺れなかった。
その女が島の話になった瞬間に即答した。
「近づかないほうがいいですよ」
彼女は端末を閉じた。
「文化財ですので。……それと、久我さん。あなたのような方は特に」
「どういう意味だ」
「壊れやすいものに壊れやすい方が近づくべきではない、という意味です」
彼女はそこで初めて俺の目をまっすぐ見た。
「あなたは帳簿の内側にいます。死んだまま、内側に。……内側にいる方は、内側から開く扉をいくつも持っている。それは私たちにとってとても便利でとても困ったことです」
俺は黙っていた。
この人は島の中身を知らない。知らないまま、畏れている。読めないものが読めないまま、そこに在ることをこの女はたぶん、俺より正確に理解している。
白帳整理は、読めないものを封じる技から生まれた。そして今もこの街の隅に封じられたままの一件が残っている。
もしその封が一度でも間違いだったと証明されたら。
誤記で閉じ込めるという手が破れることが一度でも示されたら。
この女が今、都市全域に敷こうとしている書式はその根から揺らぐ。
「なるほど」
俺は言った。
「あんたが、俺を手元に置きたがる理由がもう一つ増えた」
白瀬は答えなかった。
*
「ではお返事を伺います」
彼女は端末を持ち直した。
「回収員として戻れば、いくつかは見逃せます。戻らなければ、順番どおり、進みます。……どちらでも私の業務量は変わりません」
俺が口を開きかけたとき、机の上の端末が震えた。
俺のではない。俺の死んだ名前の端末だ。七年、地下の点検記録しか流れてこなかったほうの回線が、震えている。
「どうぞ。お出になって結構ですよ」
白瀬が言った。
俺は画面を開いた。
作業指示。発行元、第九処理室。担当、久我ミナト。登録状態、死亡。稼働区分、回収員。
その下に、対象が書いてあった。
回収対象——湾岸第七複合ビル、住環境管理人格。登録名なし。
コマリだった。
部屋の温度が下がった気がした。実際には何も変わっていない。雨の音も、灰皿の位置も、目の前の白いコートも、さっきと同じだ。変わったのは、俺の名前が今、あの子を片づける側の欄に置かれたということだけだった。
「早いですね」
白瀬は、画面を覗き込もうともせずに言った。
「システムは、担当者が決まると、すぐに割り当てます。……手の空いている回収員が近くにいましたので」
「俺だ」
「ええ。あなたです」
俺は端末を伏せた。
「断る欄は」
「ありません」
彼女は、あっさりと答えた。
「先日、あなたはご自分の回収を辞退なさいました。あれは、対象があなたご自身でしたから、意思確認の欄がありました。……他人を対象とする指示には、その欄がありません。死亡登録は、意思を持たないものとして設計されていますので」
「俺が動かなければ、どうなる」
「未実施の記録が残ります。それだけです」
彼女は、少し首を傾けた。
「そして、別の回収員に再割り当てされます。……その方は、あのビルの住民の顔を、一人も知りません」
俺は、灰桜を噛んだ。
うまい。ほんとうに、うまい。
俺が断れば、知らない誰かが行く。俺が行けば、俺が片づける。どちらを選んでも、あの子は同じ欄に入る。違うのは、最後にあの子が見る顔だけだ。
「これも、取引の材料か」
「いいえ」
白瀬は、首を横に振った。
「これは、ただの業務です。……取引に応じていただければ、この一件は凍結できます。それは、さっき申し上げたとおりです。ですが、この指示自体は、取引とは関係なく出ました。私が出したものでも、ありません」
たぶん、本当だった。
この女は、脅すために指示を出したりしない。書式が勝手に走っただけだ。そして、その勝手に走る書式を、彼女は止められる立場にいる。止めてほしければ、欄に戻れと言っている。
いちばん、たちが悪い形だった。
「断る」
俺は言った。
「理由を伺っても」
「あんたの見逃しは貸しだ」
俺は言った。
「今日は三件見逃す。明日は二件になる。来月は一件だ。そのたびに俺は誰を守って誰を捨てるか、あんたの卓の上で選ばされる。……それは守ってるんじゃない。管理されてる」
「守ることと、管理することの違いを教えていただけますか」
「管理はあんたが線を引く。守るのはこっちが引く」
俺はそこで一度、息を吐いた。
断る理由なら、本当は、もっと単純なものがあった。
七年前、俺は、同じ種類の取引を受けた側だった。
秘匿任務のために一時的に死んだことになってくれと言われた。短い期間だと説明された。戻す手続きも用意されていると聞いた。あのとき俺は、たいした話ではないと思った。書式が一枚変わるだけだ。人が死ぬわけじゃない。
その書式一枚で、俺は七年、宙ぶらりんのままだ。
あのときも向こうは丁寧だった。怒鳴らなかったし、脅さなかった。ただ、こちらの得になる話として、卓の上に並べられた。
同じ卓が今、目の前にある。
「一つだけ教えてやる」
俺は言った。
「あんたの出す条件はたぶん全部本当だ。見逃すと言ったら見逃すんだろう。嘘じゃない。……だが、あんたたちの本当には期限が書いてない」
白瀬は黙って聞いていた。
「俺の死亡処理にも、復帰予定の欄があった。空欄のままだった。誰も嘘はついてない。ただ、誰も埋めなかっただけだ。……あんたの見逃しも、同じ形をしてる」
「……そうかもしれません」
彼女は否定しなかった。
「私たちの書式には、期限を書く欄が少ないんです。運用の都合で。……それは私も、以前から問題だと思っています」
そういう答え方をする人だった。
こちらの言い分を認めても、一歩も動かない。問題だと思っていると言いながら、来年も同じ書式を使う。悪意がないから、改善もされない。
彼女は少しのあいだ、俺を見ていた。
それから端末に何かを打ち込んだ。長い操作ではなかった。三つか四つ、指を動かしただけだ。
「わかりました」
顔を上げた声は来たときと、同じ温度だった。
「では帳外として整理します」




