12-7
彼女は予告どおりに来た。
雨の降る午後だった。事務所の扉がノックされた。この街で俺の事務所をノックする人間は少ない。たいていの依頼人は開けてから戸惑う。
開けると、白いコートが立っていた。
傘は持っていなかった。濡れてもいなかった。車を横付けしたのだろう。片手に薄い端末。もう片方は手袋のまま、下げている。
「こんにちは。お邪魔します」
白瀬透子はそう言って靴の裏を丁寧に拭ってから入ってきた。
サエがソファから立ち上がった。袖の下で赤い駆動線が灯りかけて消えた。この距離でも切れる。切っても意味がないことをこの女はもう知っている。
「お掛けください、と言いたいが、客用の椅子がない」
「立ったままで結構です。長くはかかりません」
彼女は部屋を見回した。値踏みではなかった。もっと事務的な、記録のための視線だった。擦り切れたソファ。灰皿。積まれた古い端末。
「思ったより、生活の匂いがしますね」
「悪いか」
「いいえ。……ただ、報告書で読むのと、違いました。それだけです」
彼女は端末を開いた。
「久我ミナトさん。今日は提案に来ました」
*
「あなたの死亡登録の稼働区分を先日更新しました。ご存じですね」
「回収員か」
「はい。形式上は復帰扱いです」
白い手袋の指が画面を送った。
「本来なら、こういう手続きに当人の同意は要りません。死亡登録は、ご本人の意思を反映する欄を持っていませんので。……ですが、私はあなたに一度、伺っておきたかった」
「何を」
「戻る気はありませんか」
彼女は顔を上げた。
「帳外屋としてではなく。第九処理室の回収員として。正式に。……あなたはその仕事を知っています。手順も、書式も身体が覚えている。私たちにとってこれほど手のかからない人材はいません」
「断る」
「即答ですね」
「即答する話だ」
「わかりました。……では条件を申し上げます」
彼女は画面を一枚めくった。そして読み上げ始めた。
「伊吹サエ。逃走個体。旧登録の名称照合を保留にできます。命令系統へ戻す手続きを当面、止めます」
サエの肩がわずかに動いた。
「湾岸第七複合ビルの管理人格。登録名なし。廃棄予定の未処理案件としてこちらで処理を凍結できます。あのビルは査察対象から外れます」
コマリ。
「旧都庁第二庁舎地下の廃止済み行政サーバ機器。廃棄予定を取り下げます。あの棚は残ります」
古椿。
「そのほか、港湾の事故証言、地下保守区画の閉鎖範囲、送迎資格の再審査。……いくつかは例外処理として扱えます。全部ではありません。ですが、いくつかは」
彼女は端末を下ろした。
「あなたが、一人、こちら側の欄に戻るだけでこれだけの欄が埋まらずに済みます」
「一つ、確認していい」
口を開いたのはサエだった。
白瀬がそちらを向いた。
「はい」
「私の名前の話、さっきしたでしょ。照合を保留にする、って」
「しました」
「それ、消すとは言ってないよね」
白い手袋の指が一度、止まった。
「……ええ。保留です」
「保留っていつでも戻せるってことでしょ」
サエの声は平坦だった。核心を突かれたときのこの女の声だ。
「つまり、あんたは私の首輪を握ったまま、引っ張るのをやめてあげる、って言ってる。……外すとは一度も言ってない」
「外せません」
白瀬はあっさりと認めた。
「あなたの旧登録は、削除できない種類の記録です。私にも消す権限はありません。……できるのは参照しないことだけです」
「じゃあ、話にならない」
サエはそう言って窓のほうを向いた。
「首輪を握ってる奴が今日は引っ張らないであげる、って言うのをこの街では優しさとは呼ばない」
部屋が静かになった。
白瀬は反論しなかった。怒りもしなかった。ただ、端末に何かを一行、書き加えただけだった。
たぶん、今のやり取りもどこかの欄に収まったのだろう。
雨の音が窓に当たっていた。
俺は灰桜をくわえた。火はつけない。フィルターを噛むと、青い光が点いた。
うまい出し方だった。脅していない。急がせてもいない。ただ、俺が拾ってきた顔を一つずつ、卓の上に並べただけだ。
いちばん残酷なのはこの取引がたぶん本当だということだった。この女は嘘をつく必要がない。書式を動かせる立場にいる人間は、嘘をつかなくても人を追い詰められる。
「一つ、訊いていいか」
俺は言った。
「どうぞ」
「あんたはこれを良いことだと思ってるのか」
彼女は少し考えた。考えるふりではなく、本当に考えたようだった。
「良いことだとは思っていません」
そう答えた。
「必要なことだと、思っています。……良いことでなければ、やってはいけない、という考え方を私はある時期から、持てなくなりました」
*
「あなたは私を冷たいと思っているでしょう」
白瀬は窓のほうへ目を向けた。
「否定しません。ただ、一つだけ、申し上げます。……私は、数えたことがあるんです」
「何を」
「守れなかった人の数です」
雨が少し強くなった。
「登録のない方が事故に遭って記録に残らないまま亡くなる。家族が探しに来ても名簿にないのでどこの病院に運ばれたかも追えない。……そういう件を私は何百と処理しました。処理、というのはこの場合、何もできなかったという書類を作ることです」
彼女の声は変わらなかった。落ち着いて丁寧で聞き取りやすい。
「祈った方もいましたよ。ご家族が。神祇庁へ来て頭を下げて。……私は、その横で書類を作っていました。祈りで戻った方は一人もいませんでした」
彼女はこちらへ向き直った。
「だから私は祈りをやめました。かわりに帳を作ることにした。帳に載せれば、探せます。載せれば、守れます。……載らない人をどうやって守るのか。あなたに答えがありますか」
俺は答えなかった。
答えられなかったのではない。答えたところでこの人には届かないとわかっていた。だが、黙っているのも違う気がした。
「ある」
俺は言った。
「覚えてる奴がいればいい」
「……記憶は書類になりません」
「ならない。だが、消えもしない」
俺は灰桜を指で挟んだ。
「あんたの帳簿から消えた子を覚えてる姉貴がいた。名前を知らない子のいたって一行を抱えてる年寄りがいる。自分を作った奴らの名前を憎いまま覚えてる女もいる。……全部、書類にならない。あんたの言うとおりだ。だが、そいつらが覚えてるかぎり、その連中は、いなかったことにはならない」
「感傷ですね」
「そうだ」
俺は認めた。
「感傷だ。効率も悪い。数えられない。……だが、あんたの帳簿が取りこぼした連中は全員、そっちで拾われてる。数えられないところで」
白瀬はしばらく、黙っていた。
反論しなかったのではない。反論する必要を感じなかったのだ。前にも同じ顔を見た。




