12-6
俺はもう一度、地下へ降りた。
古椿の部屋は前より暗くなっていた。ラックの三分の一がすでに沈黙している。引っ越しが進んでいるらしい。
「回収員にされたか」
老人は俺の顔を見ただけで言い当てた。
「早いな」
「儂の見とる帳面にも流れてきよった。……順番どおりじゃ。整理というのはいつもこういう順番で来る」
俺は椅子がないので壁に背を預けた。
「一つ、訊きたい」
「訊け」
「白帳は何だ」
古椿は湯呑を置いた。緑の目がまっすぐ俺を見た。
「意味はこないだ話したじゃろう。死んだ者と、抹消された者を内側に束ねておく帳面じゃ」
「そうじゃない」
俺は言った。
「あれは誰が何のために作った。……あんな書式を誰かが最初に思いついたはずだ。人を消すのにあそこまで丁寧な手順はいらない。殺すだけなら、もっと雑でいい。……なのにあれは異様に丁寧だ。消すんじゃなくて封をしてる」
老人はしばらく黙っていた。
それから湯呑を両手で包んだ。核心に触れるとき、この老人は手が止まる。狐と同じだ。
「……あれはな、人間を消すために作られた技じゃ、ない」
「なに」
「元はもっと厄介なものを始末するための手じゃった。……消せんかったんじゃよ」
ラックの奥で古い記録が明滅した。
「昔、この土地にどうしても消せんものがおった。殺せん。焼けん。沈めても上がってくる。記録から抜こうとしても抜いた端から欄のほうが増える。読めんのじゃ。読めんものは消せん。……手を焼いた連中が最後に何をしたと思う」
「わからん」
「別の名で呼ぶことにした」
古椿は静かに言った。
「本当の名を消すのではなくてな。上から無害な、当たり障りのない名を貼りつけた。帳面にはその貼った名のほうを書いた。……皆が貼った名を信じて拝み続けるかぎり、下の名は出てこられん。名前で蓋をしたんじゃ」
俺は喉の奥が冷えるのを感じた。
「誤記だ」
「そうとも言う。……じゃがあれは間違えたのではない。わざと、間違えたことにしたんじゃ。誤記を封として使った。あれが、最初の一件じゃ」
老人は湯呑をすすった。
「そしてその手が残った。書式として。手順書として。……消せんものを別の名で書いて帳面の内側に閉じ込める。一柱を封じるために作った技を後の連中が人間に使い始めた。一人、二人、十人。……気がついたら、何百万人ぶんの書式になっとった」
俺は壁から背を離した。
「白帳整理は」
「その工業化された末裔じゃ」
古椿は言った。
「あの女がやっとることは新しくもなんともない。古い神の封じ方を人間の数に合わせて量産できるように直しただけよ。……だから丁寧なんじゃ。神を相手にする手順が根に残っとる」
俺は何も言えなかった。
いつだったか、倉の空箱の底で呼んでもいないのに応えられた。その後、施設の死者データの底で同じ水が足元まで昇ってきた。あのとき老人はこう言った。今は辯才天と、そう呼ばれとる、と。後から貼った名じゃ、と。
後から貼った名。
その言葉が今夜、別の意味を持って戻ってきた。
「あすこと、白帳は」
「根が同じじゃ」
老人はうなずいた。
「片方は封じられた側。片方は封じ方の成れの果て。……お前は、その両方に手を突っ込んだ男じゃ。片方には死んだ半分で触れ、片方には死んだ半分を握られとる」
「……あれが何なのかは」
「知らん」
古椿はあっさりと言った。
「技の由来は儂も覚えとる。記録じゃからな。じゃが封じられた中身が本当は何なのかは儂にも読めん。誰にも読めん。読めんから封じるしかなかった。それだけじゃ」
緑の目が少しだけ細くなった。
「分かった気になるな、久我。……分かった気になった奴から可怪しくなる」
俺は壁に背を戻した。
頭の中でいくつかの線が勝手に繋がろうとしていた。
「もう一つ、訊いていいか」
「訊け」
「その封じた一件はまだ、続いてるのか」
古椿は湯呑を持ち上げかけて止めた。
「……続いとる」
「誰が保守してる」
老人は答えなかった。
答えないことが答えだった。狐と同じだ。
「文化財だ、と言っとけばな」
しばらくして老人は言った。
「恒温恒湿の箱に入れてガラス越しに丁重に保存する。参拝客も来る。土産も売っとる。……誰も封じられとるとは思わん。保存されとると思う。うまいやり方じゃ。参拝がそのまま封の保守になる」
「拝んでる連中が蓋を押さえてるのか」
「そうじゃ。……知らずにな」
背中のあたりが、うすく粟立った。
名前で蓋をしてその名前を皆に信じさせ続けることで蓋が保たれている。
同じ手をこの街は今、何百万人ぶんも量産しようとしている。
「じいさん」
「なんじゃ」
「もし、その蓋が一度でも外れたら」
古椿は緑の目でこちらを見た。
長い間があった。ラックの奥で古い記録が何度か明滅した。
「……お前さん、それを誰かに訊いたか」
「いや」
「訊くなよ」
老人の声が低くなった。
「訊いた相手が答えを知っとると、厄介じゃ。……じゃがまあ、理屈だけは言うておく」
湯呑が机に置かれた。
「誤記で封じる、という手が一度でも破れたと示されたらな。……その手で書かれた帳面は全部、疑われる。あれもこれも本当は、違う名で書いてあるのではないか、とな。……抹消された者は本当に抹消されたのか。死んだことにされた者は本当に死んだのか」
俺は自分の手を見た。震えている手だ。死んだことにされている男の手だ。
「そうなったら、どうなる」
「帳面が信用を失う」
古椿はそれだけ言った。
「あの女がやっとることは全部、帳面が信用されとるから成り立つ。載っとるから守れる。載っとらんから守れん。……その前提が揺らいだら、白帳整理はただの紙の山じゃ」
老人はそこでめずらしく、真顔になった。
「じゃからな。あの島は、あの女にとっていちばん触られたくない場所じゃ。……そしてお前は、そこへ足を突っ込んだ男じゃ。向こうがお前を手元に置きたがるのは便利だからだけではなかろうな」
俺は何も言わずに地下を出た。
階段を上がる途中で一度だけ、振り返った。緑の光が前より少なくなっていた。
あの老人も順番を待っている一人だった。




