↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
帳の外 ―まだ、ここにいる―  作者: 佐和井 泥
第一二話 神祇庁は祈らない

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

92/107

12-5

 その夜、サエが事務所で膝をついた。


 前触れはなかった。窓辺に立って外を見ていた女が急に片手を窓枠についた。もう片方の手が右の手首を握っている。呼吸が浅い。


「サエ」


「……来た」


 彼女は掠(かす)れた声で言った。


「照会。私の古いほうの名前に」


 俺は端末を開いた。こちらからは見えない線だ。だが、彼女の身体には届く。名称照合の権限で旧名がどこかの卓の上に置かれた。呼ばれたわけではない。まだ、確認されただけだ。


 それだけでこの女の膝は折れる。


「呼ばれてない」


 サエが自分に言い聞かせるように言った。


「まだ、呼ばれてない。……調べられただけ。それなら、動かなくていい」


 だが、彼女の右手はわずかに開きかけていた。武器を構える手の開き方だ。身体のほうが、先に準備を始めている。


 俺は彼女の名前を呼んだ。今の名前を。


 サエの指がゆっくり閉じた。


「……悪い」


「謝るな」


「謝ってない。舌打ちしただけ」


 軽口を叩ける程度には戻っていた。だが、額に汗が浮いていた。この女が汗をかくのを俺は、数えるほどしか見ていない。


 サエはしばらく窓枠に手をついたままだった。


「前より、近い」


 彼女は言った。


「あの夜はあいつが、直接呼んだ。声で。……今夜は呼ばれてない。誰も喋ってない。なのに届く」


「線が太くなってる」


「そう。……あの女、私の名前を調べ直してる。何度も。少しずつ、深いところまで」


 サエは右手首から左手を離した。指がまだ震えていた。


「ねえ、ミナト」


 この女が俺の名前を呼ぶときはたいてい、面倒な話をするときだ。


「もし、私が命令に従いかけたら」


「殴る」


「効かないと思う」


 彼女はあっさり言った。


「あんたのときも効かなかったでしょ。……あれ、私が手加減したからじゃない。本気で殴った。それでもあんたの口は止まらなかった」


 俺は答えなかった。頬の腫れはまだ引いていない。


「だからこれは頼み事じゃなくて確認」


 サエはこちらを向いた。灰色の目がいつもより硬かった。


「私が従いかけたら、名前で呼んで。何度でも。……あんたの声はたぶん、届く」


「根拠は」


「私が呼んだら、あんたが戻ってきたから」


 それだけ言って彼女はソファに戻った。


 俺は灰桜(はいざくら)を噛んだ。


 根拠としては薄い。実験の回数は一回きりだ。だが、この街で俺たちが持っている確かなものはたいてい、そのくらいの薄さでできている。


     *


 狐からの連絡は店を閉めた翌日に来た。短い通信だった。


 ――閉めたままで悪いね。一つだけ、無料で流す。


 ――戦闘個体に再起動命令が出てる。旧名で。あの子だ。


 ナギ。


 名称照合の線は切った。あの夜、俺の震える手で命令の線だけを断った。記録の線は残した。だからナギの名前はまだ消えていない。宙に浮いたままだ。


 だが宙に浮いた名前は拾い直せる。


 いつだったか、白い廊下であの女が言ったとおりだった。切られた名前は宙に浮く。宙に浮いた名前はいつか、私のところへ落ちてくる。


 落ちてきたのだ。


 ――今のところ、届いてないらしい。線が切れてるからね。でも向こうは別の線を引き直してる。時間の問題だ。


 俺は返事を打たなかった。打てる言葉がなかった。


 あの子は逃げ足が速い。サエがそう言った。それだけを信じることにした。


     *


 そして最後に俺のところへ来た。


 深夜、事務所の端末が震えた。差出人の欄にまた俺の名前があった。


 久我(くが)ミナト。登録状態、死亡。


 だが、その下の行が変わっていた。


 稼働区分、更新。地下整理保守員から回収員へ。


 俺はその一行をしばらく見ていた。


 七年、俺の死んだ半分は保守員だった。地下の配線を見に行き、点検の記録をつける。それだけの権限だった。だから俺は、その権限を使って閉じられかけた案件を一枚だけ流すことができた。


 回収員は違う。


 回収員は対象のところへ行く。番号で呼び、停止許可を確認し、片づける。七年前まで生きている俺がやっていた仕事だ。


 それが、死んでいる俺のほうへ正式に戻された。


「顔が悪い」


 サエが言った。


「俺の死んだ半分が昇進した」


「なにそれ」


「保守員から回収員へ。……これから俺の名前で誰かを片づける指示が出る。俺がやるんじゃない。俺の名前がやる」


 サエは黙ったままだった。


「断れないの」


「断る欄がない。……辞退できたのは俺自身の回収だけだ。他人を回収する指示は死人の意思を訊かない」


 俺は灰桜(はいざくら)を噛んだ。青い光が震えた。


 先日、俺は自分の回収を辞退した。死者の権限を残すと決めた。内側への鍵を手放さなかった。


 その鍵が今、向こうの手で回されている。


 鎖であり鍵でもある、と古椿(ふるつばき)は言った。鍵として使うのは俺だと、勝手に思っていた。だが鍵は両側から回せる。


「指示は、まだ来てないの」


 サエが訊いた。


「まだだ」


「来たら、誰が対象になると思う」


 俺は答えなかった。


 考えたくなかった、というのが本当のところだ。俺が拾ってきた連中は、全員、整理の卓の上に並んでいる。そのどれが最初に回ってきても、おかしくない。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。