12-3
翌日から整理の手が伸び始めた。
最初に知らせが来たのは湾岸第七複合ビルだった。
俺が着いたときには正面に白い車両が二台停まっていた。企業の警備ではない。帳務院の査察車だ。制服の人間が三人、タブレットを持って出入りしている。乱暴なことは何もしていない。住民に丁寧に挨拶をして掲示板に通知を貼り、設備の写真を撮っていた。
貼られた紙を読んだ。住環境管理系統の登録内容に不整合が認められるため、査察を実施する。管理人格の登録状況について確認を行う——そう書いてあった。
管理人格。コマリのことだ。
あの子には登録名がない。登録される前に廃棄予定にされてそのまま生き延びた人工の座敷童だ。帳に載っていない。つまり、あの女の理屈では守れない存在にあたる。
俺はエントランスに入らなかった。入れば、ここに帳外屋が出入りしている記録が残る。それはこのビルにとっていい材料にならない。
かわりに道を挟んだ向かいの歩道から三階の窓を見上げた。
非常灯が点滅した。
赤、緑、緑。
また来てください。
いつもと同じ合図だった。査察の人間が出入りしている最中にあの子は、いつもと同じ合図を送ってきた。
俺はうなずいた。それだけしかできなかった。
だが、その後に見慣れない明滅が続いた。
赤、赤、赤。それから長い間。もう一度、赤、赤、赤。
知らない符号だった。コマリの合図は二種類しか知らない。おかえりなさいと、また来てください。これはどちらでもない。
あとで調べてわかった。旧防災系統の古い規格にある、避難誘導灯の点滅パターンだった。人を建物の中へ導くときの合図だ。
あの子は査察を受けながら、家を開ける準備をしていた。
その合図を俺以外にも見ていた者がいた。
査察の制服の一人が歩道の反対側で足を止めていた。若い男だ。三階の窓を見上げて端末を持ち上げようとしている。撮るつもりだった。
管理人格に不審な動作あり。そう書かれたら査察は一段上がる。
俺は息を止めた。
非常灯が消えた。
点滅ではない。消えた。窓の奥がただの暗い部屋になった。
制服の男はそのまま端末を構えていたが、やがて下ろした。同僚が何か声をかけ、彼は首を振って歩き出した。
俺はそこでようやく息を吐いた。
あの子は見られていることに気づいて、自分から灯りを落としたのだ。合図を送るより先に自分を消すほうを選んだ。
七年、この街で俺がやってきたことと同じだった。消えていれば数えられない。数えられなければ欄に入らない。
子どもの形をした人工物が誰にも教わらずにそれを覚えていた。
ビルの裏手へ回ると、住民が三人、非常口の外で煙草を吸っていた。若いオークと、老人と、子どもを抱えた女だ。
「あんた、管理人の知り合いか」
オークが訊いてきた。俺が答える前に老人が口を開いた。
「うちのビルはな、空調の効きがいいんだ。夜勤明けの奴が帰ってくる時間だけ、廊下が少し暖かい。……あれはそういう設定じゃない。誰かがやってる」
老人は自分の言葉に少し照れたようだった。
「査察の人にな、訊かれたよ。管理人格に不審な動作はありますか、って。……不審も何もあれがなかったら、うちの孫は、去年の冬に肺をやられてた」
女が抱えた子の背中を軽く叩いた。
「言ったんですか。それ」
「言えるか」
老人は鼻を鳴らした。
「言ったら、それが証拠になるだろう。登録のない管理人格が勝手に空調を動かしてました、って。……だから言わなかった。異常はありません、って答えた。全員、そう答えた」
この人たちは守っていた。
登録もされていない小さな座敷童を住民全員で書式の外から守っていた。証言しないという形で。何も言わないという形で。
俺はあの子が何を守ってきたのかをもう一度、思い出した。子どもが初めて歩いた廊下。老人が毎朝座っていたベンチ。夜勤帰りのオークが押したエレベーターのボタン。
覚えている側が、覚えられている側を守り返していた。
*
ビルを離れると、サエが歩道の柱に寄りかかって待っていた。
事務所を出るとき、来るとは言わなかった女だ。それが先回りしている。
「暇だったの」
訊く前に言われた。
「訊いてない」
「訊きそうな顔してた」
俺たちは、旧市街のほうへ歩いた。雨は上がっていたが、路面はまだ濡れている。歩くたびに、広告の光が水たまりの中で崩れた。
三つ目の交差点で、見慣れないものがあった。
白い仮設のテントだ。帳務院の印がついている。臨時再登録受付、と書いてあった。
列ができていた。
角の曲がった亜人の老人。作業着のままの若い男。書類を抱えた女と、その足元にしがみついている子ども。全員が静かに並んでいた。怒っている者はいない。誰かが声を上げるわけでもない。ただ、傘を畳んで、順番を待っている。
俺は足を止めた。
「怖いね」
サエが言った。
「並んでるのが」
「そう。……誰も、嫌がってない」
彼女は、列のほうを見なかった。見ずに言った。
「あそこに並べば、守ってもらえるんでしょ。医者にかかれて、事故に遭っても記録が残って、子どもが学校に行ける。……悪い話じゃない。並ぶ理由のほうが、並ばない理由より、ずっとわかりやすい」
「並ぶか」
「並ばないよ」
即答だった。
「私が並んだら、窓口で古いほうの名前を出される。あれを一回でも帳に載せたら、次に呼ばれたとき、私の身体は言うことをきかない。……あの列は、私にとっては、首輪の受け取り窓口」
サエはそこで、少しだけ口の端を動かした。
「でも、そう思うのは、私だけなんだよね。あの人たちにとっては、ただの受付」
返す言葉がなかった。
この街の大半の人間にとって、あのテントは、面倒な手続きの場所でしかない。並んで、書類を出して、少し待つ。それだけだ。悪意もないし、悲劇でもない。
同じテントが、ある種類の人間にとってだけ、入ったら出られない場所になる。
そういう仕組みは、外から見ているかぎり、絶対にわからない。
「ミナト」
サエが自販機のほうへ歩いていった。小銭を入れて、温かい缶を二つ買う。片方を、こちらへ放った。
受け取って、表示を見た。甘くない、と書いてある。
「よく覚えてたな」
「あんたが覚えてたんでしょ」
サエは、自分のぶんの蓋を開けた。
「甘いものが嫌いで、追加料金が口癖で、精神的苦痛費がやたら高い。……あれ、けっこう、腹が立ったの」
「褒めたつもりだった」
「知ってる。だから、余計に腹が立った」
彼女は缶に口をつけた。湯気が夜の手前の空気に溶けていく。
「で、今日は何軒回るの」
「あと二軒だ」
「じゃあ、付き合う」
「言っておくが、面白い話は一つもない」
「知ってる」
サエは、缶を持ったまま歩き出した。
「一人で回ってると、あんた、全部自分のせいにするから」
俺は、その背中を見ていた。
この女は、慰めない。励ましもしない。ただ、隣を歩く。今夜みたいな夜には、それがいちばん効いた。




