12-2
俺はモニターを消した。
消しても頭の中で声が続いていた。厄介なのは彼女の話が途中まで正しいことだった。
登録がなければ、救急は来ない。それは本当だ。俺自身が七年、それで生きてきた。まともな医者にかかれず、灰色の煙草で震えを抑えている。登録は確かに人を守る。
だが、あの女の言う登録は、コマリをビルから引き剥がすことでもある。サエを旧名へ返すことでもある。倉の空箱に匿われた声をまとめて上書きすることでもある。
正しい前提からまっすぐ歩いていちばん冷たい結論に着く。憎しみがどこにもないから憎み返す先もない。
窓の外では雨が降り始めていた。
「何日だと思う」
サエが訊いた。
「発動まで」
「刻限は言わなかった」
俺は言った。
「言わないほうが、揃うからだ。日付を出せば、その前に逃げる奴が出る。出さなければ、みんな様子を見る。……様子を見ているうちに囲みが閉じる」
「嫌な仕事の仕方」
「うまい仕事の仕方だ。俺も昔、そっち側で見てた」
サエは何も言わなかった。この女はそういうときに慰めない。
端末が震えた。狐からだった。
――久我くん。店、今夜は閉める。すまないね。
二行目があった。
――今日は誰も値をつけられない。買い手も売り手も自分の値段がわからなくなってる。等価交換が成り立たない夜は僕の商売はできない。
あの軽薄な情報屋が店を閉める。それだけでこの街の空気がどう変わったかがわかった。
*
俺はそれでも《尻尾》へ行った。
旧市街の地下へ降りる階段はいつもと同じ匂いだった。焦げた豆。こぼれた酒。湿ったコンクリート。霊煙の甘さ。だが、その奥にあるはずの人の気配がなかった。
扉は開いていた。鍵をかけていないのはこの男らしい。
中では狐が棚の瓶を一本ずつ布で包んでいた。金の指輪は、外して机の上に並べてある。指輪のない指は思ったより細かった。
「休業か」
「たぶん、もう少し長いね」
狐は手を止めなかった。
「客が来ないんじゃない。来すぎるんだよ。……昨日からうちに来る連中がみんな同じことを訊く。逃げ道はあるか、いくらだ、って。……それで僕は困った」
「なぜ」
「値がつけられない」
金色の縦瞳がこちらを見た。
「僕の商売は等価交換だ。相手が持ってるものと、僕が持ってる情報を釣り合わせる。……でもね、今この街でみんなが差し出そうとしてるのは自分の登録なんだ。自分が消えるか消えないかを卓に乗せてくる。……そんなもの釣り合う情報が僕の手元にあるわけがない」
狐は包んだ瓶を箱に入れた。
「等価交換にならない取引は詐欺だ。僕は情報屋であって詐欺師じゃない。……だから閉める」
俺は机の上の指輪を見た。借金の担保に取ったという噂の指輪だ。全部、外してある。
「あんたはどうする」
「僕かい」
狐は初めて手を止めた。
「僕はね、久我くん。登録がある」
それはこの男から初めて聞く種類の言葉だった。
「化けるのが下手でね。耳も尻尾も隠しきれてないけど、ちゃんと帳に載ってる。……だから整理されない。今度ばかりは僕が安全な側だ」
そう言って狐は笑わなかった。
「安全な側にいる人間が危ない側の連中から金を取るのはさすがに気が引ける」
「情報屋を二十年やってきてね」
狐は布で瓶の口を拭った。
「気が引ける、なんて言葉を使ったのは今日が初めてだ。……こういうのは商売が終わる音がするね」
「やめるのか」
「やめないよ。休むだけだ」
金色の目が布の上で一度止まった。
「でもね、久我くん。僕が今日いちばん高く売れたはずの情報は何だと思う」
「知らん」
「僕には登録がある、という情報さ」
狐は箱の蓋を閉めた。
「これを知ってるだけでこの街の連中は僕に何でも払う。匿ってくれ、名義を貸してくれ、って。……僕は一生ぶんの儲けを今日、店を閉めることで捨てた」
「後悔してるのか」
「するね。たぶん来月には」
冗談の形をしていたが、声は笑っていなかった。
「だから今日のうちに閉めるんだ」
俺は何も言わなかった。
この男は、軽薄で胡散臭くていつも笑っている。その男が今夜は笑わずに店を閉めている。
「一つ、置いていくよ」
狐は箱の中から古い端末を取り出した。
「うちの裏帳簿だ。この街で誰がどこの道を使ってるか。誰が誰を匿ってるか。……本当なら、これはいちばん高く売れる」
「いくらだ」
「持っていけ」
狐はそれを机に滑らせた。
「あんたが使うぶんにはたぶん、僕の商売の趣旨に反しない。……だってあんたも安全な側じゃないからね」




