11-8
施設を出る、その直前だった。
待機室の端末がもう一度点いた。
差出人不明ではなかった。白瀬透子。画面には文字だけで姿はなかった。だが、声が一言だけ、スピーカーから流れた。丁寧で静かで怒りのない声だった。
いつだったか、白い廊下で一度だけ顔を合わせている。切られた金属の粉が、舞う中で髪の一本も乱さずに立っていた女だ。姿が見えなくてもすぐにわかった。
『回収を辞退なさいましたね』
俺は答えなかった。
『わかりました。……ではこちらから伺います』
それきり、声は途切れた。画面が暗くなる。
脅しではなかった。予告ですら、なかった。ただ、次の手続きを事務的に告げただけだった。俺が内側の鍵を手放さなかった。だから向こうは鍵ごと、こちらへ来る。感情のある敵は間違える。感情のない帳簿は間違えない。ただ、順番どおり、進む。
その事務的な冷たさが怒鳴られるより、ずっと、怖かった。
「行くぞ」
俺が言うと、サエはうなずいた。廊下の白い光が背後で順番に落ちていった。青と桃と緑が一つずつ、消えていく。俺たちは生きてその部屋を出た。死んだ場所に生きて戻るのは行くより、ずっと、難しい。狐の言葉はたいてい、当たる。だが今夜は辛うじて外れてくれた。
外へ出ると、夜明け前の空気が頬に触れた。冷たくて湿っていて潮の匂いがした。生きている街の匂いだった。あの施設の中の消毒された無臭とはまるで違う。俺はその匂いを肺の底まで吸い込んだ。灰桜の霧ではなく、ただの外の空気を。……久しぶりに震えが少しだけ、収まった気がした。気のせいかもしれない。だが、気のせいでもよかった。
*
事務所に戻ると、朝になりかけていた。
俺は灰桜に火をつけた。青白い煙が天井へ昇っていく。手の震えはまだ残っていた。回収を辞退した以上、この震えはこれからも俺と一緒だ。止める道は今夜、自分で閉じた。
サエはソファに浅く座って目を閉じていた。半分眠っているようでその実、出入り口と窓の外を一定の間隔で確かめている。
いつもの事務所だった。擦り切れたソファ。灰皿。窓の外の湿った灰色。何も変わっていない。変わったのは俺のほうだ。自分の死んだ名前と、初めて面と向かって辞退、と答えた。それだけのことでこの見慣れた部屋が少し違って見えた。帰る場所がある、というのは、死んだ人間には贅沢な話だった。
頬が脈を打つように痛んだ。指で触れると、腫れている。
「痛むの」
サエが目を閉じたまま訊いた。
「殴ったのはお前だ」
「頼んだのはあんた」
「……ああ」
「効かなかったけどね」
その声が少しだけ低かった。効かなかった、というのは、この女にとっては失敗と同じ意味だ。約束を果たしたのに届かなかった。刃なら、どんな鉄でも切れる。だが、あの号令だけは切れなかった。
「効いたよ」
俺は言った。
「まだ、痛い。……痛いってことは俺がまだ、こっち側にいるってことだ」
サエは答えなかった。ただ、ソファの上で少しだけ、体の力を抜いた。
「ねえ」
サエが目を閉じたまま、言った。
「生き返れたのに辞退したの後悔してる?」
「してない、と言えば、嘘になる」
「正直ね」
「……ただ、生き返って内側の鍵を失ったら、たぶん、次に消される誰かを一人も、拾えなくなる。それはもっと、後悔する」
サエは少しのあいだ、黙っていた。
「あんた、昔は消す側だったのにね」
「ああ」
「今は拾う側」
「同じ手で、な」
俺は震える指を開いて閉じた。この手は番号を確認し、停止許可を押した手だ。同時に名前のない子の記録を消えない棚へ運んだ手でもある。どちらも同じ手だった。片方だけをなかったことにはできない。
サエはそれからほんの少し口元を緩めた。
「はぐれ者ね」
「知ってる」
端末が震えた。
白瀬透子。名義は隠されていなかった。本文は一行だった。
――継続監査対象、久我ミナト。回収、保留。当面、稼働のまま、経過を観察します。
俺はその一行をしばらく見ていた。
回収されなかった俺は帳簿の上で宙ぶらりんのまま、残された。死んでいて、稼働していて、監査されている。まともな立場ではなかった。この街でいちばん割に合わない場所だ。だが、消されてはいなかった。
窓の外で朝一番の街が目を覚まし始めていた。数える街の数えられる朝だ。その帳簿のどこかに久我ミナトという名前が、赤い付箋のついた欄で載っている。死亡のまま、稼働のまま、整理の順番を待ちながら。そしてその同じ帳簿の消えない棚の隅に名前のない子の、いた、という一行が、今夜から置いてある。
俺は煙を吐いた。
守れたものと、守れなかったものが、同じ夜の同じ帳簿に並んでいた。全部は救えない。ひとつだけ。この街でいちばん多い、勝ち方だった。勝ち、と呼べるのかもあやしい。だが、負け、とも違った。
俺は生きてはいない。表の帳簿にも戻らなかった。死んだ名前を抱えたまま、震える手で灰色の煙草を吸っている。
だが、まだここにいる。
名前を返せる側に、まだいる。




