↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
帳の外 ―まだ、ここにいる―  作者: 佐和井 泥
第十一話 生者は名前を返す

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

87/107

11-8

 施設を出る、その直前だった。


 待機室の端末がもう一度点いた。


 差出人不明ではなかった。白瀬(しらせ)透子(とうこ)。画面には文字だけで姿はなかった。だが、声が一言だけ、スピーカーから流れた。丁寧で静かで怒りのない声だった。


 いつだったか、白い廊下で一度だけ顔を合わせている。切られた金属の粉が、舞う中で髪の一本も乱さずに立っていた女だ。姿が見えなくてもすぐにわかった。


『回収を辞退なさいましたね』


 俺は答えなかった。


『わかりました。……ではこちらから伺います』


 それきり、声は途切れた。画面が暗くなる。


 脅しではなかった。予告ですら、なかった。ただ、次の手続きを事務的に告げただけだった。俺が内側の鍵を手放さなかった。だから向こうは鍵ごと、こちらへ来る。感情のある敵は間違える。感情のない帳簿は間違えない。ただ、順番どおり、進む。


 その事務的な冷たさが怒鳴られるより、ずっと、怖かった。


「行くぞ」


 俺が言うと、サエはうなずいた。廊下の白い光が背後で順番に落ちていった。青と桃と緑が一つずつ、消えていく。俺たちは生きてその部屋を出た。死んだ場所に生きて戻るのは行くより、ずっと、難しい。狐の言葉はたいてい、当たる。だが今夜は辛うじて外れてくれた。


 外へ出ると、夜明け前の空気が頬に触れた。冷たくて湿っていて潮の匂いがした。生きている街の匂いだった。あの施設の中の消毒された無臭とはまるで違う。俺はその匂いを肺の底まで吸い込んだ。灰桜(はいざくら)の霧ではなく、ただの外の空気を。……久しぶりに震えが少しだけ、収まった気がした。気のせいかもしれない。だが、気のせいでもよかった。


     *


 事務所に戻ると、朝になりかけていた。


 俺は灰桜(はいざくら)に火をつけた。青白い煙が天井へ昇っていく。手の震えはまだ残っていた。回収を辞退した以上、この震えはこれからも俺と一緒だ。止める道は今夜、自分で閉じた。


 サエはソファに浅く座って目を閉じていた。半分眠っているようでその実、出入り口と窓の外を一定の間隔で確かめている。


 いつもの事務所だった。擦り切れたソファ。灰皿。窓の外の湿った灰色。何も変わっていない。変わったのは俺のほうだ。自分の死んだ名前と、初めて面と向かって辞退、と答えた。それだけのことでこの見慣れた部屋が少し違って見えた。帰る場所がある、というのは、死んだ人間には贅沢な話だった。


 頬が脈を打つように痛んだ。指で触れると、腫れている。


「痛むの」


 サエが目を閉じたまま訊いた。


「殴ったのはお前だ」


「頼んだのはあんた」


「……ああ」


「効かなかったけどね」


 その声が少しだけ低かった。効かなかった、というのは、この女にとっては失敗と同じ意味だ。約束を果たしたのに届かなかった。刃なら、どんな鉄でも切れる。だが、あの号令だけは切れなかった。


「効いたよ」


 俺は言った。


「まだ、痛い。……痛いってことは俺がまだ、こっち側にいるってことだ」


 サエは答えなかった。ただ、ソファの上で少しだけ、体の力を抜いた。


「ねえ」


 サエが目を閉じたまま、言った。


「生き返れたのに辞退したの後悔してる?」


「してない、と言えば、嘘になる」


「正直ね」


「……ただ、生き返って内側の鍵を失ったら、たぶん、次に消される誰かを一人も、拾えなくなる。それはもっと、後悔する」


 サエは少しのあいだ、黙っていた。


「あんた、昔は消す側だったのにね」


「ああ」


「今は拾う側」


「同じ手で、な」


 俺は震える指を開いて閉じた。この手は番号を確認し、停止許可を押した手だ。同時に名前のない子の記録を消えない棚へ運んだ手でもある。どちらも同じ手だった。片方だけをなかったことにはできない。


 サエはそれからほんの少し口元を緩めた。


「はぐれ者ね」


「知ってる」


 端末が震えた。


 白瀬(しらせ)透子(とうこ)。名義は隠されていなかった。本文は一行だった。


 ――継続監査対象、久我(くが)ミナト。回収、保留。当面、稼働のまま、経過を観察します。


 俺はその一行をしばらく見ていた。


 回収されなかった俺は帳簿の上で宙ぶらりんのまま、残された。死んでいて、稼働していて、監査されている。まともな立場ではなかった。この街でいちばん割に合わない場所だ。だが、消されてはいなかった。


 窓の外で朝一番の街が目を覚まし始めていた。数える街の数えられる朝だ。その帳簿のどこかに久我(くが)ミナトという名前が、赤い付箋のついた欄で載っている。死亡のまま、稼働のまま、整理の順番を待ちながら。そしてその同じ帳簿の消えない棚の隅に名前のない子の、いた、という一行が、今夜から置いてある。


 俺は煙を吐いた。


 守れたものと、守れなかったものが、同じ夜の同じ帳簿に並んでいた。全部は救えない。ひとつだけ。この街でいちばん多い、勝ち方だった。勝ち、と呼べるのかもあやしい。だが、負け、とも違った。


 俺は生きてはいない。表の帳簿にも戻らなかった。死んだ名前を抱えたまま、震える手で灰色の煙草を吸っている。


 だが、まだここにいる。


 名前を返せる側に、まだいる。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。