11-7
俺はもう一度、履歴を開いた。
今度は読むためではなかった。探すためだった。この手が片づけた者たちの中にまだ拾えるものがないか。
廊下のほうでまた扉が閉まった。さっきより、近い。
それと、別の音が混じり始めていた。低い、機械の唸り。隔壁の向こうの部屋で長く眠っていた何かが動き出す音だった。施術台の駆動音だ。回収手順には、対象を固定する工程が含まれている。この建物は律儀に順番どおり、準備をしていた。
サエがそちらを見た。
彼女の左手が、右の手首へ上がりかけて──止まった。握らなかった。かわりに袖の下で赤い駆動線が灯った。
「先にあれを切ってくる」
「頼む」
「追加料金よ」
「後でいくらでも」
彼女は隔壁の向こうへ消えた。すぐに金属の断たれる音が二度した。駆動音が止まる。
戻ってきたサエは何も言わなかった。袖の下の赤い光だけが、まだ消えきっていなかった。
全部は拾えない。それはわかっていた。七年ぶんの回収をなかったことにはできない。死んだ者は生き返らない。倉の空箱の底で会った声のように匿われることはあっても戻ることはない。俺の手が奪ったものを俺の手で返しきることはできない。
だが、一つなら。
履歴の古い層に一件、目が留まった。
回収対象、氏名不詳。分類、未登録個体。備考——幼齢。
備考のその先にもう一行あった。
推定、四歳から六歳。発声、あり。
名前がなかった。氏名不詳、とだけ、あった。名前をつけ終わる前に片づけられた子だ。番号だけを振られて番号だけで片づけられた。俺が片づけた。震える手で番号を確認し、停止許可を押した。……頭は覚えていない。だが、手がその順序を今も覚えていた。
名前がなければ、いなかったのと、同じ。そう教えられてこの街は回っている。名前をつける前に片づければ、最初からいなかったことにできる。効率のいい、消し方だった。
いつだったか、ビルに宿った小さな座敷童が言った。覚えている人がいないと、その人はここにいなかったことになる、と。港の倉の空箱では、姉が、抹消された弟の折り紙の舟を握っていた。名前を返したい者たちを俺はこの街でいくつも見てきた。……そして名前を奪った側にも俺はいた。両方にいた。それが、俺の立っている場所だった。
俺はその一件の記録だけを拾い上げた。
名前は返せない。誰もこの子の名前を知らない。俺も知らない。だが、いた、という記録なら残せる。番号で呼ばれ、番号で片づけられた子が確かにいた。その一行だけを消えない場所へ置ける。
「古椿」
俺は割れたスピーカーに呼びかけた。
「一件、そっちの棚へ流す。……古い、氏名不詳の子だ。名前はない。だが、いた」
『……名前のないものをか』
「名前は生きてる奴がいつか、返せばいい。……今はいた、って記録だけ、消えないところに置いてくれ」
しばらく、沈黙があった。それから緑の目の老人がふん、と鼻を鳴らす気配がした。
『よかろう。……儂の棚は忘れ残しの置き場じゃ。名のないものも一つ、増えるくらい、どうということはない』
記録が古い回線を通って古椿の棚へ沈んでいった。復元ではない。生き返らせたわけでもない。ただ、もう最初からいなかったことにはできなくなった。それだけだ。
棚へ沈んでいく記録を俺は見送った。名前のない一行が緑の光の中へ溶けていく。この子を覚えている誰かが、いつか現れるとは思えなかった。名前を知る者はたぶんもう、いない。それでも記録は残る。誰も取りに来なくても倉が、荷を待つように古椿の棚はこの一行を待ち続ける。取りに来ない荷を待ち続けることをあの倉の付喪神は匿う、と呼んでいた。同じことを今、俺はこの老人の棚に頼んだ。
それだけのことが俺の震える手で今夜できる、たった一つのことだった。
「それでいいの」
サエが静かに訊いた。
「名前もわからない子でしょう。誰にも感謝されない。誰も知らない」
「知らなくていい」
俺は灰桜を噛んだ。
「名前はいつか、覚えてる誰かが返せばいい。……俺にできるのは、そこまでこの子を運んでおくことだけだ。いつだったか、運び屋の猫又が言ってた。荷の中身は訊かねえ。だが、届け先の顔は忘れねえ、って。……この子の届け先はまだ、いない。だから消えない棚で待たせておく」
サエが俺の横顔を見ていた。何も言わなかった。ただ、その灰色の目がいつもより、少しやわらかかった。
*
端末の中央に新しい表示が点いた。
回収対象、久我ミナト。回収を実行しますか。承認、または辞退。
二つの文字が青白く、点滅していた。
承認を押せば、俺は回収される。死んだ名前が片づけられ、生きた名前が戻ってくる。表の帳簿に久我ミナトが生き返る。まともな病院にかかれる。金も借りられる。手の震えも止まるかもしれない。……七年ぶりにこの街の内側で生きられる。
指が承認の文字の上で止まった。
押せ、と、体が言った。押せば、終わる。この施設からも、この震えからも七年ぶんの宙ぶらりんからも解放される。まともな名前でまともな街でまともに生きられる。……そのために失うものは目に見えない。内側への鍵。次に消される誰かを拾える立場。目に見えないものはいつだって手放しやすい。向こうはそれを知っていてこの選択を俺に差し出していた。
その瞬間、端末が俺を引き込もうとした。
うまく、言えない。画面の向こうから死んだ半分が手を伸ばしてきた感覚だった。おいでと。こっちが本当のお前だ、と。久我ミナトという名前が輪郭を失いかけた。俺が俺でなくなり、ただの回収対象の番号に戻っていく。名前が水に濡れた文字のように滲んで消えかけた。
いい気分だった。それが、いちばん怖かった。
これが死ぬということなのだと思った。撃たれるのでも沈むのでもない。ただ、名前が、ゆっくりと輪郭を失って番号に戻っていく。誰かにとって都合のいい、番号に。抵抗する理由が思い出せなくなる。それが、いちばん静かな、殺され方だった。白帳の消し方はいつもこうなのだろう。血も出ない。声も出させない。ただ、当人が、自分から消えることを選びたくなるようにできている。
あの氏名不詳の子もこうやって消されたのだろうか。番号で呼ばれ、抵抗する理由もわからないまま。……いや、あの子は発声、あり、だった。最後に何か叫んだ。理由の言葉にならない声でも出した。俺は今、声も出さずに自分から消えようとしている。あの子より、聞き分けのいい消え方をしようとしている。それは違う、と思った。せめてあの子と同じくらいにはあがくべきだった。
抗う理由を俺は探した。手の震えが止まる。医者にかかれる。……悪くない。悪くなさすぎた。悪くなさすぎて俺は自分がなぜ、辞退しなければならないのか、思い出せなく、なりかけた。
『回収対象、確認』
天井の声が言った。
『停止許可、発令済み』
その二つの言葉を俺は七年、聞き続けた。いつも誰かに向けて。今夜は俺に向けて言われていた。
口が勝手に動いた。
「──了解。対象番号、」
殴られた。
頬に硬いものが当たって、視界が白く飛んだ。サエの拳だった。手加減はしていなかった。約束どおりだ。
だが、俺の口は止まらなかった。番号の続きを言おうとしていた。痛みは命令の邪魔にならない。この身体は、殴られながら報告することにも慣れている。……そういうふうに作られた、七年だった。
サエの目がそれを見た。
殴っても駄目だと、わかった顔だった。
「ミナト」
サエの声がした。
旧名でもなかった。死亡記録でも、社員番号でも、回収対象でもなかった。俺が自分で名乗ってきた名前。この女がいつも呼ぶ名前。
「ミナト。戻ってこい」
滲みかけた輪郭がその一声で留まった。
不思議だった。殴られても止まらなかった口が、名前を呼ばれただけで閉じた。天井の声は七年、俺を番号で呼び続けた。回収対象、何番、と。その声には逆らえなかった。体が勝手に従った。だが、サエのたった三文字の名前には留まれた。命令には従う体が、名前には踏みとどまれた。……番号は人を押し流す。名前は人をその場に留める。たぶん、そういうふうにできている。
サエは俺のことを旧名で呼ばない。死んだ名前でも呼ばない。ただ、今の名前で呼ぶ。名前を選んだ女が、名前を選んだ男をその名前で呼び戻す。名前を返すというのはたぶんこういうことだった。奪われた側が取り返すのではない。まだ覚えている誰かが返してくれる。
俺は指を承認の文字から離した。
かわりに辞退の文字に触れた。
回収を辞退する。生き返る道を閉じる。死んだ名前のまま、内側の鍵のまま、残る。鎖のまま、残る。手の震えも社会からの締め出しも灰色の煙草への依存も全部抱えたまま。
辞退、を押した。
押した瞬間、指の震えがひどくなった。承認を押していれば、この震えは止まったはずだった。俺は自分の手で震えを選び直したのだ。楽になる道を閉じて。
天井のスピーカーが一度だけ鳴った。
『作業指示、辞退を受理しました。手順を中止します』
それきり、声はしなかった。廊下の奥で閉まっていた扉が順番に開いていく。遠いほうからこちらへ向かって。
この建物は、俺を片づけようとして俺が断ったら、やめた。恨みもしない。急ぎもしない。ただ、欄が一つ、埋まらないまま、残る。……それだけのことだった。
サエは何も言わなかった。ただ、俺の隣に立っていた。近すぎず、遠すぎず。倒れそうになったら、支えられる距離に。それが、この女のいちばんの優しさの示し方だった。言葉にはしない。ただ、支えられる場所に立つ。
端末の光が一度、大きく揺れた。それから静かに元の表示へ戻った。久我ミナト。登録状態、死亡。稼働、継続中。何も変わらなかった。俺は死んだままだった。ただ、自分の意志で死んだままでいることを選んだ。それだけが、昨日までと、違っていた。




