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帳の外 ―まだ、ここにいる―  作者: 佐和井 泥
第十一話 生者は名前を返す

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11-6

 端末のいちばん底の階層に触れたときだった。


 画面の表示が一瞬歪んだ。


 文字が水に濡れたように滲む。青と桃と緑の光がふっと、別の色に変わった。水面の色。常夜灯の色。褪せた金泥のような、この街のどの光にも属さない、第三の色。


 足首のあたりが濡れた気がした。


 いつだったか、倉庫の空箱の底で俺が触れた、あの水だった。呼んでもいないのに応えられた、あの読めない深さ。小さな箱を通り抜けてもっと大きな箱の中へ行けてしまった、あの夜の。


 水が下から昇ってくる気配がした。ありもしない水が。床は乾いている。なのに足首が、膝が冷たい。喉の奥で俺のものではない声がいくつも重なりかけた。溺れていないのに溺れそうになる。


 今夜も同じ水が足元から迎えに来ていた。歓迎ではない。害意でもない。ただ、こちらの都合とは、まるで関係のないところで水位が上がっていく。それが、何より怖かった。読める敵なら、身構えられる。だが、これは読めない。


 俺は灰桜(はいざくら)を強く噛んだ。青い火が口の中で荒れた。手の震えが止まらない。


『――久我(くが)』


 端末の割れたスピーカーから声がした。古椿(ふるつばき)の声だった。この老人は古い回線になら、どこへでも顔を出せる。死んだ保守回線の底にもあの緑の目は届く。


『触るな、と言いたいところじゃが……もう、触れとるのう』


「これは」


『お前がいつだったか、繋がってしもうたものじゃ』


 声がざらついた。


『あすこ、じゃ。今は辯才天(べんざいてん)と、そう呼ばれとる。水と、芸事と、名の女神——ということになっとる。……じゃがそれは後から貼った名じゃ。あれが本当のところ、何なのか、儂も知らん。記録なら、儂はたいてい覚えとる。あれだけは覚える取っ掛かりがない。名前の裏に何も書いておらん』


「なぜ、俺に」


『お前が半分、沈んどるからよ』


 老人の声がさらに低くなった。


『死んだ名前は半分、水の底にある。あの神と、同じ壊れ方じゃ。沈んだ者にしか、沈んだものは応えん。……お前が呼んだのではない。お前があれと同じ水に半分、浸かっとる。それだけのことじゃ。それだけのことがいちばん、質が悪い』


 俺は床のありもしない水を見た。


 その底に力があるのがわかった。触れれば、使える力だ。この施設の記録を俺の依頼を俺を追う者たちを——目で見て消してしまえる力。名前ごと、登録ごと、肉ごと、一度に書き消せる力。漏れ出てくるのが皮膚でわかった。使え、と、誘ってくる。使えば、楽になるぞ、と。


 その誘いは優しかった。脅してこない。欲しがってもこない。ただ、手を伸ばせば届く場所に在る。俺が七年間、死んだ名前でやってきたことと、同じ形の力が。目で見て消す。清潔に片づける。……ただし、こちらは清潔ですら、なかった。もっと生々しく、もっと読めない形で消す。それでも消すことに変わりはない。俺の死んだ半分がいちばん馴染む力だった。だから怖かった。


 この力を使えば、と、頭の隅が囁いた。追ってくる白瀬(しらせ)を目で見て消せる。俺を回収しようとする、この端末を消せる。俺の死亡記録そのものを消せるかもしれない。……七年ぶんのこの重たい鎖を水の底へ沈められるかもしれない。


 だが、古椿(ふるつばき)の言葉が耳に残っていた。使うたびにお前の名のどこかが水底へ引かれる、と。何が引かれたかは、後からあるいは永遠にわからない、と。……鎖を消すために名前を少しずつ、水に渡していく。それは回収されて生き返るのと、結局、同じことだった。どちらも久我(くが)ミナトを消していく道だ。


「……使えば」


『何が引かれるかはわからん』


 声は静かだった。


『使うたびにお前の名のどこかが水底へ引かれる。いつ、何が引かれたかは、後から、あるいは永遠に、わからん。……黒い水に手を入れるのと、同じじゃ。掬えることもある。掴まれることもある。底は一生、見えん。分かった気になるな。分かった気になった奴から可怪しくなる』


 俺は床のありもしない水を見下ろした。膝まで冷たい。喉の奥で俺のものではない声がいくつも浅く重なっている。溺れた大勢が、一斉に何か言いかけて言えずにいる。その声の一つが、俺の死んだ半分の声かもしれない、と思った瞬間、背筋が凍った。


 水面のような光のその奥に何かの輪郭があるような気がした。目を凝らすと、輪郭が増える。一つ、二つ、三つ——数えようとするほど、増えていく。目が多すぎた。人の顔なら、あるはずのない数の目。こちらを見ているのか、見ていないのかもわからない。見ようとするな、という声が耳の奥で鳴った。分かった気になった者から可怪しくなる。俺は目を逸らした。


『長居はするな』


 老人の声が遠くなった。


『あれは害意でそこにおるのではない。ただ、在るだけじゃ。害意のないものほど、こちらの都合では動かせん。……用が済んだら、水から足を抜け。急いでな』


 俺は灰桜(はいざくら)を噛んだまま、目を閉じた。


 使わなかった。


 使えば、たぶんこの夜は早く終わる。だが、終わらせ方が間違っている。俺はそういう終わらせ方を七年間、死んだ名前でやらされてきた。……それをもう一度今度は自分の意志でやるのか。


 やらない。


 足首の水が少しずつ、引いていった。喉の奥の重なった声も遠のいた。あとには気持ちの悪さと、止まらない手の震えだけが、残った。振り払えないものは振り払えないまま、抱えておくしかない。それにも少しずつ、慣れてきていた。慣れたくはなかったが。

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