11-5
廊下の奥にその部屋はあった。
番号だけの小さな部屋。扉に色の褪せた表示が残っている。待機室、と読めた。皮肉なものだ。俺の頭の中で何度も再生されてきた部屋にそのまま、待機室、と書いてあった。名づけた奴に想像力はなかったらしい。
中には椅子が一つと、古い記録端末が一つ。それだけだった。壁は記憶のとおり、白かった。天井の隅に監視用のレンズ。その下で青と桃と緑が今も順に切り替わっている。誰も見ていない部屋を機械だけが、律儀に見張り続けていた。
この椅子に俺は座ったことがあるはずだった。現場から戻るたび、ここで報告書を書いた。何を回収したか。対象は停止したか。書き終えると、次の指示が天井の声で降ってきた。……その記憶はない。だが、椅子の座面のへこみ方に見覚えがあった。誰かが長いあいだ、同じ姿勢で座り続けた跡だ。たぶん、俺だ。俺の体がこの椅子に残していった跡だった。頭より、椅子のほうが、俺を覚えていた。
壁際に細長い掲示板があった。古い運用表だ。回収実績、と、褪せた文字で書いてある。その下に月ごとの数字が並んでいた。件数だけ。名前も、種別もない。ただ、何件、片づけたか。数字の一つ一つが、誰かだった。俺はその表を長く見なかった。見れば、自分の稼働した月の数字がどれか、わかってしまう。……わかっても、何もできない。数字は名前に戻らない。
俺は椅子に座らなかった。座れば、体が、勝手に報告の姿勢を取りそうだった。かわりに端末の前に立ち、震える指を伸ばした。
旧式のアクセスキー。認証。画面に俺の死んだ名前が点いた。
久我ミナト。登録状態、死亡。稼働、継続中。
その下に稼働の履歴が流れ始めた。
同時に天井の隅で何かが低く鳴った。
監視レンズの下の古いスピーカーだった。長いこと使われていなかったものが、埃を吐くような音を立てて目を覚ました。
『作業指示を受理しました』
感情を消した、合成の声だった。
『回収対象、久我ミナト。当該対象の施設内進入を確認。手順を開始します』
廊下のほうで扉が順番に閉まっていく音がした。一つ、二つ、三つ。遠いところからこちらへ向かって順に。
俺は、動けなかった。
朝、俺の死んだ半分が出した、あの一行。久我ミナトを回収せよ。──あれは、俺への手紙ではなかった。作業指示だ。そしてこの建物は指示を受け取ったら、実行する。誰が対象かなど、確かめない。書式が揃っていれば、それでいい。
「ミナト」
サエの声が鋭くなった。
「今のあんたのこと」
「ああ」
「……この建物が、あんたを片づけようとしてる」
「そういうことだ」
俺は灰桜を噛んだ。青い光が震えた。
逃げるなら、今だった。だが、逃げれば、この端末には二度と触れない。俺が俺の七年を知る機会は今夜で終わる。
「読む」
俺は言った。
「間に合うの」
「間に合わせる」
*
俺はそれを読んだ。読みたくはなかった。だが、目を逸らせなかった。
最初の一行は七年前だった。秘匿任務に伴う、一時的死亡処理。承認、済み。任務終了後、登録を原状へ復帰する——そう、書いてあった。復帰予定、という欄があった。
その欄は空白のままだった。
誰も戻さなかった。戻す手続きを誰も押さなかった。理由はその先の履歴が語っていた。死んだ人間は使いやすかったからだ。社員でもなく、市民でもなく、記録にも残らない。何をさせても、誰の責任にもならない。生き返らせる理由がどこにもなかった。俺を戻す欄が、空白なのは悪意ですらなかった。ただ、誰にとっても都合がよすぎた。
履歴の別の欄に搬送の記録があった。俺をこの施設まで運んだ経路だ。地上の道ではなかった。地図に載らない、地下の搬送路。いつだったか、消えるコンテナ車列を追って俺がたどり着いた、あの道だった。
道路屋の老エルフがいつだったか、短く言った。昔、ここを閉じた。企業側でと。あの地下の道は、未登録の者を地上に出さずに運ぶ道であり、同時に俺のような者を、誰にも見られずに、こういう場所へ運ぶ道でもあった。地図にない道を通ったな。そこはお前を運んだ道でもある。差出人不明の一行の意味が今夜やっと、底まで届いた。
履歴は続いていた。
死んだ俺の名前でいくつもの作業が実行されていた。回収。回収。処分。回収。人工怪異の回収。未登録個体の処分。稼働終了に伴う、停止。……どれも清潔な言葉だった。血の匂いのしない言葉で血の出ることをしていた。
その一つ一つに手順があった。俺は手順の名前を読んだ。読んだ瞬間、指がそれを覚えていた。停止許可の確認の順序。報告書の嘘の書き方。対象を番号で呼ぶときの声の平らな作り方。
覚えていない。記憶にはない。何年ぶんかが頭の中ではただの白い霧だ。……なのに手が覚えている。頭が忘れたことを手だけが、律儀に握っていた。
記憶処理、という言葉を俺は知っていた。企業にいた頃、何度か、その手続きの名前を書類で見た。負担の大きい任務のあと、当該記憶を選択的に減衰させる。表向きは俺たちを守るための処置だった。……本当は、証言できない人間を作るための処置だった。覚えていなければ、しゃべれない。しゃべれなければ、告発もできない。忘れさせることはいちばん静かな、口封じだった。
俺は完全な被害者ではなかった。
死んだことにされた。戻されなかった。記憶を抜かれた。それはそうだ。だが、この手は動いた。命じられて動いた。震えながらでも動いた。回収対象を番号で呼び、停止許可を確認し、片づけた。忘れているのは頭だけだ。手は忘れていない。忘れさせてもらえなかった。
命令だった、と言うことはできた。逆らえなかった、とも。死んだ名前には意志を持つ権利すら、なかった、とも。全部、本当だ。だが、それを言い訳に並べるほど、俺は自分を許せなかった。並べれば並べるほど、片づけられた側が遠くなる。あいつらには、言い訳の一つも許されなかったのだから。俺だけが、言い訳を持っている。それが、加害の側に立った者のいちばん卑怯なところだった。
嫌になる。加害の記憶は、頭からは、消せても指の腹からは消せないらしい。
俺は履歴を先へ送った。
回収の記録には対象の様子まで書いてあった。抵抗の有無。発声の有無。……発声、あり。制止を無視。そんな事務的な言葉で誰かが、最後に何かを叫んだことが記されていた。何を叫んだかは書いていない。この施設の書式にそんな欄はない。ただ、発声、あり、とだけ。声は出た。だが、誰も聞かなかった。聞く欄がなかったからだ。
その声を俺は、目の前で聞いていたはずだった。手を動かしながら。なのに覚えていない。覚えていないことは、免罪にはならなかった。むしろ、いちばんたちが悪い。手は動かし、声は、聞いてそのうえで忘れることまで許された。忘れられる側は忘れてもらえないのに。
俺は灰桜を深く噛んだ。青い火が口の中で揺れた。
ここで報告書を書いていたのは俺だ。震える手で番号を書き、停止を確認し、承認、と記した。そのあいだ、俺は何を考えていたのだろう。何も考えないようにしていたのかもしれない。考えない訓練をこの待機室は俺に施したのかもしれない。手だけを動かし、頭は白くしておく。そうすれば、耐えられる。……そうやって耐えた先に今の震える手がある。
廊下の奥でまた一つ、扉が閉まった。さっきより、近い。
それでも俺は読むのをやめなかった。
端末の脇に古い紙の束があった。電子化されなかった、手書きの控えだ。俺はその一枚をめくった。
報告書だった。回収の。対象の番号。停止の確認。承認の署名。……その署名を俺は知っていた。俺の字だった。癖の強い、右肩の下がった、俺の筆跡だ。だが、書いた記憶はない。記憶にない字を俺の手が確かに書いていた。
紙には指で押さえた跡まで残っていた。強く握って書いた、力の入りすぎた線。……この字を書いたとき、俺の手はたぶんもう、震えていた。震える手でそれでも承認、と書いた。この震えは昨日今日のものではなかった。この部屋でとっくに始まっていた。
「ミナト」
背後でサエが低く言った。俺の様子を見ていた。
「読みすぎるな。……全部は読まなくていい」
「読まないと、こいつは、俺のことを忘れさせてくれない」
俺は灰桜を噛んだ。青い光。
履歴のいちばん奥に承認欄があった。妙に余白の多い、白い管理印。IX系のどの札とも頭のコードが違った。書式そのものが一段、上だった。
白帳。
古椿の言ったとおりだった。俺の死亡アカウントの大元の承認はあの親署名が握っていた。俺は白帳に載っていた。死んだまま、内側に。この街が消したはずのものをそれでも数えておくための裏の台帳に。
白い管理印を俺は指の先でなぞった。触れても何も起きない。ただの表示だ。だが、この一つの印が七年前、俺を死んだことにした。押した誰かには、たぶん何の感情もなかっただろう。回収対象を番号で呼ぶときのあの平らな声で承認、と口にしただけだ。人を消すのに憎しみは要らない。書式と、承認欄があれば、足りる。それが、この街のいちばん怖いところだった。
ふと、いつだったか、倉の空箱の底で見た、廃棄された声たちのことを思い出した。あの中に俺が、回収した者がいたかもしれない。俺が番号で呼び、停止許可を確認して片づけた誰かが空箱の中でまだ小さく、喋っていたかもしれない。
その考えは消毒液の匂いよりも深く、鼻の奥にこびりついた。
倉の付喪神は、捨てられた声を空箱に匿っていた。要らないと判を押された者を勝手に捨てるのは忍びない、と。……あのとき俺は、それを匿う側の話として聞いた。判を押した側に自分がいたとは思わなかった。要らない、と判を押す。番号で呼び、停止を確認する。俺の手がいくつ、あの空箱の中身を作ったのだろう。数えたくはなかった。数える資格もたぶんなかった。




