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帳の外 ―まだ、ここにいる―  作者: 佐和井 泥
第十一話 生者は名前を返す

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11-4

 依頼の指す座標は湾岸の外れにあった。


 旧・企業処理施設。今は看板もない、灰色の箱のような建物だ。地図の上ではとうに廃止されている。だが、狐の言ったとおり、電気だけは通っていた。窓のない壁の換気口からかすかに冷たい空気が漏れている。生きている建物の息だった。


 外から見ただけで俺の足は進みたがらなかった。理由は頭にはない。ただ、膝から下が重くなる。犬が昔叩かれた家の前で脚を止めるのと、同じだった。体だけが、ここがどういう場所かを知っていた。


 サエが俺の横に並んだ。彼女は建物を見上げなかった。かわりに俺の顔を見ていた。無理そうなら言え、という目だった。俺は無理だ、とは言わなかった。言えば、たぶん本当に動けなくなる。


「一つ、頼みがある」


 俺は扉の前で言った。


「中で俺がおかしくなったら。俺が俺じゃない受け答えを始めたら。番号で返事をし始めたら。……殴ってでも止めてくれ」


 サエは少し間を置いた。


「わかった」


 あっさりと、引き受けた。慰めも大丈夫だ、とも言わなかった。この女は起こりうる最悪をそのまま最悪として受け取る。そういう相棒だから俺はこいつになら、背中を預けられた。


 入り方は探すまでもなかった。


 植え込みの奥の保守端子。外装パネルの三箇所。指で押す順番も、力の入れ方も頭より先に手が知っていた。カバーがかちりと外れる。旧式のアクセスキーを差す。認証。


 嫌になる。ここへ来たことなど、覚えていない。なのに指だけが、道を覚えている。


 パネルを閉じるとき、指が迷わなかった。ここの外装は少し建て付けが悪い。左の角を先に押さえてから閉める。そんなことまで手が覚えていた。何度もここを開け閉めした手だ。何度もここから入った手だ。何をしに入ったのかは頭が教えてくれない。ただ、手だけが、勝手に慣れていた。


 便利じゃない。忘れたいだけだ。いつだったか、サエの同じ癖を見て皮肉った俺に彼女がそう返した。今なら、その意味が体でわかる。


 自動扉が音もなく開いた。


 中へ入った瞬間、俺の足が止まった。


 白い廊下だった。均一な、影のない光。物のない壁。消毒された、無機質な空気。認証端末の上で青と桃と緑が順に切り替わっている。


 鼻の奥に覚えのある匂いが立ち上がった。ありもしない匂いだ。消毒液。乾かない何か。白い報告書。


 待機室だ。


 いや——待機室に似た場所ではない。ここがあの待機室だった。俺のフラッシュバックがいつも連れ戻される、あの部屋の本物のほうだった。天井から感情を消した声が聞こえる気がした。回収対象、何番。停止許可、発令済み。


 指が震えた。俺は反射的に灰桜(はいざくら)をくわえ、フィルターを噛んだ。青い光。今はここだ。過去じゃない。……だが、その言い聞かせが、今夜はうまく効かなかった。ここは過去そのものだった。今と、過去が同じ座標に重なっていた。


「ミナト」


 サエが背後から短く呼んだ。


 振り返ると、彼女は廊下の入口で足を止めていた。左手が右の手首を握っている。ここは彼女の嫌う場所でもあった。清潔で無機質で施術台の匂いのする場所。


 だが、彼女は一歩前へ出た。


「今日は私が後ろを見てる。あんたは前だけ、見てろ」


 いつだったか、俺が彼女に言った台詞と、同じ役割だった。あのとき、俺は彼女の背中を見ていた。今夜は彼女が俺の背中を見るという。


 俺はうなずいた。うなずくのが精一杯だった。


 サエが廊下へ足を踏み入れた。


 彼女がこの世でいちばん嫌う種類の場所だった。密閉された空間。医療機器。拘束具(こうそくぐ)の記憶。ここは彼女の古傷をまっすぐに抉る場所でもある。それを承知で彼女は俺の背中側についた。


 いつだったか、俺は、彼女をこういう場所の外で待たせようとした。入るな、と。そのほうが彼女のためだと思った。だが、彼女は入ってきた。今夜は逆だ。俺が入る側で彼女がついてくる側だった。二人とも自分の傷の側へ自分から歩いていた。ばかな稼業だ、と思った。だが、一人で歩くよりはましだった。


 廊下を進むと、透明な隔壁(かくへき)の向こうに施術台が見えた。サエの足がそこで一瞬、止まった。左手が右の手首を強く握る。あの台を彼女は長く見ない。見ると、何かを思い出す。


「見るな」


 俺は短く言った。


「今夜は俺の番だ。お前は俺だけ、見てろ」


 サエは小さく息を吐いた。手首を握っていた手がゆっくり離れた。俺の背中に視線が戻るのがわかった。おあいこだ、と思った。彼女が俺の傷を見ないように俺も彼女の傷を見ない。だが、隣は歩く。

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