11-3
古椿のところへ行くのは久しぶりだった。
旧都庁第二庁舎の地下。廃止された行政サーバの部屋は、いつ来ても緑がかった薄闇に沈んでいる。壁一面のラックから古いブラウン管の光がぼんやりと漏れている。その部屋の真ん中に色の落ちた作務衣の老人が座っていた。作務衣の袖口から古いケーブルが何本も伸び、背後のラックへ吸い込まれるように繋がっている。血管がそのまま機械へ続いているようだった。
丸眼鏡にブラウン管の緑が、映って両目が、二つの小さなモニターのように光っている。人であって機械であってどちらでもない。
俺が入っていくと、老人は湯呑に二杯目を注いだ。俺のぶんではない。自分の二杯目だ。この老人は、客に茶を出すということをしない。かわりにこちらが黙って座るのを待つ。急かさない。時間の感覚が、生身のものとは少しずれている。忘れるのは便利じゃぞ、と、いつだったか笑っていた。忘れられない機械の痩せ我慢だった。
「来ると思うとった」
古椿は湯呑をすすった。
「お前さんの死んだ半分がな、昨夜、寝返りを打った。この街の古い帳簿がみしり、と鳴ったわい」
「あんたには聞こえるのか」
「古い音だけ、な。新しい音はもう、拾えん。……じゃが古い音はよう響く。お前さんの死亡記録は、この街でもいちばん古い部類の傷じゃ」
俺は灰桜をくわえた。火はつけない。
いつだったか、この老人は俺に言った。お前さんも昔、一度死んだことになっておる、と。その後で一度、俺は、自分の死んだ半分を少しだけ使った。地下の閉じられかけた案件を一枚この老人の古い棚へ流した。あのとき、古椿は言った。消すなよ。理由はまだ言わん。順番がある、と。
あれから俺は、その一言を喉の奥に引っかけたまま生きてきた。消すな、と言われた。理由は言わない、と言われた。順番がある、と。……順番の来ない約束ほど、重いものはない。いつか来る、とだけ言われて来ない。今夜、その順番が俺の名前で俺を呼びに来た。
「順番が来たのか」
「来た」
老人は湯呑を置いた。緑の目が俺をまっすぐ見た。
「死亡と、抹消の違いは前に話したのう。死亡は終わった記録。抹消は始まらなかったことにする記録。……お前さんのはそのどちらでもない。第三のやつじゃ」
俺はその話をいつだったか、この部屋で聞いた。死んだ河童の技師を記録の上で生き返らせようとした夜だ。あのとき、古椿は言った。死亡はいつか終わりが来る。抹消は始まりごと消される、と。……俺のは、終わりも、始まりも来ないやつだった。死んだことにされ、消されもせず、ただ、使われ続ける。いちばん、宙ぶらりんの殺され方だった。
「第三」
「死亡登録のまま、消されずに使われとる。……死んだことにしてなお、帳簿の内側に置いてある。生きた者は、帳簿の外からしか触れん。じゃが、死んだ者は内側におる。内側からしか開かん扉がこの街にはいくつもある。お前さんはその鍵じゃ」
俺は灰桜のフィルターを噛んだ。
「白い札の頭のことか」
「そうじゃ」
古椿は袖口のケーブルを指で軽く弾いた。ラックの奥で古い記録がかすかに明滅した。
「IX。あの頭のついた札はみな、配布用の下請けコードじゃ。住居。記録。道路。労働。人格。地下。橋。保管。名前。……領域ごとに配って回っとる。じゃがあれには親がおる。配る前の大元の帳面がな」
「白帳」
その言葉を俺はいつだったか、空箱の底で一瞬だけ見た。倉の付喪神が匿っていた、廃棄された声たちのそのさらに奥にIX系とは書式の違う語が、光った。白瀬が名称照合の線で握っていた語でもある。
「白帳は生きた者の帳面じゃ、ない」
古椿の声が低くなった。
「死んだ者と、抹消された者を内側に束ねておく帳面じゃ。この街が消したはずのものをそれでも数えておくための裏の台帳よ。……表の帳簿には載っておらん者。じゃが白帳には載っとる。お前さんもそこにおる。死んだまま、内側に」
「その白帳へ入れる穴が」
「お前さんの死亡記録じゃ」
老人は湯呑をまた手に取った。
「じゃからな、久我。消すなよ、と言うた。お前さんの死亡記録はお前さんを縛る、鎖じゃ。まともな医者にもかかれん。金も借りられん。この街から半分、弾かれとる。……じゃが、同時にそれは内側への鍵でもある。鎖を外せば、鍵もなくなる」
「なぜ、消さない」
俺は訊いた。
「消したことにしたなら、いっそ、本当に消せばいい。なぜ、内側に取っておく」
「数が合わんようになるからよ」
古椿は湯呑を両手で包んだ。
「消したものを本当に消してしまうと、消したという記録まで消える。そうすると、あとで勘定が合わん。何人、片づけたか。何をなかったことにしたか。それすら、わからんようになる。じゃからな、この街は消したものも数えておく。表からは見えん、白い帳面にな。……お前さんは消された。じゃが消したことは記録されとる」
「矛盾してる」
「役所というのはいつもそういうものよ。人を消すにも書類がいる。書類は残る。……皮肉なものでな。今、お前さんを生かしとるのはお前さんを殺した、その書類のほうじゃ」
「その白帳を握っとるのは」
俺が訊くと、古椿は緑の目を少し伏せた。
「名を出すのは好かん。……じゃが、お前さんはもう会っとるはずじゃ。名称照合の線を握っとった、あの女よ。あれは白帳の番人の一人じゃ。番人は穴をいちばん嫌う。お前さんという穴をな。……近いうちに向こうから来るじゃろう。丁寧に静かにな」
俺は答えなかった。丁寧で静かな敵ほど、始末に負えないことをいつだったか、嫌というほど、思い知らされていた。
「今朝の依頼は」
「回収せよ、じゃったな」
古椿は緑の目を細めた。
「回収されれば、お前さんは生き返る。表の帳簿に戻る。震えも止まるかもしれん。……そのかわり、鍵は失う。二度と、内側へは入れん。向こうはそれを望んどる。お前さんという穴を塞ぎたいのよ。生き返らせてな」
俺はしばらく黙っていた。
生き返る。まともな病院にかかれる。手の震えが止まる。もう、灰色の煙草に頼らなくていい。……悪くない話だった。悪くなさすぎてそれが、怖かった。
死んでいる、というのは、この街ではただの記録の話ではなかった。まともな医者は死人を診ない。銀行は死人に金を貸さない。行政の窓口は死人の列を受け付けない。俺はこの七年、そういう街の隙間を灰色の手段で埋めてきた。灰桜もその一つだ。生き返れば、それが全部、終わる。……終わってほしい、と、体のどこかが思っていた。その思っている自分がいちばん信用ならなかった。
「刻限は」
「向こうの依頼には期日がなかったじゃろう」
「ああ」
「期日を書かんのは逃げ場がない、という意味じゃ。……いつでもいい、というのはいつまでも追う、ということよ。急がんでいい。じゃが終わりも来ん」




