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その依頼は、死んだ男の名前で届いた。
深夜二時。都市行政網の誰も見ていない片隅で、一つのアカウントが目を覚ました。
登録名、久我ミナト。登録状態、死亡。最終更新は七年前。死んだまま稼働だけを続けてきた、宙ぶらりんの記録だった。地下整理の保守員名簿に繋がれ、命じられるまま動いてきたアカウントだ。だが今夜のそれは、命じられて動いたのではなかった。自分から目を開けた。
アカウントは、自分の権限で一件の作業指示を発行した。書式は正規。承認欄には妙に余白の多い、白い管理印。
回収対象、久我ミナト。
死んだ男が、死んだ男の名前で自分を回収しろと命じていた。
*
俺がそれに気づいたのは朝方だった。
事務所の古い端末が、受信の合図に一度だけ短く震えていた。灰桜に火をつけないまま口の端でくわえ、画面を覗く。依頼の受付欄に一件、入っている。
差出人の名前を見て俺は動きを止めた。
久我ミナト。
俺の名前だった。
依頼文は一行だけだった。前置きも、報酬の話も期日もない。ただ、命令の文体でそこにあった。
――久我ミナトを回収せよ。
俺はしばらくその一行を見ていた。灰桜のフィルターを噛むと、先端の認証チップが青く点いた。指先がわずかに震えた。空腹のせいでも切らしているせいでもない。この震えはもっと古い場所から来ている。
依頼人の連絡先を辿ろうとして辿れなかった。差出人の登録が途中で切れている。生きた人間の回線ではない。死んだ回線から死んだ名前で送られてきていた。
俺の死んだ名前から。
俺は事務所の窓の外を見た。夜明け前の東京湾岸区は湿った灰色をしていた。港のほうから潮と鉄の匂いが上がってくる。ふだんどおりの朝だった。ふだんどおりの朝に死んだ自分から依頼が来ている。その落差が、何よりも気持ちをざらつかせた。
「なにそれ」
ソファの端でサエが片目を開けていた。灰色の目が、俺の指の震えを一度だけ見て画面へ移る。この女は他人の手の震えを見逃さない。自分の手首を無意識に押さえる癖のある女だ。
「依頼だ。差出人が俺になってる」
「悪い冗談ね」
「冗談なら、笑えるんだがな」
サエはそれきり何も言わなかった。ただ、ソファから少し身を起こした。いつもは半分眠っているような女が背筋を静かに伸ばした。それが、この件を軽く見ていない、という合図だった。
「回収、って書いてある」
サエが画面を覗き込んだ。
「あんたを誰が」
「たぶん、俺だ」
「……趣味が悪い」
「同感だ」
軽口を叩いても震えは止まらなかった。サエもそれ以上は茶化さなかった。この女は笑えない冗談を無理に笑う女ではない。
俺は灰桜を口の中で転がした。火はつけない。つければ、震えは早く収まる。だが、収めてしまうのがなぜか、惜しい気がした。この震えは、思い出すための震えでもあった。忘れたい過去ほど、体の側に律儀に居座る。手の震えは頭が忘れたことを覚えている。
俺は受付欄のその一行を消そうとした。指が取り下げの操作を勝手に覚えている。だが、消えなかった。差出人を拒否できないのだ。自分の名前で来た依頼は、自分では取り下げられない。死んだ半分が、出したものを生きた半分が、突き返せない仕組みになっていた。よくできている。この街の帳簿は、いつも逃げ道の一つ手前できれいに道を塞ぐ。
いつだったか、地図にない道を通ったとき、差出人不明の一行が届いた。そこはお前を運んだ道でもある、と。あのときは意味がわからなかった。今も半分しか、わからない。だが、その半分が今朝、俺の名前で俺に依頼を出した。




