10-9
俺は、灰桜に、火をつけた。
青白い煙が、朝になりかけた事務所の天井へ、昇っていく。手の震えは、まだ、少し、残っていた。西のラボの、白い廊下の匂いが、まだ、鼻の奥に、こびりついている。あの部屋は、待機室に、似ていた。だが、待機室では、なかった。俺はもう、あそこにはいない。それだけは、確かだった。
そして、もう一つ。あの調整室の、名称照合の線を、切ったとき。俺の指の下で、古い規格の記録が、一瞬深く、沈んだ気がした。いつだったか、倉庫の、空箱の底で、俺が触れた、あの、読めない深さのほうへ。呼んでもいないのに、応えられた、あの水のほうへ。
気のせいだ、と思うことにした。今夜は、そっちの水は、昇ってこなかった。ただ、足首のあたりが、まだ、うっすらと、濡れている気がしただけだ。俺は、その感覚を、煙と一緒に、吐き出した。振り払えないものは、振り払えないまま、抱えておくしかない。それにも、少しずつ慣れてきていた。慣れたくは、なかったが。
端末が、震えた。
差出人不明――では、なかった。今夜は、送り主に名前があった。
白瀬透子。
直接、顔――いや、声を、合わせた夜だ。もう、向こうは、名を、隠さなかった。本文は、一行だった。
――継続監査対象に、一件、追記します。伊吹サエ。それと、久我ミナト、あなたも。
俺は、その一行をしばらく見ていた。
脅しでは、なかった。予告でも、なかった。ただ、帳簿に、新しい欄を、作っただけの、事務的な一行だった。俺たちの名前を、"帳"の上に、置いた。監視の対象として。整理の、順番待ちとして。
白瀬は、怒っていなかった。今夜、サエを取り戻せなかったことを、失点とすら、思っていなかった。ただ、欄を、一つ、増やした。それだけだった。
その事務的な冷たさが、怒鳴られるより、ずっと怖かった。感情のある敵は、間違える。感情のない帳簿は、間違えない。ただ、順番どおり、進む。
「なに」
サエが、片目を開けて、訊いた。
「監査対象に、入れられた。お前と、俺と」
「報酬は」
「監視付きの、毎日だ」
「最悪」
「知ってる」
サエは、目を閉じた。だが、その口元は、ほんの少し、緩んでいた。監査対象に、二人、並んで載る。それは、この街で、いちばん、割に合わない立場だった。だが、少なくとも、二人分の名前が、同じ欄に、載っていた。伊吹サエと、久我ミナト。どちらも、自分で選んだ名前と、一度死んだ名前だ。まともな名前じゃない。だが、消えては、いなかった。
窓の外で、朝一番の街が、目を覚まし始めていた。数える街の、数えられる朝だ。その帳簿のどこかに、今夜から、俺たちの名前が、赤い付箋のついた欄で、載っている。整理の、順番を、待ちながら。
俺は、煙を、吐いた。
どこか遠くの、地図に載らない場所で、ナギが、朝を、迎えているはずだった。名前を宙に浮かせたまま、誰にも守られないまま、それでも、いなかったことにはならないまま。迷いながら、次の名前を、探しながら。
鎌鼬は、風を切る。鉄も、命令も、名称照合の線も、切る。
切らずに残したものが、一つだけ、あった。自分の名前だ。
与えられた名でもなく、呼ばれるための名でもない。何度か選び直して、三番目か、四番目に、やっと手に馴染んだ名前。……憎い名前のほうも、憎いまま、抱えている。そうしておかないと、その名前で作られた者たちが、まとめて、いなかったことになる。
消される側にできることは、そう多くない。呼ばれ方を、自分で決める。……たぶん、それくらいだ。




