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帳の外 ―まだ、ここにいる―  作者: 佐和井 泥
第十話 鎌鼬は名前を選ぶ

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10-8

 夜明け前の、旧市街の外れ。


 ナギは、そこで俺たちと別れた。


 どこへ行く、とは、訊かなかった。行く当てなど、ないのは、わかっていた。登録のない個体が、この街で、行ける場所は、地図に載らない場所だけだ。地下の道。屋根の道。空箱の底。忘れられた回線の、向こう側。だが、そういう場所は、この街に、確かに、あった。俺は、それを、いくつか、知っていた。


「行くところが、なかったら」


 俺は、ナギに、言った。


「旧市街の、地下喫茶《尻尾》に、狐って情報屋がいる。胡散臭いが、はぐれ者は、追い出さない。……名前を、訊かれたら、ナギって答えろ」


『ナギ』


 彼女は、その名前を、確かめるように、呟いた。自分で選んだわけではない、サエが勝手につけた名前を。だが、番号でも、命令名でもない、名前を。呼ばれても、身体が勝手に動かない、名前を。


「気に入らなかったら、いつか、自分で、選び直せ」


 サエが、言った。


「私も、そうした。何度か。……最初の名前は、ひどいものだった。次の名前も。三つ目か、四つ目で、伊吹サエに、落ち着いた。だから、焦らなくていい。名前は、逃げない。逃げるのは、いつも、名前をつける側だから」


 ナギは、しばらくサエを、見ていた。それから、初めてほんの少しだけ、口の端を、動かした。笑ったのか、そうでないのか、俺には、わからなかった。だが、剥き出しだった刃が、少しだけ鞘に、近づいた気が、した。


 彼女は、それから、自分のコートの襟に、手をかけた。


 立てた。サエが、いつもそうするように。


 似ていなかった。角度も、手つきも、ぎこちない。だが、ナギは、それを、直さなかった。今夜、初めて誰にも命令されずに、自分でやった仕草だった。


 彼女は、夜明け前の、暗がりのほうへ、歩いていった。振り返らずに。だが、その足取りは、暴れていた昨夜の、無差別な刃の足取りとは、違っていた。行く先を、自分で、選ぼうとしている、足取りだった。迷いながら、それでも、自分の足で、選ぶ足取りだった。


「追撃が、来るぞ」


 俺が言うと、サエは、ナギの消えた暗がりを、見たまま、言った。


「来る。……でも、あの子、逃げ足は、速い。私と、同じ形式だもの」


 それは、めずらしく、誇らしげな、声だった。


     *


 事務所に戻る頃には、空が、白み始めていた。


 サエは、めずらしく、すぐには帰らなかった。ソファに浅く座り、灰色の目を、半分閉じている。今夜、彼女は、いちばん忘れたい場所へ行き、いちばん忘れたい名前を、呼ばれた。そういう夜のあとの彼女は、少しだけ静かになる。頬の掠り傷には、いつのまにか、小さな絆創膏が、貼られていた。


「疲れたか」


「別に」


「別に、で片づく顔じゃない」


「あんたの、口癖が、うつった」


 サエは、目を閉じたまま、少しだけ笑った。


 俺は、灰桜(はいざくら)をくわえた。火は、まだ、つけない。


「あの名前、聞こえなかった」


 俺が言うと、サエは、片目を開けた。


「白瀬(しらせ)が呼んだ、お前の、旧名。……聞こえたはずなのに、頭に、入ってこなかった。番号みたいで、記号みたいで、名前じゃなかった」


「そう」


「聞かなくて、よかったと思ってる」


「なんで」


 俺は、少し、考えた。


「聞いたら、覚える。覚えたら、いつか、俺が、それを、口にするかもしれない。うっかり。……そんなことに、お前の身体を、使いたくない」


 サエは、しばらく黙っていた。それから、ぽつりと、言った。


「変な男」


 その声には、いつもの棘が、なかった。


「私も、忘れたい。……でも、忘れない」


 彼女は、続けた。


「忘れたら、あの名前で作られた奴らが、いなかったことになる。ナギも。ナギの前の奴も、後の奴も。……私が、あの名前を、覚えてるうちは、あいつらは、いなかったことには、ならない。憎い名前を、憎いまま、覚えとく。……趣味が、悪いでしょ」


「悪くない」


 俺は、言った。


「いつだったか、古いサーバのじいさんが、言ってた。動けない者は、逃げる代わりに、覚える、って。……お前は、逃げた。逃げて、なお、覚えてる。逃げながら、覚える。それは、たぶん、いちばん、きつい抵抗の仕方だ」


 サエは、答えなかった。だが、その沈黙は、否定では、なかった。


 しばらく、二人とも、黙っていた。事務所の古い空調が、どこかの排気を、そのまま吐いている。窓の外が、少しずつ白んでいく。


「ナギ、生きていけるかな」


 サエが、ぽつりと、言った。他人の心配を口にするのは、この女には、めずらしかった。


「わからん。登録がない。守られない。……薄いまま、生きるしかない」


「私と、同じ」


「同じだ」


「なら、大丈夫」


 サエは、目を閉じたまま、言った。


「私が、生きてる。だから、あの子も、生きていける。……はぐれ者は、はぐれ者を見ると、少し、安心するの。ああ、一人じゃないんだ、って」

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